批評家の自分探しとファミリーヒストリー 書評・江藤淳『一族再会』

文字数 1,991文字

 自分の言葉がどこか嘘っぽい、言葉を費やしても対象を言い当てている手応えを得られない。こんな風に言葉からリアリティーを感じられないとき人はどうするか。

 文芸批評家・江藤淳にもかつて自分の言葉を信じられない時期があった。1973年に上梓した『一族再会』(講談社文芸文庫)で次のように問う。

「『個人』とか『社会』、あるいは『自然』とか『芸術』という言葉を、さほどのためらいもなくつかい、それらが生きていると感じることができた。(略)十数年たった現在、同じ言葉を同じようにつかおうとすると、少しも生きないのはなぜだろう」。

 これは物書きにはつらい状況である。書いたものが全て無意味に思えてしまうからだ。江藤は、自分の言葉を取り戻すため、祖父や祖母、母の人生をたどり、「言葉の源泉」を探す旅に出る。それは自己のアイデンティティーを再確認する旅でもある。

 この作品には2つの軸がある。1つは、軍人として近代国家の立ち上げに貢献した2人の祖父の物語。もう1つは、家を守りつつ、やはり近代に翻弄された祖母・米子と江藤が4歳の時に他界した母・廣子の物語だ。江藤の眼目は、日本の近代化が彼らの人生に与えた影響を明らかにする点にある。つまり、近代と前近代の相克に翻弄されてきたファミリーヒストリーを語ろうとするのだ。

 前近代、つまり長きに渡り武士の精神を規定した藩の意識にしばられた例が、米子の父、古賀喜三郎だ。佐賀藩の下級武士だった喜三郎は、明治維新を機に海軍に身を投じて近代の精神に触れた。しかし、海軍で勢力を誇る薩摩藩に対抗しようとして、退役後に海軍予備学校を設立する。佐賀藩出身の若者を海軍に送り込むするためだ。一方、喜三郎より後の世代である二人の祖父は、ともに海軍を志願したが藩の意識からは自由だった。父方の江頭安太郎は中将、母方の宮治民三郎は少将にまで出世し、軍の中枢から近代国家の建設に貢献した。

 喜三郎の藩へのこだわりは、間接的に祖母と母の人生を狂わせた。祖母は東京女学館で英国人教師から近代の精神を学んだ。しかし、経営が厳しい海軍予備学校を助けるため、女学館を退学させられ、後に安太郎と結婚する。その祖母の不満の犠牲になったのが母だ。日本女子大学英文科で学んだ母は、卒業後すぐに安太郎の息子・隆と結婚。祖母の激しい嫉妬を受けて、心身を消耗した母は結核を発症し、27歳でこの世を去った。よくある姑の嫁いびりのようだが、ここにも近代の影響を見る江藤は、祖母が息子を奪われたことに加え、若い母の中に新しい近代を見たことで強烈な嫉妬を抱いたと推測する。

 こうした近代と血縁の葛藤をたどる章は、本書の中核をなす。しかし、江藤が本当に書きたかったのは、美しくモダンだった母の学生時代を書く冒頭の章と母のルーツを訪ねる最終章だったと思う。他の章では冷静な筆致が、これらの章では感情の高ぶりから躍動している様子にそれが表れている。

 その終盤に、母の痕跡を求めて訪問した民三郎の故郷、愛知県海東郡蜂須賀村(現あま市)で物語はクライマックスを迎える。民三郎の父・京三郎が、俳人だったことを知った江藤は、「文学や語学の資質は、多く母方から遺伝するといわれる。(略)ついにここに言葉をあやつる人間があらわれた」と興奮気味に書く。ついに「言葉の源泉」を母のルーツに探し当てたわけだ。京三郎が寺子屋で読み書きを教えていたことも判明する。江藤は、1971年に東京工業大学助教授(後に教授)に就任しており、自分の中に先祖から受けた「教師の血が流れている」と納得する。

 土地がもたらす啓示はさらに続く。現地の地図を見た江藤は、近くに葛の葉稲荷があることを知り、「不思議な戦懐」を覚える。説経節「信太妻」などの題材となった葛の葉と関連すると直感したからだ。葛の葉という女が武士と恋仲となり、子供が生まれる。その子が5歳のとき、葛の葉の正体が実は狐だったことが知られ、森に帰ってしまうという話である。ここで江藤が、この母子に自分の境遇を重ねているのは明らかだ。稲荷の境内に「あひたくば/たづねきてみよ/篠田の森へ」と刻まれた碑があった。それを見た江藤の「眼頭に熱いもの」がこみ上げ、母の霊に導かれたことを感得する。そして、「私の耳に聴えている故郷の土地のささやきが、聴えつづけているかぎりはそれでいいのだ」と自己肯定の境地に至る。戦後を代表する批評家が、古風な母子別れの物語に心を動かされたことが意外だ。このことは、彼の中に、ということは私たちの中にも前近代がなお生きていることを示している。

 この物語が届けるのは、死者をリスペクトし、哀悼する気持ちこそが、言葉を生かし、確かな感触を与えるというメッセージである。私たちは死者とともに生きているという自覚がなければ、言葉にリアリティーを取り戻すことはできないということだ。
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