第1話

文字数 1,788文字

 鈍感であることが許されるのなら、ずっと鈍感でいたい。日常の些細な機微にも気が付かず、ネガティブな思いに苦しめられることもなく、能天気にずっと笑っていられるのなら。どれだけ楽に過ごせるのだろうか。
 ボタンを押してシャッターを切る。画面に映し出される空は作り物のようにしか見えなかった。
 カメラ好きは父譲りだと、父本人から言われていたし、それは恥ずかしいことではなく、むしろ誇らしいことだった。いつも私がランドセルを背負って家を出る前に、皺一つないスーツを着て笑顔で行ってきますと出ていく父は、とても優しい人だった。休日になると、母が料理をしている間に、父が掃除と洗濯を終わらせる。私は気が向いた時だけ、二人の手伝いをする。それが我が家の当たり前だった。
 そして、昼ごはんを食べ終わると、それぞれが使った食器を自分で洗い、散歩に出かける。ルートに決まりはなかった。私があの角を曲がりたいと言えば曲がるし、母があの店が気になると言ったら迷わず入店する。喉が渇いたら、近くにある自動販売機でお茶と変わり種の飲み物を買う。それを三人で回し飲んで、まずかったらまずい、おいしかったらおいしいと言って最後には笑う。私と母が笑い合っている時、父も笑いながら知らぬ間にカメラを構えている。シャッター音が鳴らない設定にしているらしく、父のカメラの中にいる私達はいつも自然でありのままの姿をしていた。
 父は写真を撮ることが好きで、けれどこだわりはないらしく、私にもよくデジタルカメラを貸してくれた。幼い頃の私がなにも考えずに撮った写真はほとんどがブレていて、それも笑い話の一つになっていた。
 カシャリ、カメラが鳴る。
 けれど、考えすぎて撮った写真は美しくない。雲一つない青空も、私の持つカメラを通すと、なぜか汚れているように見える。
 父の写真が好きだ。父がカメラを構える瞬間が好きだ。私や母が笑っている時、父はふいにカメラを構え、写真を撮る。そして、すぐにカメラを下ろして、また私達と笑い出す。そういう父が大好きだ。
 カシャリ、カシャリ、カシャリ。
 まだつぼみのままの桜も、悠々と空を飛ぶあの鳥も、知らない家族の後ろ姿も、私が撮るとすべて作り物のように見える。
 思えば、撮り方を父に学んだことはなかった。そもそも父は、なにか強い信念を持って写真を撮っているわけではなさそうだったから、聞いてもきっとまともな返事はなかったかもしれない。
 私達が楽しそうな時、カメラを向けて、そしてすぐにその輪へ戻ってくる。月に一回、印刷をしてアルバムに丁寧に収めているその姿は、私にとっての尊敬できる父そのものだった。カメラにはカメちゃんと安直な名前をつけて、アルバムにもユートピアと名前をつけていた。ユートピアは本名でユーちゃんは愛称なのだと必要なのか分からない設定まで作っていた。
 ユートピアはどういう意味かと尋ねた私の幼い声に、父は理想だと答えた。けれど、その時の私にはその言葉を理解することができなかった。
 ずっと憧れていたものを二人に現実にしてもらえて、僕は幸せ者だなあ。
 父が私の頭を撫でながら言っていた。やっぱりその意味は分からなかった。けれど、父が私の前で、僕と言ったのはその時が最初で最後だった。
「未来。火葬始まるから戻ってらっしゃい。」
 淡々とした声が静かな空気に響いた。振り返ると、記憶の中ではいつも楽しげに笑っている母が、虚ろな目をして立っていた。
「・・・・・・トラブルの方はもう大丈夫なの?」
「私達には関係のないことだから、遅れてしまってすみませんって頭下げられても困るわよね。どうしようもないんだもの。」
 声も表情も一切の感情が見えない。
 母も今、私と同じように鈍感であろうとしているのだろうか。夫の死から、目を背けようとしているのだろうか。それができたら、どれほど楽だろう。
「お母さん。」
「なに。」
「今日はいっぱい泣こう。私達しかいないんだから。」
 私の声も母とよく似て、冷たかった。温度も湿りも感じない、悲しい声。そんな声に、母の目はきらきらと光を取り込み始めた。希望を抱いたわけではない、ようやく悲しめるところまでに来たのだ。
「お母さん。いつか、私もお父さんみたいにいい写真撮れるかなあ。」
 彩りのない着物に包まれた母のすすり泣く声が、もうすぐ春が来るこの空間に静かに響いていた。
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