第1話

文字数 2,109文字

 いつものように、朝を告げる声がする。
 そして、その機械から出る音を丁寧に止めた。
 ベットから起き上がり、決まった所へ向かう。
 甘ったるい砂糖の塊を冷蔵庫から一粒取り出して、それを茶色で苦い液体で流し込む。
 
「……時間、やばいな」
 
 何かに追われるように支度をして、電車に乗る。
 降りた後は何も考えず、ただ歩いて建物を目指す。
 いつもの場所に入り、いつもの場所に座る。
 似たようなことをただ繰り返して、時計の針ができるだけ早く回転するのを、ひたすらに祈る。
 退屈で何にもならない場所から抜け出して、家に帰り、何も考えずに過ごす。
 そして、時間がきたらベットに潜り込み、朝を告げる声を待つ。

「ほんと、くだらないな」

 これが僕が歩んできた、そして、これから何十年と歩んでいく日々。
 多分変わるのは、ひと月に貰える紙切れの枚数くらい。
 僕らは紙切れに縛られて、人生の大半を無駄にする。
 それは何年、何十年が経っても変わらないんだろう。
 それが、人間という生き物の生涯だ。

 ――私のためなら、頑張れるよね?

 もう、それすらもない。
 意味を失ってしまった。
 これが普通で、これが一般で、これが当たり前。
 みんなやっていて、みんながそう。
 この生き方が誰もが望んで歩む、幸せな人生。
 誰とも違わないように、みんなと同じでありたくて。
 なんの基準も知らずに、感覚だけの普通を求める。
 みんなと同じであることが幸福なこと。
 普通の意味すら知らずにこだわって、僕もみんなの一部になった。

「いや、変わったこともあるか……」

 そう、変わってしまったことがある。
 僕は強制的に変えられてしまった。
 1人に出会って、人生が変わった。

 ――おはよう! シケた面してるね〜、君

 その声で、僕の全部は変わってしまった。
 絶望していた人生に光が差した。
 そんな彼女との運命の出会い。
 そんなものはないと思っていた、特別な出来事。
 
 ――そうだね。それも楽しそう、かな?

 やっと、自分が望んでいたモノ手に入れた。
 みんなとは違う、僕だけの普通。
 それからは彼女無しでは生きられなくなった。
 もう、離すことができないほどに依存していく。
 そして、

 ――ごめんね

 そして、特別で悲劇的な別れ。
 僕はそれすらも失くして、また抜け殻になった。
 この時間になったら思い出す。
 もう何も、残っていないはず。
 でも、その残り香で僕はおかしくなってしまった。
 今でも僕は、彼女を忘れられない。

 ――これなら、朝の目覚めは最高でしょ!

 音が、聞こえる。

 ――朝といったら、チョコだよね!

 声が、聞こえる。

 ――おかえり!

 ここにいてくれる。
 そして、いつも通りに声で起きて、ただ呟く。

「もう、いないけどね」

 一人きりになってしまったこの部屋で、僕は笑う。
 こんな出来損ないにも、待っていてくれる人がいた。
 不完全で、機械的な自分を求めてるれる人がいた。
 
 ――私はね、そんな君が好き!
 
 彼女は音のようにうるさくて、砂糖よりも甘い。
 こんな退屈で何にも残らないような日々も、彼女さえいれば形になっていた。
 意味を持たなかった紙切れすらも、彼女のためになら意味を持った。
 
「……きっと、特別だった」
 
 朝、静寂の中で決まったように目を覚ましていたのに、声があることが日常になった。
 何も口にしない朝に、チョコを食べるようになった。
 繰り返しの毎日が愛おしくなった。
 彼女の笑った顔が見たくて、頑張った。
 そんな日々で退屈を忘れて、僕は人の幸せを覚えた。

「とても、綺麗だった」

 唐突に失われて、過去になった。
 僕は残されたものに、しがみついている。
 そんな僕は、彼女にどう思われているだろう。
 その答えすら、二度と聞くことはできない。
 日々を送り、ただひたすらに朝を待つ。
 そして今日もやっと、この時間。
 ベットに潜り、会いにいく。

 ――恥ずかしいから、もうそれ使わないで!

 一緒に住む前の誕生日に君がくれたものだ。
 一生、大切にする。
 ずっと、ずっと、ずっと。

 ――甘いもの嫌いなのに、付き合わせてごめんね

 そうだよ。
 君が好きなものを、僕も好きなフリをした。
 その事を君が知ったのは、何年も後だったよね。

 ――どうせ、私はうるさいですよ〜、だ

 そうだったね。
 耳障りだと思ってしまったこともあるよ。
 それでも君の声に、君の明るさに、僕は救われていたんだ。

 ――先に、行って待ってる

 待ってよ。
 おいていかないで。
 独りにしないでくれ。

 ――救ってくれて、ありがとう

 僕は何もできてない。
 僕を救ってくれたのは君だった。
 
 また、あの夢だ。
 もうそろそろ、あの声が鳴る。
 意識はもうあるのに、朝を告げる声を待つ。
 この時間がないと生きられない。
 もう、おかしくなってしまったんだ。
 これが僕の唯一の幸せ。
 3、2、1。

「にゃあ! 朝だよ!」

 彼女の下手くそな鳴き真似で、また朝を迎える。
 嫌いなチョコレートを食べて、無駄な日々を過ごす。
 覚えてないと、普通に生きられなくなった。
 これが、これだけが、結びつけてくれると思ってる。
 きっと僕は、この甘い声に狂って、縋ってる。
 
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