第1話

文字数 4,811文字

 風の便りが吟遊詩人を通して人々へ届いていた時代。
 これははるか昔の物語。
 そこには透き通る水の泉がありました。
 それは人生でたった一度しか行けない泉。
 泉には一匹のりゅうが住んでいました。
 りゅうのもとには毎日毎日人間達が訪れます。

 あるとき一人の商人がりゅうに向かって言いました。
「りゅうよ、りゅうよ、偉大なる願いのりゅうよ。私を大金持ちにしておくれ。」
 するとりゅうが答えます。
「よろしい。人の子よ。そなたの願いを叶えましょう。」
「そのかわり、そなたの最も大切なものをいただきます。よろしいですね」
 商人は泣いて喜び言いました。
「もちろんですとも。私の最も大切なものをあなたに捧げます。それで一生困ることない大金持ちになれるなら」
 こうして商人は大陸一の大金持ちになりました。そして商人の家から彼の妻がいなくなりました。
 
 またあるときは一人の傭兵がりゅうのもとを訪れました。
 傭兵は美人の奥さんをもらい、代わりに泉に赤い葡萄酒がばらまかれました。
 また別の日には一人の王様がりゅうのもとを訪れました。
 王様は決して裏切らない部下をもらい、代わりに泉に一つの冠が沈みました。

 何日も何日も泉のりゅうは人々の願いを叶え続けました。そしてその分だけ泉には誰かの大切なものが溜まっていきます。
 りゅうはポツリと独り言を呟きました。
「あぁ、気分がいいぜ。全く。人間共はみな何か大切なものを持っている。」
「そんな大切なものはみんな俺の泉にある。これほど贅沢なことはあるか?」
 カッカカッカと笑いながらりゅうは泉を泳ぎ回ります。
 ブワッと泉に沈んだ宝物が舞い上がりました。その中心でりゅうは体を揺蕩わせます。
 その時ふとした疑問がりゅうの心に浮かび上がりました。
「しかしなぜ、人間は大切なものをもう持っているのにもっともっと欲しがるんだろうな」

 泉のりゅうは欲しがりのりゅうでした。しかし自分自身の願いを叶えることは出来ませんでした。
 なぜならりゅうには一つとして大切なものがなかったからです。

 ある風の強い晩のことです。
 泉に一人の母親が赤ん坊を連れてやってきました。母親はダイヤモンドの指輪のついた人差し指で赤子を指して、こう言いました。
 「りゅうよ、りゅうよ、偉大なる願いのりゅうよ。私の病を治しておくれ。代わりにこの娘をくれてやる」
「全くあんな穢らわしいケダモノの頼みなんて引き受けるんじゃなかったわ。」
 りゅうはいつものように彼女の願いを叶えます。
 たちまち母親の患っていた病は治りました。
 しかし、願いの代わりにその母親が失ったのは彼女自身の命でした。
 彼女の体が泉の中へゆっくりと沈み込んでいきます。
 畔には泣きじゃくる一人の赤ん坊が残されました。
 
 りゅうは泣き止まぬ赤ん坊に問いかけます。
「人の子よ。そなたの願いはいったいなんだ?」
 しかし赤ん坊は喚くだけで何も願いを言いません。
「おい!泣いてばかりいないでなんとか言ったらどうなんだ?」
「願いだよ、願い。一つくらいあるだろう。もう、困っちゃうでしょうが!」
 それでも赤ん坊は願いを言いません。
「…」
「お前、もしかして喋れないのか?」
 赤ん坊はその場から動かず、じっとりゅうをみつめています。
「お前、かわいそうなやつだな。自分の願いも言えないなんて」
 湖畔に響く泣き声の中、ポツリとりゅうの一声が風に流されて飛んでいきます。
「…とにかくここは風が強い」
「この前ちょうどよい木の洞を見つけたんだ。そこに連れて行こう」

 それからりゅうは人間に赤子の育て方を聞いたり、願いの代償となった誰かの大切なものを使ったりして、人の子を育て始めました。
 それはただの気まぐれでした。
 あるいは人間を見捨てることのできないりゅうの性なのでしょうか。とにかくりゅうは根気強く、丁寧にその子を育てていきました。

