第1話 幻の少女

文字数 16,100文字

幻の少女

                     北川 聖      


 この世ならぬ荒れた学校だった。
 傷害行為は当たり前のように野放しにされていた。骨折のような重傷を負っても事件として問題になることはなかった。誰もが見て見ぬ振りをして通り過ぎた。彼らの粗暴な行動は学校近くで揉め事になる事はあってもいつしかうやむやにされた。授業中に後ろの席でビールを飲んだりタバコを吸っていたりした。
 先生と生徒の間には隔絶とした距離がありお互いに無関心だった。関わり合いになることを避けていた。女子生徒は当然の如く化粧を直していた。
 山崎という一番の悪が短く折ったチョークの山を数学の山田という30代の教師に投げつけていた。教師は真っ白になりながら時々「痛い!」と短く叫んで淡々と授業を進めていた。
山崎が大声で教師の山田に言った。
「先生、微分積分は何の役に立つんですか?」

 山田はまたかという顔をして、立ちすくんだ。毎回の授業にその質問が来るのだ。前は丁寧に答えていたが、何も聞いていず、ただからかうだけの行為だと気づいてからは無視していた。するとチョークが大量に飛んできた。山田はたまらず振り返って
「君たちには関係ないものかも知れないな、静かに寝ててくれ」
と言った。
 山崎たちが騒ぎ始めた。子分の石橋が木刀で床を叩き始めた。「先生よ、答えてくれないなら窓ガラス割るよ」生徒たちも騒ぎ始めた。「割っちまえ」「やれやれ!」
 山田がたまらず言い返した、「この出来損ないたちめ、やれるものならやってみろ」
 山崎が机から飛び上がった。窓を片っ端から割りはじめた。
 山田が「やめろ、お前たち、停学になるぞ」と叫んだ。
「先生が割れっていったんじゃないか」
「先生が質問に答えないからだろ」
 山田は罵声を浴びながら教室を出ていった。
 職員室で教頭にことの次第を話した。
「それはいかんね、でも君も悪いね、質問に答えなきゃ。何度でも答えるんだな」と教頭は言ってお茶を啜った。

 山田は顔を真っ赤にしてその場を立ち去り自分の席についた。隣の牧田という女性教師が「先生、彼らに従うんですよ、形だけでも。逆らっちゃだめですよ」
 山田は服についたチョークを落としながらむすっとした顔で頭を抱えた。
「学級崩壊でしょ、教育委員会に報告しないでいいんですか」
「崩壊してないわ。他はもっと酷いらしいわ。うちは統率が取れているのよ。山崎っていう子に誰も抵抗しないわ。番長なのね。彼の父親は国会議員で何か事件が起きると、そのうちうやむやになるのよ、放っておけばいいんですよ」
 山田は悔しそうに顔を歪めた。「分かりましたよ、そうします」

「先生、覚醒剤いらない?」山崎が国語の教師の前田に言った。
「何だって! ふざけるのもいい加減にしろ」
 すると山崎はハンカチに包んだ白い粉の入ったビニール袋を破いて、何かしら茶色い液体で飲み干した。
「君、なんて事をするんだ、警察に通報しなければならないぞ」
 すると山崎はハンカチを振って言った。「先生、カフェインを砕いた粉ですよ。これが効くんだな」
「カフェインも量によっては毒になるんだぞ。興奮剤だからな」
「ははは、興奮しなけりゃやっていけないですよ、この現実見てよ、夢も希望もない」
 前田は『君の父親は』と言いそうになって止めた。
「何、俺の親父って言おうとしなかった? 俺のいいなりだよ、親父は。腫れ物に触るように俺を見ているよ。それが腹立つんだな。天下の国会議員様がよ」
 山崎はカフェインの入ったビニール袋と液体の入った瓶を周りに配り始めた。
「やめろ、取り上げるぞ」と言って近寄った前田は足を蹴られひっくり返った。彼の頭にブランデーがかけられた。「カフェインとブランデーの相性がいいんだよね、これが」
 山崎は校庭に出ると置いてあったオートバイで走り回った。他の生徒たちが拍手喝采した。前のめりになって土下座の格好になった前田は子分の島田を殴った。島田は唇を切って血を流し前田と取っ組み合いになった。前田は上半身裸にされ、その顔の上に女子生徒が跨ってスカートの中をなすりつける素振りを見せた。「どう、先生、気持ちいい?」前田はたまらず裸のまま教室を抜け出した。その後に生徒の笑い声が続いた。

 前田は裸のまま職員室に逃げ込んでいた。まだ若かった。泣いている彼に上着がかけられた。教頭は知らんぷりだった。
 放課後、職員会議が開かれた。形だけだということは誰もが知っていた。何人もの教師が非道の行為を訴えた。教頭は眠そうに聞いていた。他の教師もそれが単なる儀式だということは知っていた。訴えが終わってもみんな他人事だった。興味がなかった。全員が同じような悪行を受けていたからだ。我慢すればいい。今だけだ。すぐに卒業していく。
 前田が彼らの停学を求めた。それはすぐさま否決された。半泣きの前田にある教師が「君もそのうち分かるようなる。事を荒立てないのが一番だ」と肩を叩いた。

