天上の誘惑

文字数 1,667文字

 天上の誘惑

 男は、ただの領主であった。
 毎日家々を巡り、種籾も残らぬ家からガラクタでも何でも取り上げ、それもなければ家の者を連れて行く熱心な領主であった。血走った目、大声を出し過ぎて枯れた声に、貧乏人は震えるしかなかった。
 ある日、惨状を聞くに忍びず、西にある寺の僧が男の家に押しかけた。不機嫌そうな顔で酒を飲む男に僧は説法を解くが、まるで聞く耳を持たない。怒った僧が貴様のような男は、餓鬼道にでも堕ちてしまえと言うと、男は笑うだけだった。
「餓鬼? そんなもの俺は信じん。死んだ人間が変わるのは土くれよ」
 溜息一つ、僧は杓を燐と鳴らすと、ぶつぶつと呪文を唱えだした。途端に、男が持っていた盃の中身は汚泥に、膳を埋め尽くしていた御馳走は全て木炭に変わった。
「お望みなら、このまま堕としてやろうか……!」
 僧は少々脅しを込めて男に言った。恐れおののいて頭を下げる男に、僧は優しく諭す。今からでも仏の道に生き、天上界に生まれ変われるよう努力するようにと。男は改心し、生活を変える。そこまでは、まあ良かった。
「天上に行くというのに、生半可な行いでは安心出来ん」
 凝り性の男があらぬ方向に進み始めるのは、時間の問題だった。
 まず男は、三人いた女房全員を家に帰るよう言い、帰る場所がないと言った女は無理やり外に追い出して二度と入れないよう従者に言いつけた。男は言った。
「姦淫は地獄に通ずる道だ」
 次に男は、家財道具の殆どを売り払い、その金で家を仏具で埋め尽くした。元は広間だった空間には七尺を超える仏像を置き、人に見せる事も無く、毎日毎日一人で拝み倒した。男は言った。
「御仏に仕えるのに、家財などいらぬ」
 次に男は、今まで辛く当たって来た貧乏人たちに施しを与えることにした。ただその施しというのが、常軌を逸している。狩り立てた作物の殆どを施しに回すものだから、民は働かぬ男の家族にも飯が足らぬ。見かねた長男が男を引き留めると、激高して男は言った。
「仏道を理解せぬお前など、この家にはいらん!」
 男は長男を、自分を諫めた僧のいる寺に放り込んだ。
 長男から惨状を聞くに忍びず、僧は一人男の家に向かった。田は荒れ果て、人一人居なくなったその土地では、僧衣に身を包んだ男が一人あばら家の中で、金箔の禿げた仏像に向かって熱心に経を唱えていた。
「おお、和尚殿」
 痩せぼそり、腹だけが異様に出た男は、ギラギラした目に狂喜の色を浮かばせた。伏し目がちに僧が挨拶し、この惨状のわけを尋ねる。
「どうもこうも、見ての通りだ」
 憤懣やる形無しと、男は吐き捨てた。
「どいつもこいつも、御仏の教えを理解しようとせず、俺から甘い汁ばかりすすろうとするので、片っ端から追い出したらこのザマよ。だがな和尚、俺は後悔していない」
 骨と皮ばかりの顔に苦渋の汗が浮かんだかと思うと、男は水の入った盃を傾け一息ついた。どれだけ洗わずに使ったのか、盃の水は濁り、中には得体の知れぬ蟲の死骸が浮かんでいる。男が続ける。
「……はあ。だってな、和尚。邪な連中がいなくなったおかげで、この地はよりガンダーラ、仏の世界に近付いたのさ。必ず、俺は救われるとも。俺は必ず、必ず、必ず!」
 そう言うと男は、埃だらけの膳から何かをつかみ取ると、一口でそれを飲み込んだ。恐らく魚と思しきそれは腐り過ぎて、まるで炭のように真っ黒だった。膳に乗っかっているもの全てがそうだった。
「そうだな……貴様は御仏の下に行くだろう」
 悲しく僧が微笑むと、男は笑った。ギラギラと、血走った眼を見開いて。
「そうだとも、救われるよ、俺は。必ず、必ず、必ず……」
 男はぶつぶつ言いながら、また仏像の方に向かい合った。部屋に入り込む西日に背を焼かれながら、男は祈り続けた。
「必ず、必ず、必ず……」
 残された僧は立ち上がり静かに一礼すると、男の家を後にして帰り道を行った。道中、仏に対して男の無事を祈りながら。
「私なら地獄に行っても構いません。ですからどうか、あの男を貴方様の下へ」
 沈みゆく西日は、冷酷にもその姿を山裾に隠してしまう。
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