「ねぇ、りゅう様。」
「なんだ?」
「この棘のある植物はなあに?」
「そんなものに興味を持ったのか。それはただのイバラさ。ここらへんにはいくらでも生えている」
「ふーん。なんかこれかっこいいね」
「かっこいい?これがか?」
「うん、だって」
少女は幼い人差し指をりゅうに向けこう言いました。
「りゅう様に似てるから」
 りゅうには少女がわかりませんでした。りゅうはかっこいいと誰かに言われたことはありませんでした。今までどの人間もりゅう自身のことに興味を持つことはありませんでした。

 何年もの間、少女とりゅうは一緒に話をし続けました。イバラには花が咲くことや、泉の水面に月が映ることはみんな少女が発見したことです。りゅうは何百年もここにいたのに、自分の周りの世界について何も気づくことが出来ませんでした。りゅうの心にほっこりと美しい景色が流れ込んで来ます。

 そんな日々を送る間も人の欲望はとどまることを知りません。泉には今日も人間共が願いを叶えに来ます。
 今日も来ました。
 明日も来ます。
 明後日もきっと来るでしょう。
 りゅうは彼らの大切なものをひたすらに集め続けます。
 人の欲望はとどまることを知りません。
 それは例えその人自身の手を離れたところでも。
 見捨てられたかつての宝物たちはいったいどうなることでしょう。
 
 ある風のない晩のことでした。月が艶々とイバラの泉を照らします。
「りゅう様、私ね。旅がしたいの。それで広い世界を見てみたい。私が生まれたこの世界のことについてもっともっと知ってあげたいの。」
「そうすればきっとこの世界が寂しく無視されることはなくなるでしょう」
 その言葉を聞いてりゅうは心の中で人間のことを嫌っていたことに気がつきました。願いを叶えようとする人間たちはみな、自分のことしか考えていなかったからです。
 美しく、広いこの世界のことを考えられる人間は今まで一人としていませんでした。
 りゅうは少女の夢を聞いて、きっとこの子なら世界を愛せる人間になれるだろうと感じました。
 りゅうは少女に贈り物をします。
「君にこの野薔薇を渡そう。大切に大切に育てるんだよ。そうすれば君の願いは必ず、必ず叶うから」
 りゅうは少女が独り立ちできるようになったとき、彼女の美しい願いを叶えてあげられるようにそう言いました。
 少女にとって人生で初めてのプレゼントは彼女の一番大切なものになりました。

…。

……。

 それは突然のように思われました。しかし実を言えば、それは当たり前の積み重ねだったのです。
「こほっ」
 始まりは少女の小さな小さな咳でした。


 もし…。
 もし、泉の中のものがずっとほっとかれ続けたら?。
 …。
 誰もこのことに気づかなかった。
 食べ物は腐るだろう。
 鉄は錆びるだろう。
 そした人の亡骸は穢れるだろう。
 そんなものが何百年も溜まり続けたら?
 そしてそんな"泉"の水と共に幼い頃から生き続けたら?
 泉は沼に、願いは毒に。
 そして少女は…。

 いつからか、その"沼"には誰も近寄らなくなっていました。
 その沼に近づくと幸せを失うと、そんな噂が流れ始めたからでしょうか。
 あるいは、その沼に近づくと病に冒され命を失うと、そんな噂が流れ始めたからからでしょうか。
 いずれにしても人間共の間ではその場所がイバラのように他人を傷つけ、その地に住むものが毒のように人々を苦しめるとしてこう呼ぶようになりました。
「イバラ沼の毒のりゅう」
 それは自分勝手な人間共の、忘れ去られた欲望が積み重なってできたもの。

「りゅう様、なんだか最近調子が悪いの。」
 少女は潤んだ瞳でりゅうを見つめます。
「大丈夫かい?そうだここに薬があるよ。随分前のものだけど、人間が万能薬と呼んでいたからきっと治るさ」
 …それでも少女は良くなりません。

「りゅう様、今日ちょっと立てない。しばらく寝ていてもいい?」
「あぁ、いいよ。ちょうどいい。このベッドを使うといい。ちゃあんと乾かしておいたからふかふかで気持ちいいぞ」
 ……それでも少女は良くなりません。