 毎月山崎の父親の国会議員が教職員を食事会に招いていた。父親は上機嫌でどんな若い職員にも酒を振舞った。中には飲みすぎる職員もいたほどだ。豪勢な食事が次々と来る。竜宮城に来たみたいだと言った職員もいた。若く綺麗なコンパニオンが相手をつとめた。甘えて泣き出す若い教員もいた。彼女らの膝の上で安らいだ。
 最後に父親が言った。

「息子をよろしく頼むよ、私の跡を継がせたいんだ。他の子も頼むよ、卒業するまで何の問題も起こさないようくれぐれも頼むよ」
 議員は土下座をして頭を地面につけた。すると教頭が「まあまあ」という感じで起こした。入校仕立ての若い教員の中には問題視するものもいたが何回か参加するうちにそんなことは頭から消え去った。

 生徒の中にはシンナーをやるものもいた。シンナーの蓋も閉めずにビーカーへ注ぐので教室中がシンナー臭くなった。生徒とその周囲は完全にラリっていた。勉強どころではなかった。幻覚の海を泳いでいた。彼らの一人が大声で笑うと他の子も笑った。シンナーが脳を溶かすというのは知っていたが、溶けてドロドロになってしまえと一向に躊躇しなかった。彼らにとって一番耐え難いのが現実である、そこから抜け出るためなら何でもやる。現実の何がそんなに耐え難いのか分からなかったが現実が《存在する》というのが気に食わなかった。自分や他人がいるという事自体が堪え難かったのだ。この世界をいずれ破壊してやると彼らは思っていたが、ラリっている状態では歩くのもままならないのでそんなことは夢物語だった。

 この学校は閉鎖的空間となっていた。誰も外へ漏らさず外も干渉しなかった。議員の父親が創設した学校だった。最初は真面目な学校だったが生徒の欲望が発散される学校になっていた。もはや学校とは言えなかったかも知れない。それでも無法地帯ではなかった。これは不思議だがある一定以上に近づくと、例えば殺人などの限界に近づくと自浄作用が働いた。その精神的支柱が山崎だった。

 だがその限界が揺らいでいた。山崎の手の届かぬところまで崩壊は進んでいた。シンナーを吸っていた親玉だった柴田がシンナーを飲んで首を吊って死んだ。
簡単な遺書が残されていた。
「もう吸ってもいい気分になれなくなった。飲むしかないと思ってよ。そしたら死ぬなと思って典型的な自殺のやり方って首吊りだろ。だからそれをするのさ。山崎によろしく言っていてくれ」
 柴田の葬式にはクラス全員が集まり焼香した。シンナー仲間はフラフラしていた。まさかこの日までシンナーをやっていたのだろうか。
 学校生活は相変わらずだった。あんなことがあっても死んだのは自分じゃないし、とでも思っていたのかも知れない。結局のところ、自分じゃなければ何が起こったって構いはしないのだ。ここは徹底していた。クラスの仲間が悲しむということもなかった。誰か一人がいなくなっただけという感じだった。悲しんだのは葬式での柴田の母親だけであった。

 時間は相変わらず憂鬱に進んでいた。一つだけ変わったといえば前のような底無しの明るさがなくなったようだ。彼の死を自分に置き換えて考える生徒が増えたのかも知れない。しかし授業での荒れようは前と全く変わっていなかった。女子生徒は長いスカートを履いていたが、新任の女性教師が普通の丈のスカートでくると大変である。男子生徒が興奮して脱がしにかかる。実際下着だけになって逃げ帰る教師もいた。再び学校に来ることはなかった。だから年長の女性がズボンを履いて授業をするのが決まりのようになっていた。
 彼らがここまで荒れたのは特別な理由があったわけではない。何かをしようとすると普通抑制の気持ちも働くものだがここでは抑制する心を働かす必要がないということを知ってしまったからだ。

 柴田が死んだ後2ヶ月ほどして、松川という女子生徒がやはり首を吊って死んだ。彼女は遺書もなく死んだ理由が全く分からなかった。よく友だちとふざけ合っていた明るい少女だった。死への衝動はいつ誰を襲うか分からない。あんまり生きるのがつらいと死んだほうが楽かもしれないが、そうでなくとも突発的に死は人を攫っていく。それを防ぐ術はなかった。昨日まで笑っていた生徒が翌日首を吊っていることは不思議でも何でもない。それほど彼らは生と死の間で揺れているのだ。天秤のように死へ振り切った場合、容易に飛び降りたり首を吊ったりする。そういう年代なのだ。彼女の葬儀にはさすがに泣く女子が何人かいた。男子はかったるそうにしていた。

 クラス担任の大場が授業を休んで提言した。
「お前たち、そんなに命っていうものは軽いのか。ちょっと機嫌が悪いから捨てていいようなものなのか。僕も含めて生命っていうのは奇跡なんだぞ。一度きりの人生を大切に生きていこうという思いがお前たちにはないのか。死んだら終わりなんだぞ、その後に何かが待っているとでも思ってるんじゃないだろうな」
 生徒の角川が幽霊の格好をして「恨めしや~」と言った。みんながどっと笑った。隣の三浦がだるそうに言った。

