03 もう嫌だ

文字数 4,026文字

 頭のなかが――真っ白になっていた。
(クレス)
(これを運んでおけ)
(ふざけるな。病気のふりか)
(飯だと? やったばかりだろう。二日前? 知るか)
(その死体を片付けろ)
(できないと言うなら)
(――殺すぞ)
「久しぶりだな。昨夜は驚いたぞ」
 汚らしい格好をした大男は、汚らしい色の歯を出して、クレスの恐怖だけを呼び起こす笑みを見せた。
「お前がこの街で暮らしていることは知ってたが、まさか昨夜、あんなふうに行き会うとはな。殴り倒したあとでお前と気づいて、驚いたよ」
 ダタクはクレスに近く寄ると、手を伸ばして少年の両肩を強く掴んだ。逃げようとか避けようとか、そういった当たり前の思考が働かず、クレスはそのまま、乱暴に引き寄せられた。
 怖い。
 昨夜にひとり、石の床で孤独を覚えたときよりも、この恐怖の方が強かった。ぐるぐると回る考えに心を翻弄されるのではない。何も考えられない。ただ怖い。
 言うことを聞かなければ殴られる。従順にしていたところで、虫の居所が悪ければ蹴り飛ばされるのだ。逆らえば、きっと殺される。
 これは、理性的な思考ではなかった。
 ダタクはずっと、クレスを使える(・・・)と思って近くに置いてきたのだ。本当に殺してしまえば、また新たに子供を仕込まなければならない。そんな面倒をかけたくないから、ずっとこの少年を連れていたのだ。本気で逆らえば殺されたかもしれないが、びくついている間は逆に、命の危険はなかったと言える。
 クレスは決して愚かではないのに、そうやって考えることはできなかった。ダタクを前にすればその世界しか知らなかったときと同じように、ダタクの言葉は絶対となった。命じられればそれに従うために走りだすのは、太陽(リィキア)が東から昇って西に沈むのと同じくらい当たり前であった。その日々のことが、何とも容易に蘇る。
 そのように刷り込まれているのだ。
 少年を人間とも思わなかった男から解放されて半年。
 身を守るため、命じられると反射的に動き出す癖が染み付いていた少年は、ごく普通の酒場では「真面目な努力家」であると認められ、褒められ、笑いかけられて、自身の世界が異常であったことを知るようになった。
 新しい暮らしに幸せを覚え、過去の恐怖を引きずることなく、ただの悪夢として割り切ろうとしていた矢先に――暗い話を聞き、血の海に放り込まれた。
 放り込んだのは、彼につけられたままの足かせの先を放していなかった、この男だったのか。
「ここの座長をちぃと脅して、幻惑草の煙をばらまくやり方のタネを吐かせりゃ、大儲けだ。町憲兵に疑わせておきゃ、商売人はびびるからな。後ろ盾になってやるとでも言えば、たいてい巧くいく」
 男は得意気に話し出した。
「ファヴに魔術師の弱みを握らせるつもりでいたのに。あのアマ、すぐに金をもらえないなら脱けると言いやがった。びびったんだな」
 ダタクは少年の両肩を解放して、にまにまと続けた。
 逃げろと、クレスの理性は言った。
 だが、動けない。それに、逃げたとしてもすぐに捕まる。昨夜のように、殴られる。その思いが少年の足を地面に釘づけていた。
「それに、あれは魔術なんだから俺には真似できねえとか抜かしやがった。腹は立ったし、せっかくのネタを吹聴されても厄介だ。あいつは()るしかあ、なかったが、二度も三度も町憲兵に捕らえられるなんざ馬鹿げてる。そこにお前は、実にいい生贄だった訳だ」
 くっくっ――とダタクは耳障りな笑い声を発した。
「あのとき、お前ひとりが捕縛を免れたんだと聞いていた。いずれは罰を与えてやらにゃならんと思っていた。何とも昨日は、ちょうどいいところにいたもんだ」
「罰」
 ぎくりとする。
 殴られ、蹴られ、荷馬車から突き落とされた、生傷の絶えなかった日々。何もしていなくても、難癖をつけられて好き勝手にいたぶられた。
 何もしていないのに、罰だと、言って。
「殺してやってもよかったが、ファヴの殺害犯に仕立てる思いつきは最高だった。いいもん、持ってたな。あの小刀がありゃあ言い逃れできねえだろうと思った。俺や連中が受けたように、強制労働所で苦しませてやるなんてのは、いい罰だ。馬鹿な町憲兵め、俺の思う通りに動きやがった」
 ダタクの隊商が関わっていた犯罪のことは、クレスは何も知らない。だから、トルーディの判断は正しかった。しかしそれはダタクの逆恨みを呼び、男は自分の暗い計画に、まさしく生贄として少年を引き込んだのだ。
「だがよく抜け出したな。まさか無罪放免じゃあるまい。脱獄とは、畏れ入る」
 男はにやりとした。
「お前は思っていたより、見込みがあるのかもしれんな」
 感心したような声だった。見込みがある、とバルキーに言われたことを思い出す。あのときはあんなに嬉しかったのに――こんな男に褒められても、何も嬉しくなかった。
「こい、クレス。また、世話をしてやろう」
 嫌だと言いたかった。ふざけるなと、突っぱねたかった。
 だが、幼少時代から刻み込まれた恐怖の記憶は少年の足をそのまま大地に縛りつけ、反抗する言葉を飲み込ませた。
 悪夢だと思いたかった。
 しかし判っていた。
 これは何とも理不尽な、現実!
「俺とこい」
 再び、ダタクは言った。
「お前はもともと俺のもんだった。それなのに、バルキーが勝手に盗みやがった。俺ぁ、お前を貸し出してたことにしてやると金で許してやるつもりだったのに、払えないなんざナマ言いやがって」