「りゅう様、りゅう様。そこにいる?」
「あぁ、いるよ。ずっといる。だから大丈夫。大丈夫。」
 ………それでも少女は良くなりません。

…それは風の吹きすさぶ夜のことでした。
「りゅう様。私ね。もう駄目かも。」
少女の体は痩せこけ、体中に痣がうかび、目ももう見えてないようでした。
 りゅうはもう何も言うことができません。それでも彼は娘の話を全て聴くことができるようにじっと耳をすまします。
「…」
「昔聞いた、お母さんの話と一緒ね。結局、私も私のことが一番大切なんだ」
りゅうには初めて大切なものができました。
 …しかしそれでもりゅうは願いを叶えることはできません。
「あんなに夢があったのに…」
「世界を旅してみたかったのに」
「今はそれよりも…」
 暗闇から雫が溢れてきます。かつて娘に託した野薔薇は今も沼地で綺麗に咲いています。
「父様、私死にたくないよぅ。」
「私、父様に忘れられたくないよぅ」

 かつての少女なら、きっとりゅうは願いを叶えてあげることができたでしょう。
 しかし今はもう…。
 彼女の病を直せば、代わりに彼女が自身の命を失う。
 彼女も自分の命が一番大切になってしまいました。
 けれどそんな当たり前のことを一体誰が叱ることができるでしょうか。
 りゅうは…。
 りゅうは自分のことしか考えない人間は嫌いでした。
 でももうそんなことはどうだってよいのです。
 涙がぽろぼろ溢れます。毒のりゅうはその涙の飛沫が彼の娘に当たらないように顔を背けます。

「娘に生きていてほしい」
 それがりゅうのたった一つの願いでした。しかしそれももう叶いません。なぜならりゅうにとっても、一番大切なものは彼の娘の命だったからです。

 欲しがりの毒のりゅうは結局人間の欲望を理解することはできませんでした。
「なぜ、人間は大切なものをもう持っているのにもっともっと欲しがるんだろうな」
 大切なもの一つ救えない毒のりゅうには決して理解できないものでした。
 
風が凪ぎ、暗夜の中を小さな小さな声が泡沫のように弾けます。
「父様。」
今際の際に彼の娘が最後に願います。
「父様。どうか私のことを忘れないで。」
「だからね。父様。私ね。願いがあるの」
「どうか私のことを忘れないでね」
「そのためにね。私。考えたの。」
「父様に私の命をあげる」
「その代わりにね父様。父様がね。人間になって。」
「それで、私の代わりに世界をね。旅して。旅するの。」
「父様。それで私の話をいっぱいの人にいっぱいしてね。」
「そしたら。私。寂しくないから」
「父様。わがままでごめんね」
「父様。どうか。私のことを忘れないでね」

 …りゅうは「わかった」と一言いって。
 それから。
「りゅうの子よ。愛しき我が子よ。そなたの願いを叶えよう。その代わり」
 りゅうの言葉が詰まります。りゅうは涙を流し続けながら言葉を続けます。
「ぞのがわり、ぞなだの最も大切なものをいだだきます。よろじいですね」
 りゅうの子は静かに「うん」と答えます。
「ぞれから、もゔ一つ」
 りゅうは声を張り上げ彼のせめてもの願いを、せめてもの償いを叫びます。
「君に名前をづけだい。ほんどはもっど早くづげるべきだった。」
「愛しき我が子よ。俺に世界の美しさを教えてくれた君の名前は…」
 大きく荒れ吹く風が、りゅうとその娘の大切な思い出を襲います。それでも"それ"は決して倒れることはありませんでした。


 ここは街角の小さな酒場。
 このような場所では風が世界を回るように、人の噂が詩とともに語られます。
「おい、あんたその格好。吟遊詩人だろ。いっちょ一つ詩を詠ってくれや」
「…いいでしょう。人の子よ。私はそのために生きているのですから」
 彼は娘の存在を忘れてしまわないように、今日も詩を詠います。
「いばら沼の毒のりゅう」
 その詩はきっと風に乗って世界中を旅するでしょう。
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