「だってさあ、親父とお袋がくんず解れずして気持ち悪いことをして親父がお袋の上に覆い被さり、お袋が大きな喘ぎ声をあげてその挙句は死にそうな奇声をあげて生まれたんでしょう、俺たちって。何か薄汚いよね。吐き気がする」
「そう血生臭いよね、精液臭いっていうか」女子が言うと男子が大声で笑った。
 すると科学に関心がある根本という生徒が話し出した。
「俺たちが生まれたのは、ただの偶然っていうこと、それが真実! 先生に説明してやろうか。長くなるよ。親父の一生に射精するただ一個の精子が俺だっていうことで、親父の親父の一生に射精するただ一個の精子が親父だっていうこと。それはずっと遡っていって恐竜の時代の前に海で三葉虫が他の一匹の三葉虫に出会わないと俺は生まれないのさ。もっと言おうか。銀河の片隅でちょうどいい位置に太陽と地球があって水があり、酸素が生じたから俺は生まれたのさ。これは全て偶然なんだよ。さらに言えば宇宙の存在にまで言ってしまうけどこれは学者も分からないってさ。俺たちはいてもいなくてもどっちでもいい偶然の産物なのさ」

 大場が言い返した。「学者が分からないんだろう。それじゃどっちに転ぶかわからないじゃないか」

「先生、神様のこと言ってんの? ここ神学校じゃないんだけど」誰かが冷やかした。
「アインシュタインだっけ、神様はサイコロを振らないって。意味は違うけどこっちの方が重要な問題だぜ」



 女番長の桐谷が痺れを切らして言い出した。
「何話してんの、全然分からないんだけど。親父とお袋がセックスするところまでは分かったけどね」クラスのほとんど全員が声を出して笑った。
 大場が「理屈はともかく死んじゃだめだ、分かったな。死んだらもう笑うこともできないんだぞ、人生は楽しいこともあるんだ。お前たちの人生はこれからだ。大切に生きてくれ」
と言って教室から出て行った。

 季節は梅雨に入った。毎日重苦しい空から雨が降っていた。クラスの雰囲気は憂鬱と陽気さが繰り返す不安定なものになっていた。
「ああ、何か面白いことないかな、気が滅入っちまうぜ」
 iphoneからニルヴァーナの曲が聞こえてきた。
「ニルヴァーナって涅槃だろ、行きたいよ」
 そうしたら「お前にゃ無理だ」っていう声が聞こえた。

「カート・コバーンがヘロイン中毒になって頭を撃ち抜いて自殺したのが27歳だろ、もう繊細な神経には限界の年齢なんだよ。ヘロインなんてやってなくたって生と死の中毒で自殺したさ」
 女子生徒が曲に合わせて踊り出した。
「おい、脱ぎながら踊るんだ。全部脱ぐんだ全部。そしてあそこを童貞たちに見せつけてやれ、どんなに汚いか見せてやれ。男はこれを舐めるんだぞ、気が狂っているだろう。親父やお袋はまだやっているんだぜ、吐き気がする」伊藤が言って唾を吐いた。
「そうよ、この沈着した赤茶色の肉ビラが月のものでびしょびしょになって悪臭を放つんだわ。男も大きい顔をしたってここから生まれて粘液まみれでオギャーって泣くんだからね」女子生徒たちがふふふと笑った。
「ああー、死にたい」権田が大声で放った。その後に私も、私もと連続して聞こえた。
 山崎が言った。
「もう今日は授業ないんだから帰ろうぜ。あれやらないか、映画にあったじゃないか、ホームの端にずらっと並んで電車に飛び込むの、気持ちいいぜ、いや、気持ち悪いか、どっちでもいいけどさ」
「うわーっ、誰が誰だか分からなくなっちゃうじゃないの、ぐちゃぐちゃになっちゃうわよ」

「ああー、つまらねえ。そんな話しかないのかよ」山崎と仲の良い杉田が言った。
「もっと明るい希望に溢れた話をしようぜ」すると周りの連中が「希望だってよ」と言って笑った。「あ、そうだ明日、転校生が来るんだってよ。驚くだろうな、このクラスの様をよ」
「可哀想だから手厚く迎えてやろうぜ」

 雨が強く降る中を生徒たちは傘を振りながら帰った。
 空模様が異様におかしかった。ぶ厚い雲が割れ白い階段のような雲が太陽に照らされ輝いていた。その下では雨が止んでいた。見事な虹がかかっていた。

 そんな学校にやってきたのが彼女であった。
 彼女が戸を開けて入ってきた時、みんな唖然とした。後光が差しているというのはこういうことを言うのか。彼女は輝いていた。
 こんなに可愛らしい人がこの世にいるのか。後で聞くとみんなそう感じていたと言う。
 別の世界の天使が出現したように感じた

