今私が凶悪にビールを飲む理由

文字数 1,359文字

私は、期待された短距離マラソンの選手だった。
軽い練習のコーナーでなぜか転んだ。
走れなくなった。
コーチが去った。走れないのは私のせいではなかった。立ち上がれなきゃいけなかった。
立ち上がれない私の回りからは人が去っていき、引き留めようと下手に出たら恋人も去った。
すべての「なぜ」がよく分からないうちに、山でトレイルランをしていたら崖から落ちた。
いよいよ足は折り紙みたいになった。
崖の下には本の一冊もなかったからか、私は言葉を話せなくなっていた。
話すことも何もできないと、なぜ生きているかわからなくなった。
ご飯を食べるのをサボっていたら、なぜか市役所の職員がやってきた。
施設へ入るか聞かれて首を横に振ったら、よく分からない建物に連れていかれた。
そこは大手チェーンの病院施設だった。私の病室は、8人の詰め込まれた鍵のかかった部屋だった。
部屋からは出られなかった。
きれいなおばあさんがいた。シーツ交換の時に叫ぶというので強い薬をのまされて、意識はあるのにもごもごとしていて、なにもわかることは言わなかった。今はもう亡くなったお母さんに連れてこられて、14の時から82歳になる今までずっとこの施設に入っているらしかった。
施設は世の中から忘れ去られていて、ただ人をいれておくことに意味があるみたいだった。
世界に放置された人間がごろごろいた。世界から否定された場所、みたいな表現がぴったりだと思った。
言葉を話せず誰とも繋がりのない人に対して、すべての仕事はおざなりで乱暴だった。
私は、人生のほとんどを認知もされていなかったおばあさんの手を握った。
おばあさんは私をチラリと見て、驚いたように一瞬息を飲んだ後、長いこと吸引されてない痰のからんだ荒い息を繰り返した。そのかなり後に、苦しんで死んだ。
おばあさんの足の骨は人知れず折れていた。持ち上げようとすると嫌がって叫ぶわけだわと看護師が話していた。施設の老人にはよくあることらしかった。
私は亡骸のふとんに隠れて外に出た。
外は死ぬほど色がついていて、しばらくクラクラした。涙が出た。
夜になると、何をするべきかもわかっていた。なぜかは分かり切っていた。
私は走った。
もちろん、ランニングのフォームも何もなかった。ただ私には走る必要だけがあった。
施設の壁に齧り付くと、窓から侵入して鍵を開けまくった。
外に出た人はだあだあ泣いた。歩けずに外が恐ろしくて出ない人もいたが、連れ出した。
全ての人は外に出すと小さく叫んで長い長い息をついた。
私たちは飲み屋に雪崩れ込んだ。
パジャマの軍団に、店主はびびっていた。飲み屋なんか生まれて初めてくる人ばかりだったので、全員とりあえずビールをやってみた。
勘定を払う前には連れ戻されるに違いないのでなんでも頼んだ。
ぐびぐびと飲んだ。
締めのコーヒーも、ラーメンも、全てのものが貴重だった。
生きた人、死んだ人、生死どころか何一つ自分のものにする権利をもらえなかった人。どんな人たちにも乾杯した。この世の全部に乾杯した。
死ぬほど飲んだ。
施設の人がやってきて拘束される頃には、私はすっかり出来上がっていた。
立ち上がれる人なんてほぼいなかった。
味をしめて、3回外で飲み歩きを企画したら、私だけ別の部屋に移された。
だけど今また誰かに窓が叩かれているから、今夜飲みにいく。君もどう?
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