「――どうして、バルキーのこと」
 思いがけず出てきた名前に、クレスはか細い声を出した。
「何だ、知らなかったのか」
 ダタクは嫌な笑い声を上げる。
「まさかあいつが、親切にお前を助けたと思ってるんじゃないだろうな? あの野郎は、お前を捕まえてりゃ俺に対しての札になると考えたんだ。俺が、便利な道具を失いたくないだろうと」
 ――道具。
 便利な、道具。
 少年は足もとが崩れていく思いだった。では、バルキーはダタクと繋がりがあって、そのために彼を拾ったのか。そして、彼のことをモノのように考えていたのだろうか。ちょっと褒めるだけで馬鹿みたいに喜び、必死で働く――使える道具。
 ダタクのように殴らなかっただけで、同じように、利用をしていたのだと。
「だがあいつも軟弱な奴だ。俺に取り引きを持ちかけるどころか、自分と娘に手を出さないでいてくれるならいつでもお前を持っていけとよ。話が早くて結構だがな」
 がらがらと、崩れた。
 店主の笑顔を信じていた自分が、間違っていたのか。
「こい、クレス。また一緒に楽しい旅をしようじゃないか」
 嫌だ。もう、あんな目に遭うのは嫌だ。
 でも、ここで断ることができたとしても、〈赤い柱〉亭にも戻れない。バルキーは、自分とウィンディアのために、彼を見捨てたのだ。
 恨む気持ちは湧かなかった。店主が、可愛い娘と、ほんの半年ばかり一緒いた「便利な道具」に過ぎない少年と、どちらを選ぶかなど判りきったこと。バルキーを恨みはしない。だが――。
(それじゃ、俺にはもう)
(戻るところがない)
 アーレイドで、初めて放り出されたときと同じ。彼は何もかもなくしてしまった。いや、あのときよりももっと悪い。いまのクレスは犯罪者で、捕らえられればファヴの殺害と脱獄と、その両方の罰を受ける。
「強制労働所なんかに叩き込まれりゃ、お前なんざ、一日も保たずに死んじまうな」
 男は、少年の恐怖を読み取った。
「捕まりたくは、ないだろう?」
 自分の手を取ればその罰からは逃れられると、男はそう言った。
 それは、悪魔(ゾッフル)の囁きだった。
 ダタクとの生活は獄界同然だと知っている。だが、捕縛から逃れ続け、捕まっても脱獄を果たした男であれば、確かに少年は、彼ひとりよりもずっと安全な逃亡生活を送れるだろう。
「クレス」
 悪魔が彼を呼んだ。
「守ってやるぞ」
 町憲兵から。捕縛から。強制労働所から。処刑から。
 詭弁であった。少年にそれを与えようとしたのは、当のこの男であるのに。
「俺といれば全て巧く行く。さあ、クレス」
 巧く行く。
 本当に?
 少年は、両の拳を痛いほど、握り締めた。
「――嫌だ!」
 そこでクレスは、思い切り叫んだ。
「何だと」
 男は怖ろしい顔をした。だが、クレスは首を振った。
「お前と一緒になんか、行くもんか! 俺は何もしてない、きちんと容疑を晴らす!」
「ガキひとりで何ができる」
「ひとりじゃない」
 クレスは、ダタクを睨んだ。怖かった。足が震えそうだ。けれど、腹に力を込めた。
「ひとりじゃない!」
 リンは彼を手伝ってくれる。ヴァンタンも。
 そうだ、と彼は思った。
 まだ、全てを失ってはいない。
「クソガキめ。ちょっと放っておいたら生意気になりやがって」
 バシイ――と音がして、頬が熱くなった。
「言うことを聞け!」
「嫌だ!」
「何ぃっ」
 反対の頬が殴られた。ふらつく少年の身体は蹴り飛ばされ、地面に倒れ込みかける。だがそこを男はまたひっ掴み、彼の胸ぐらを掴んだ。
 昼日中のこの暴行は、クレスにとって何とも不幸なことに、天幕の裏側で行われていた。街びとの目につけば、誰かしらが町憲兵を呼びにでも行っただろう。だが、そうはならぬままだった。
 ここは単純に人目につかぬし、もしたまたま目にした者がいたとしても、一座の子供が厳しく教えられているだけだと考えるかもしれない場所だ。
「てめえは俺のもんなんだ! 道具が逆らうんじゃねえ。もう一度、最初からしつけをやり直してやらにゃならんか、ええ!?
 嫌だ。嫌だ、嫌だ。
 殴られるのはもう嫌だ。
 でも、言うなりになるのはもっと。
「嫌だ!」
 三度(みたび)、クレスは叫んだ。
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登場人物紹介

クレス

料理人見習いの少年。荒くれ者の一団にこき使われていたが、その連中が捕まったことにより真っ当な暮らしを手に入れる。無法者たちに育てられたも同然である割には、善良な感性を持っている。


リン

人混みのなかでクレスが出会った相手。「確かな効用のある不思議な品」を集めるという、一風変わった趣味を持つ。本人は、趣味ではなく商売だとしている。

ラウセア・サリーズ

アーレイドの若き町憲兵。いささか理想主義が過ぎるところがあり、先輩から厳しく指導されている。

ビウェル・トルーディ
アーレイドの熟練町憲兵。よくも悪くも事件慣れしており、断定的なところもあるが、全くの出鱈目な判断をすることはない。

ヴァンタン
自称「善良な一市民」。実際、特殊な地位も資格も持っていない、ただの配達屋。お人好しとお節介が高じて、町憲兵隊の誤った判断に真っ向から立ち向かうことがある。

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