 その姿はこの教室の重く淀んだ空気を一掃した
 彼らの誰一人こんなに清純な笑顔を見たことも感じたこともなかった

 その輝く目、慈愛に満ちた微笑み。

 聖女との出会いがあるとすればこの事だろう。神々しさすら感じる美少女だった。

 彼女がみんなを救ってくれる、そう思った。
 その輝くオーラに包まれた姿はこの悲惨で鬱屈した教室を真理へと導く場に変えてくれるだろう。
 誰もが、鋭い目つきの者やふざけた態度の者が彼女を見ながら口を半開きにした。ビールを飲んでいた者は流しに捨てて席についた。タバコを吸っていた者は慌てて火を消し座り直した。日頃眠そうにしていた男子の顔が引き締まった。化粧の濃い女子生徒は化粧を落とし始めた。みんな席について少女の話を待った。

「北沢恵理子さんだ。東京から転校してきた。分からないことなど教えてあげるように」
 彼女は礼をすると名前を言いなんとも言えない神聖でいて可愛い表情をした。日頃暴れている少年たちが神妙な顔の中に恍惚が溢れた表情をして礼をした。
 彼女は透明な透き通る声で挨拶をした。
「北沢恵理子です。よろしくお願いします。私にはこれまでの記憶がありません。これから作っていこうと思います。皆さんと一緒に作っていこうと思います。どうかよろしくお願いします」
 彼女は礼をした。風が舞った。光が舞った。
 すると彼らの記憶も曖昧になった。それぞれの性格も曖昧になった。

 何か昔の大切な忘れ物を見つけたような気分だった。
 彼女は山崎の隣の席に座った。
「どうぞよろしくお願いします」と彼女が言うと
 彼は日頃の尊大な態度をすっかり忘れてしまったように精一杯の優しい表情をした。
 他の生徒も何か不思議な魔法にかかったかのような気分になった。

 山崎は国会議員の父に向かって「ただいま」と言った。
 父は驚いてマジマジと山崎を見た。そこには小さい頃の彼がいた。いやそんな雰囲気に変わった彼がいた。彼は手を洗うと自分の部屋のある二階に上った。しばらくすると二階から音が聞こえる。彼は部屋の大掃除をしていた。いらない雑誌類を集めて縛り、ベッドと机の向きも変えた。
「おい、何をする気だお前」
「いや、なんて汚い部屋かと思ってね。ベッドと机の向きもいけない。壁に貼っているポスターが邪魔だ。せっかくのベージュの壁を台無しにしている」
 彼はバケツに水を入れ何度も一階と二階を往復し、雑巾で床やら壁を拭き、タオルで窓を拭き始めた。
「一日じゃ済まないよ、俺がこんなに汚したんだよね。何てことをしたんだ、これじゃ落ち着いて生活できないよ」

 父はもう何年も息子から「落ち着いて」何ていう言葉を聞いたことがなかった。
「おい、大丈夫か、お前、おかしいぞ」
「お前って言わないでくれる。高道って名前があるんだから。父さんが付けたって前に聞いたよ」
「急に変わりすぎだろ、、、高道。何かあったのか、俺に話してみろ」
「何でもないよ、ただ転校生が来てね、可愛いんだ」
「あーっそうか。なるほどね」

 翌日の朝、生徒が早めに来て机の品のない落書きを消していた。誰に言われたわけでもない、ただ恥ずかしくなったのだ。北沢さんに恥ずかしいというのもあったが自分に恥ずかしくなったのだ。誰もが机の中の掃除をし始めた。ゴミ捨て場に何往復もした。

 担任の大場が朝の朝礼に来た。教室がさっぱりしているのに驚いた。いつもは後方でタバコを吸いながらたむろしているのだが全員が席に座っていた。彼は転校生の北沢を見た。そこだけ眩しく見えた。新しそうな制服を着ていた。この学校に制服はなかった。服装は自由であった。それが新鮮で大場の心にいつまでも残った。

 大場は職員室で隣の牧田にここは昔から制服はないんですかと聞いた。すると初めは制服だったが生徒会の反対で廃止されたとのことであった。大場はふ~んと聞いていた。ところがそれから1週間ほどしてからである。女子が恐らく北沢さんのメーカーと思われる制服を着出しだした。一人、また一人と制服を着だして、髪を染めていた子も黒髪に戻して、もちろんスカートの丈も普通の長さに変えていた。大場がどんな風の吹き回しかよ、と聞くと「何か、こっちの方が良くなったのよ、ケバケバしいのが嫌になったのね」と言った。
 北沢さんの影響か、と聞くと、そういうわけでもないと言う。何かが変わりつつあったのだ。休み時間になると北沢を男女の生徒が囲んだ。
「東京での記憶が何でないんですか」
「記憶喪失なんですか」
 すると彼女は微笑みながら「私もわからないのよ。今この世に生まれたっていうようなね」
「えっ、東京での住所はあったんでしょう」
「あったと思うんだけど、私には秘密にされているみたい」
「不思議だなぁ、そんなことあるんだ」
「御伽の国から来たっていうわけじゃないわよね」

