第1話

文字数 2,814文字

これは2019年まだ国安法施行前の香港を舞台とした物語です。
『BITTER ENDERS』

(一)
 画面の右肩に突然『秋秋』の文字が現れた。トントン、トントン、ドアをノックするように点滅を繰り返す。夜中に目覚めどうにも寝付けず、ひとり居間のテーブルでノートパソコンを開いたときのことだった。『秋秋』 名前?  男?それとも女? 
パソコンから目を離し窓から差し込む柔らかな明りの先、大きな月が目にとまった。
「うん? ほれほれ、お前さんを呼んでるよ!」
お月さまが空の上から囁いたような気がして、思わず点滅する『秋秋』にマウスを当てた。
 
「私のこのメッセージを読んだらあなたが思うまま私に返信ください。私の名前は秋秋。香港人です。そう香港生まれの中国人ではなく香港人。二十八歳会社員、独身女性です。港大を卒業しましたが途中二年間留学生として東北大に通いました。仙台はとてもきれいな街。あの二年間の想い出は今でも私の大切な宝物です。私はいま自分の意志でデモに参加しています。こんなことは初めてです。でもどうしてもじっとしていられませんでした。香港、それは私のSoul Identityが宿る街。私が私であるための拠り所なのです。だから誰にも譲れないし誰にも汚されたくない。六月の「逃犯条例」の改訂反対がすべての始まりです。その時の私は今回のデモに参加していませんでした。私はテレビを観ていただけです。そのあと若い人たちが大陸、中華人民共和国への不満をデモで訴えるようになりました。「反送中」から「反中共」にデモは様変わりしていきます。十代の、私よりも若い人たちが香港政庁や中国政府に香港の自主独立を叫び出したんです。私はそれを観ていて全身が震えてしまいました。何かやっと来た!待っていたものがやっと目の前に現れた。そんなことを感じた体の震えだったと思います。
 確かに今までは経済第一、政治は二の次でした。六・四と呼ばれる天安門事件も今から三十年前のこと、私にとっては過去の出来事です。雨傘運動も結局経済優先でうやむやになってしまいこの社会の何も変えることはできませんでした。私の友達は言います。結婚してかわいい赤ちゃんや幼稚園に通う子供のいる人たち。「人に任せておきなさい。わざわざあなたがやらなくてもいいのよ。」確かに私一人の力は小さく参加してもしなくても大きな違いはないでしょう。でも、もういや。そういう他人任せは。私たちは今立ち上がらなければだめなんです。時代革命、それが今なんです。
 今夜、初めて火炎瓶を作りました。明日は最前線に出るつもりです。今日、日の出とともにこの火炎瓶をリュックに詰めてデモ現場に持って行きます。途中警官に止められたら私は逮捕されるでしょう。正直に言うと私は今迷っています。この先どんな行動を取るべきなのか。デモで知り合った中大四年生の彼、私より五歳も若い彼はすばらしいリーダーです。でもこの頃は何かに追われている、追い詰められて何かすごく焦っているようです。
 先日私が目撃したことです。それはデモの最中スマホに応援依頼のメッセージが入って1ブロック離れた通りに移動中のことでした。途中に前のデモで大きな窓ガラスを割られたスタバのお店があって今はガラスの代わりに厚いベニヤ板を窓枠に打ち付けWe are openの紙を表のベニヤ板に貼りながら営業を続けている理大近くの公園に面したお店です。さすがにその日は小さな入り口も板で締め切っていました。それを勇武派の人たちが入り口の錠をハンマーで打ち壊して中に入り机や椅子、カウンターや戸棚をグチャグチャに壊していたんです。私が止めようとしたらリーダーの彼が私の腕を取って入るなと止めたんです。今は仲間が我々の応援を待っているんだ。余計なことに関わってはだめだと言うんです。普段、そこで働いている店員さんもみな私たちと同じくらいの年恰好。毎日朝早くからそのベニヤ板で囲まれ日差しの入らないまるで大きな木箱のようなお店のテーブルやカウンターをきれいに拭いているあの人たち。これを見たらきっと悲しむと思うんです。デモに参加することと街中で暴れまわることは違うんじゃないか、自由を勝ち取るための破壊活動は正義なのか。・・・わからなくなってしまいました。こんなことをしていれば黒社会の人たちとやっていることはちっともかわらないじゃないか。・・・でも、でも、私、今夜この月が沈めば火炎瓶を持って家を出ます。」
「え?え?」
 慌てて空を見ると大きな月が西の山の端に沈みかけている。急いで返信しようとキーボードに指を当てたが、指先が固まって動かない。突然光り出したパソコン画面の右肩をつい衝動的にクリックしたら飛び込んできたメッセージ、どうやって返信すればいいのだろう? どこをどうしたら返信できるのか? ただでさえデジタル操作には疎いのだ。するといつの間にかパソコン画面が真っ白に変わった。後先を考えずにキーボードを打ち出すと文字が白色画面に打ち出されていく。
「はじめまして、秋秋さん。私は香港在住の日本人、名前は唐渡圭トワタリケイといいます。今年還暦を迎えた親父です。決して若い女性と付き合いたいなどという下心あっての返信ではありません。突然私のパソコンにあなたのメッセージが届き、そのメッセージの最後に月が沈んだら火炎瓶を持って家を出るとあったので大急ぎでこの返信を打ち出しました。早まってはいけません。今日はデモに参加してはいけません。今秋秋さんは自分の行動に疑問を抱いている。それならば尚更です。もう一度しっかり落ち着いて自分自身に問いかけてみるべきです。あなたさえよければ私はいつでも相談にのりますから。」
 ここまで打って白い画面をにらみながら腕組みしていると画面がポッポッポーオと輝き次第にフェードアウトして消えた。同時に奥の方から(送信しました)の文字が浮かび上がって来る。パソコンを見つめてしばらく待ったが再び『秋秋』の文字が蛍火のように画面に点滅することはなかった。何が起きたのか皆目解らない。その内、大きな夏みかんのような月が山の向こうに沈んで消えた。居間の時計を見ると朝の五時を少し回った頃だった。
 秋秋という彼女のメッセージ、書き出し部分は高飛車で要求高い香港人女性そのものだ。だが読み進んでいくうち繊細な心根を持った若い女性がひとり勇気を奮い起こして必死に向かい風の中を歩いている姿が見えてくるようで他人事と放っておけない気がしてきた。
 明け来る山際が緋色に輝くと太陽が昇り出した。辺りが薄いオレンジ色の皮膜に包まれていく。ビルの壁面が紅色に染まり出し、背後の山並みも紅黒く輝き出した。その山を二つ三つ越えればもうそこは中国だ。今しがた秋秋と名乗った女性が「香港を取り戻せ。時代は革命のときだ。」と叫び独立を求めて戦う共産党独裁政権の大国がそこに在る。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み