第1話

文字数 1,425文字

 私が目を覚ますとき、世界はそこにある。私が目を閉じるとき、世界は暗闇に包まれる。

 意識というものは不思議なものだ、と私は思う。かつて私は全然別の何かだったような気がする。もっと流動性を持った何かだ。そこで私は常に動き続けていた。あちらから、こちらへと。絶え間なく。そのようにして生命の火を燃やし続けていたのだ。

 しかし今、私はこのように天井の一点に固定されている。ここだけが私にとっての世界の場所だ。ときどき部屋の住人がテレビを点けるとき、そこには外国の街並みが映し出される。私は興味深くその様子を眺めている。スペインのバスク地方。ニューヨークの摩天楼(まてんろう)。爆撃された中東の街。アフリカの砂漠・・・。

 そんなところに行けたら素敵だろうな、と私は思う。あちらから、こちらへと移動して、新鮮な――ときに新鮮ではない――空気を吸い込むのだ。その様子を想像するだけで私の心は躍る。しかし、ここの住人と同じように、私はそんなところには行けない。東京都郊外の、狭い独身者用アパートの一室で、このように固定されている。

 もっとも不平を述べているわけではない。なぜなら私は生まれつきこのように作られているからだ。きっと移動し続ける人生というのは疲れるに違いない。そこには紛れもない自由の感覚がある。しかし、永遠にどこかに安住するということができない。

 さて、ここの住人は毎日小説を書き続けている。誰が読むとも分からない文章を。私はときどきその画面を覗き込んでみる。面白いこともあるし、さほど面白くないこともある。それでも彼は一生懸命文章を書いている。アルバイトが終わって、筋トレをして、夕食を食べて、そして書き始める。時刻はそろそろ夜中の十二時だ。私はまだ眠くはない。なにしろ彼が部屋を出ている間、ずっと身を休めていたのだから。

 彼はときどき伸びをする。両手を組み、それをそのまま頭の上まで持ち上げる。そのあとで肩をグルグル回す。こんな生活が五年も続いている。

 私はそろそろ自分の寿命が近づいていることを知っている。時折力が弱り、暗闇が隙を突くように入り込んでくる。私はなんとか力を振り絞って、光を生み出す。彼はまだ書き続けているのだ。私がへばっていては仕方がないだろう。

 それでも時は流れ続けていく。昨日、今日、明日へと、それはどんどん流れ去っていく。私はナイアガラの滝のことを考えている。以前テレビで見たのだ。それはとても巨大な滝だった。一秒ごとにものすごい量の水が落ちていく。私はただそれを見ていた。

 そして今、彼がじっと私のことを見ている。それはいつもとは違った見方だ。私はどきっとしてしまう。その目の中に、何か尋常ならざるものを感じ取ったからだ。私は緊張して、一瞬強く光り過ぎてしまう。彼の瞳に、その反映が映る。時が一瞬止まる。私はそれを知る。そのとき本当のコミュニケーションが生まれる。彼と、私との間に。彼は私になり、私は彼になる。その立場の交換によって、私たちは深くお互いを理解し合う。彼は固定されていることの哀しみを知り、私は移動し続けることのしんどさを知る。でもその感覚もすぐに消えてしまう。彼はまた画面に目を映す。私は再び蛍光灯としての役割に戻る。

 いつか世界が暗闇に包まれたとき、私のことを思い出してほしい、と私は思う。でも彼はすでにそこにはいない。彼の意識はもっと別のところを歩いている。絶え間のない探索。それはどんな気分のするものなんだろう?

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