 彼女は笑いながら「多分そうかもしれないわよ」と言った。
 数学の授業が始まった。この教室では先生が生徒を指して答えさせるということがなかった。誰も答えられないからだった。科学に興味のある根本さえ授業に全然ついていけなかった。彼の興味のあるのはどちらかというと哲学だった。だがそんな授業はない。彼は独学で哲学を勉強していた。だが、物理の公式も数学の公式も馬鹿にして覚えようなんて気はなかった。彼の興味はずっと先へ行っていたのだ。神の存在とか宇宙が偶然か必然かということばかり考えていた。だが基礎がまるでなっていなかった。
 山田は北沢を指して教科書の応用問題を解くように言った。

 北沢は滑るように歩いた。彼女の歩くところを光の粒が散らばった。彼女は黒板の端からチョークでスラスラと問題を解いた。みんな唖然としていた。彼らは高校2年生だったが中学の問題さえ解けるものはいなかったからだ。彼女の理路整然とした回答を見て驚いた。だがそれを理解できるものは誰もいなかった。山田は彼女に頷いて席に戻るように言い、みんなに「これが模範回答だ。ノートに写しておくように」と言った。彼らは写しながらもそれを理解できるものは一人もいなかった。
 彼らの高校の偏差値は断トツで最低水準にあった。進学するのは学年で数人だけだった。
 翌日の朝、北沢の周りに生徒がノートを持って昨日の問題の解き方を教えてもらっていた。彼女が基本的な所から丁寧に解説した。すると何となく理解できたような感じがした。だが自分で解こうとするとまるで出来なかった。中学の頃に戻って基礎を勉強し直さないととても授業にはついていけなかった。先生の方もテストの採点をする時、ほとんどが二十点以下だとしても特に指導しようとは考えていなかった。やる気のないものにいくら教えても無理だと思っていたからだ。

 翌日の朝一時間ほど早くみんなが出席して北沢の周りを囲んでいた。彼女は中学と小学の参考書を持ってきていた。黒板に回答した問題について基礎の基礎から話していた。もちろん一時間ほど勉強して取り戻せるものではない。担任の大場が驚きながらも放っておいた。すると毎日、朝一時間の北沢の特別授業が続いた。彼女はとても素敵な香りを放っていた。化粧品の香りではない。彼女自身が放つ不思議な人を惹きつける香りだった。
 彼女のいろいろな科目の特別授業が3ヶ月ほど続いた後、数学の山田が標準的な問題について山崎の子分の石橋を指して答えてみろと言った。
 石橋はその一つの問題を普通なら10分もかからず解けるところを30分かけて頭を捻りながら解いて見せた。山田の顔が驚きの表情から喜びの表情に変わった。
「なんだ、やれば出来るんじゃないか、みんな石橋を見習うように」
 山田はその問題について丁寧に説明した。それだけで授業の時間が終わってしまった。
 山田は隣の川田というベテラン教師に「石橋が数学の問題を解いたんですよ、驚きましたねぇ」と言った。

 川田は別に驚いた様子も見せずに、特別授業のせいでしょう、と言った。北沢の朝の特別授業は先生の間で広まっていた。先生たちは自分にはあそこまでできないという諦めの境地にあった。規則にも反しているし教師たちは皆忙しく自分の仕事をこなしていた。それで精一杯だった。塾に行く気など一人もいない生徒たちの特別なサロンの形態を成していたようだった。先生たちは遠巻きにして見ていた。どこまで続くか笑っていた教師もいたが誰も笑わなくなった。
 ある日帰り際に根本を含む三人の男子生徒が北沢に話しかけた。
「僕は現実がいかにして現実であるかという問題を考えているんだ」と根本が言った。
「現実が現実である証拠を知りたいんだ。夢との決定的な違いを知りたいんだ」
 すると恵理子が微笑みながら「現実は夢の一部よ。幻想世界の一部に現実があるんだわ」
 根本が「えっ、そこでいう幻想世界とは何を意味しているの」と言った。
「私たちが現実と考えているのはこの世界の全体から見れば一部なんです。私たちが宇宙と呼んでいるものは全体の一部なんです。私たちが夢に見たり幻想で空想するのはその幻想世界を垣間見ているのと同じなんです」

「えっ、それじゃ僕たちが認識しているのと違う宇宙があるんですか」
「この宇宙はさらに広大な宇宙の一部なのよ」
 根本はさらに口調を鋭くして言った。
「この宇宙は何故あるんですか、なぜ無ではなく存在しているんですか」
「それは重大なことよ。今は答えられないわ。ただあなたたちは偶然に存在しているんじゃないってことを考えてね」
 彼女は手を振って帰っていった。
 三人は顔を見合わせながら呆気に取られていた。一人が後をつけないかと提案した。他の二人もその考えに乗った。校門に行って辺りを見回した。だが彼女の姿はもうなかった。さっきまでの会話も彼らは夢の中で話しているように感じていた。三人は校門の所でぼーっとしていた。

 翌日、体調不良ということで北沢は学校を初めて休んだ。
「彼女の家って学校から遠いんですか」
「それは教えられないなぁ、僕も知らないんだよ。知っていても教えることはできないけどね」
「彼女ってこの世の人じゃないみたいだな。何か感じが違うんだよ。言葉では言い表せないけど」
「何だ、そりゃ。幽霊だとでも言うのか、宇宙人か、未来人か」
「幽霊は違うと思うけど、人間離れしているんだよ」

「あまり、本人のいない所で噂話はいけないな。人間離れって彼女に失礼だろう。特別に優秀なんだよ。テストは全部満点だし。東大行くんじゃないかな」
「えーっ、東大だってよ、みんな。東大生の顔を拝めるかもしれないんだな。それも奇跡みたいなもんだな」
「ダメだな、教科書の問題が確実に解けさえすれば東大は行けるんだよ。未知の世界じゃないんだからな」
 すると教室のあちこちから「ムリ、ムリ」という声が聞こえた。
「君たちのテストの点数だってうなぎのぼりなんだよ。もう授業に追いついている子もいる」
「そうだな、あれほど真剣に勉強したの初めてだよ。中学の問題さえ解けなかったからな」
 教室のあちこちから「そう、そう」と言う声が上がった。
「先生、何でこんなに突然変わったか分かる?」
 大場は首を捻った。
「彼女は生きる意味を教えてくれたんだ。俺らが得ようとして得ることのできなかった生きる意味を与えてくれたんだ」
「えーっ、生きる意味ねぇ」
「どの先生も教えてくれなかっただろう。それこそが土台となって人は成長していくんじゃないかな」
「先生にも教えてくれるかな?」

「教えるわけないだろう、自分で考えろよ。仮にも先生だろう」

 ホームルームが終わった。大場は彼らが「生きる意味」なんて言葉を使うとは思ってもみなかった。確かに自分たちに生きる意味を彼らに教えられるだろうか。彼もそれを求めて日々生きているようなものだった。彼は日本史を教えている桐谷と密かに付き合っていた。もう2年も付き合っているし年齢も30歳を超えているし、結婚の話をしなければいけないと思っているのだが、思い切れなかった。それは彼も「なぜ生きているか」と言う答えのない問題を考え続けていたからだ。このまま結婚して、子供ができて、年老いて死んでいくというお決まりの展開にいい年をしながら反抗しているのだった。自分の人生はそれだけか、という空虚さに悩まされていた。桐谷先生は自分にはもったいないほどの美人だった。このままズルズルと付き合っていたらいつか別れが来るんじゃないかと思っていた。だからさっき山崎の言った「生きる意味」と言う言葉に心臓をつかまれるようだった。

 次の日も体調不良で北沢は休んだ。始業の一時間以上前に学校に来ていたクラス連中はがっかりした。でもなぜかホッとする気持ちもあった。彼女も人間なんだ、という当たり前のことに気づいたからだった。その日も何事もなく静かに終わった。
 翌日、教室のドアが開いた時、眩しい光が放たれた。その光の中から恵理子が現れた。彼女の周りだけ異空間のようだった。
「やあ、体良くなったの。心配したぜ」山崎が言った。
「ごめんなさい。もう大丈夫よ。勉強始めましょう」
「うん、どうしても分からないところがあるんだ。先生に聞いたって馬鹿にして教えてくれないしさ」

 再び恵理子を中心にして輪ができた。特に熱心だったのが根本だった。彼は理系を基礎からやった。もともとそちらに関心があったが勉強する習慣がなかった。彼が一番興味があったのは哲学だったが哲学的問題は科学とは考え方が全く異なると直感していた。だが科学を学ぶことは哲学に進むにしても役立つと思った。彼は三ヶ月前まで哲学に進むなど、まして大学に進学するなどと言うことは全く考えられなかった。彼は自己流に哲学を考えていた。しかしその自己流の中に光るものがあった。哲学は学ぶものではない、考えるものだ。彼は知らぬ間にそれを実行していたのだ。

 山崎も微分・積分の有用性を学んでから急に数学を勉強するようになった。だがまずは基礎からだった。その退屈な基礎練習に彼は耐えた。こんなことは考えられもしなかったことである。その輪から外れた女子は面白くなかった。固まってヒソヒソ話をしていた。女子のリーダー格である関口は彼らの輪の中に入っていなかった。放課後、帰る支度をして一人になっていた恵理子に関口たちは近づくと「ちょっと顔貸してくれない」と言った。そして体育館の後ろに連れて行って「あんた、余所者のくせに生意気なのよ。もう朝集まって勉強するのやめてくれる」と言った。
 恵理子は微笑みながら「あなたたちも入りませんか」と言った。すると関口は「今から勉強なんてしたってどうにもならない。貧乏だしね。どうせ、非正規のブラック企業に就職するしかないのよ。でもいいのよ、腰掛けだからすぐにいい人見つけて結婚するからね。勉強なんてかったるいのよ」と言った。
 恵理子は笑みを崩さず「どの道に進もうとも勉強することは大切だと思うの。世界が広がると思うわ」と言った。

「あんた私たちに希望なんてないのよ、社会の底辺を這いずり回る以外生きられないのよ、それ分かって言っているの?」
「社会に底辺なんてないと思うわ。お金持ちだろうとそうでないとしてもそこで幸せになれるわ」
「私たちはね、もうどんな人生か決まっちゃってるのよ。生まれでね、人生は決まるのよ。あんたのようなお嬢様とは違うの」
「私はお嬢様じゃないわ。誤解されてるわ」
「どうせ、豪邸に住んでいるんでしょう、優しい両親がいてね。どこに住んでいるの、ちょっと見せてよ」
「それはできないの。許してね、勉強会はこれからも続けます。いつでも入って下さいね」
 彼女は去っていった。とても爽やかな香りがした。彼女からか、どこからか分からないが胸が気持ちよくなる香りだった。そして彼女の歩く姿やその通った道から煌めく光が舞ったような気がした。

 廊下で山崎たちが集まって駄弁っていた。
「北沢さんに手を出すなよ。俺が結婚して幸せにしてやるんだ。親父は国会議員だからな。嫌とは言わないだろう」
「えっ、それ関係ないじゃないですか。親父さんと結婚するわけじゃないでしょう」

「とにかく俺の将来に彼女はもう入っているんだ。もう未来は決まっているんだ。運命ってやつかな。彼女の俺を見る目が違っているのをお前たちは分からないのか」
「彼女はみんなに親切じゃないですか。山崎さんに特別ってわけじゃないですよ」
「ええい、うるさい、俺は恵まれた星の下に生まれているんだ。俺の思うようにならなかったことは今まで一度だってなかったからな」
 そこへ担任の大場が歩いてきた。
「おおい、そんなとこで何喋っているんだ、もう授業は始まるぞ」

 彼女が帰ってから男子全員が教室に残った日があった。
 誰が彼女と付き合うかと言う選挙のようなものだと初めは思った。ところが男子たちは皆、自信満々で自分こそ彼女と付き合う権利があるんだと主張した。
 一番最初から勉強会に入っていた根本は言った。
「彼女は僕に気があるだけじゃなく、一番勉強に熱心で科学の知識も豊富で哲学へ進もうとする僕と付き合うに決まっているんだ。僕を見る目が全然他のやつと違うからね」
 すると図書委員の相葉が言った。
「彼女は僕のことが好きなんだよ。昨日思い切って彼女の目を見つめたんだ。そうしたら彼女も見つめ返してくれたからね」

 こんな話ばかり出てきた。みんな彼女が好きなのは自分だと信じて疑わないようだ。この辺が男のおめでたいところだが彼女もみんなに対する愛情があった。だからこういう結果になってしまう。
「彼女に決めてもらわないか」といつもは静かな山内が言った。彼がこういう場所で発言するのは珍しいことであった。
 いろいろな案が考えられた。彼女に直接聞くというやり方、でもそれは彼女に酷だし遠慮してしまうと思われた。
 彼女に一つの教室を用意して一人ずつ入って、彼女の本当の気持ちをきくやり方、男たちを横一線に並ばせて、本当に好きな人の花束を受け取るやり方。その案が出た時、テレビの見過ぎだという声が上がった。結局、彼女が本当に好きな人を自分から選んでもらう案に落ち着いた。
 だがそれをどのように不自然でなく彼女に伝えて理解してもらえるかという難問が残った。これは不公平でないように、それぞれが彼女に対する気持ちを手紙にしたためて渡すというやり方に決まった。男たちがない知恵を絞って一生懸命に彼女に対する愛情を書いた、
 そして山崎が彼女にぶっきらぼうに

「これがみんなの君に対する気持ちだ。君の本当の気持ちを聞かせてほしい」と言った。
 恵理子は最初びっくりしたようだったがすぐに落ち着いて「読ませてもらうわ」と言った。
 山崎が喝采を浴びながら戻っていった。彼女はその時、何とも言えない愛らしい顔をした。また彼女のところに不思議な光が当たって光が煌めいたように感じた。
 彼らの選んだ方法は放課後に男が集まって、彼女に心を決めてもらうという原始的なやり方だった。だがそれが最も彼女に主体性を持たせ公平なやり方に思えた。彼らはそれを決める時、みんな反対した。ショックが大きすぎるというのである。傷ついて自殺するようなものが出たら誰が責任を取るのかというのだった。確かに例年になく異常に自殺が増えていた。だが誰も自殺などするかとたかを括っていた。

 男たちはある日名前順に席につき、彼女が入り口から入ってくるのを待った。そして彼女がドアを開けた。
 彼女は皆を公平に見つめながら「どうもありがとうございます」と言った。

「私なんかのために皆さんの真剣で熱い手紙を読ませていただきました。私がここで名前をあげるのは皆さんのお気持ちに対して失礼だと思います。私がいつも思っているのは皆さんのことが大好きだということです。男子に限らず、女子もそうです。私はみんなを愛しています」そして彼女は男たちの席を回りながら優しく手をかわした。中には初めて年頃の女子の生の手を触るものもいた。男たちは握手をしている時、夢心地だった。彼らは彼女の本当の気持ちが分かった気がした。彼女はこういう人なんだ。その理解はさざ波のようにみんなの心に伝わった。

 こうした会合があることは女子も知っていた。だが誰も妨害しようとするものはいなかった。もうそれまでに女子も彼女に対する態度が変わっていた。裏表のない純粋な子だと思うようになっていた。
 それからというもの、彼女の登下校時間になると少し離れたところで彼女を見守った。彼らは彼女の全てが知りたかったのだ。彼女が校門を出ると少しの間だけ後を追えた。だが彼女は光に溶け込むように姿が見えなくなった。その瞬間を見ているものは誰もいなかったが夢に浮かされたように彼らの若い瞳から彼女の姿が自然に消えた。

 彼らは2週間くらい続けて彼女の後を追った。しかし一度も成功しなかった。

 ある夏の暑い日、彼らが学校へ登校すると信じられないものが目に入った。教室内で斉藤という女子が首を吊っていた。先生にすぐ報告すると、先生が医務室の医師を連れて走ってきた。彼女を降ろすと医師は首を振った。聴診器をあて、瞳孔を見たが全て死の所見を見せていた。

 するとそこへ恵理子が教室へ入ってきた、彼女は立ち往生している彼らの間を縫って斎藤に近づいた。彼女は斎藤の頭から足の指の先まで手をかざした。その時、その手と体の間に静電気のような光が発しているような気がした。彼女は斎藤を両腕に抱えて教室の隅へいった。誰もその様子を見ている以外なかった、隅なのでよく見えなかったが彼女は何度もあの仕草をしているようだった。その辺りだけこの世のものではないように薄ぼんやりした光に覆われていた。やがて「うっ」という叫びが教室中に響いた。この世に蘇生する声だった。恵理子は彼女の背中に手をやりゆっくりと起こしていった。そして目を見つめると一言二言何か話した。斎藤は恵理子に縋るように抱きついた。教室中の人が寄っていった、斎藤を見た。少しぼんやりしているようだが普通と変わりないようだ。すると医師が体を確かめて「とても信じられない、こんなことがあるわけがない」と首を捻りながら言った。

 それからこのクラスで続いていた自殺の連鎖は治った。夏の激しい日差しがやがて秋の穏やかな日差しに変わっていった。

 北沢恵理子がこの学校に来て一番変わったことは生きることを不真面目ではなく真摯にとらえるようになったことだろう。それまでは欲望のままに自らの人生を捨てていた。過度な自由は心を破滅させる。恵理子は普通に振る舞っていたにすぎない。だがそれが彼らの心を改心させたのだ。この現象は彼女が他の男子や女子に自分より人間的に優れていてとても敵わないというのを自然に認めさせたから起こった。彼らにも立派に真面目に生きることはどういうことか分かっていた。だが反抗心や無力さや投げやりな心がそれをどう表現していいか分からなかっただけなのだ。今では図らずも北沢恵理子は学校中の有名人になっていた。彼女を悪くいう人は一人もいなかった。誰もが彼女に憧れを見ていた。そしてその幻を自分だけのものとして信じていた。

 彼女が医師が見捨てた自殺者を蘇生させたことはその日のうちに広まっていた。彼女は聖母マリアかという噂が水面下で広がっていた。彼らは科学的な考えにうんざりしていた。科学は人間を宇宙の中心からただの偶然に生まれた脇役に変えていた。これがどれだけショックなことか大人は知らない。たとえ科学的事実としても人間としての尊厳を完全に奪ってしまった。彼女は人間の聖性の復権を果たした、まさにその象徴になった。

 季節は十二月に入っていた。山崎の豪邸でクリスマスパーティをしようという話になった。例年であれば考えられないことである。彼らにはクリスマスも正月もなかった。なぜ今年に限ってそんな話が持ち上がったのかといえば、学校以外での北沢恵理子が見たかったからである。それを想像するだけで彼らの心は宙にも登る気分だった。彼女は最初の30分だけ参加すると言った。みんなが「何で、何で」と言うと微笑むばかりだった。
 
 東京にも雪が降ってきた。生まれたばかりの真っ白な雪が都会を覆っていった。人間の全ての営みを浄化するような清らかさだった。

 夜7時の集合時間に殆どの人が集まった。北沢恵理子の私服は清楚な雰囲気に似合っていて可愛らしかった。彼女の私服を見ることも特に男子たちの注目事だった。彼らの目は全て彼女に注がれていてその可憐な仕草に胸が熱くなる子もいた。
 彼女の周りを男子たちが取り囲んだが女子の数人も中に混じっていた。

 夜が更けていき彼らは学校とは違う別世界に酔っていた。みんな上気したように顔が熱くなり心が軽やかになった。
 
 クラスの中で「詩人」というあだ名がついていた藤城が部屋の片隅で詩を書いていた。彼は一ヶ月前にこの高校へ転校してきたばかりだった。彼はいつも教室の窓辺で本を読んでいた。山崎が何を読んでいるんだと聞くと、詩だと答えた。山崎は目を丸くして藤城の顔を見つめた。彼へのリクエストが何回もあった。彼はその度、窓辺で降り注ぐ雪を見ながら物思いに耽っていた。そして進行役の木島に一編できたと目くばせした。彼は周りを取り囲む級友を誰とはなく眺めながら詩を読んだ。

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