短編小説ーー全1話

文字数 8,213文字

 ある日の暮れ方のことである。東京都墨田区両国の横綱通りで、一軒の焼き鳥屋がいつものように暖簾(のれん)を上げた。
 ここは大相撲で有名な国技館から目と鼻の先にある。通常ならば本場所のない神無月でも、酒と(さかな)を求めて彷徨(さまよ)う人の姿が目立つ時間帯に、丁度差し掛かったところだ。それなのに今、この辺りには人影がまったくない。代わりに目につくのが、横一列に並ぶいくつもの閉じたシャッターと、腐乱した路上のゴミを(くちばし)で器用に取り分ける(からす)の群れだ。両国を縄張りとする鴉は、日の出後よりもむしろ、日の入前に腹を満たす必要があるみたいだ。その後ろにはおこぼれを狙う数匹の小さなドブネズミが目を光らせている。
 焼き鳥屋は広さが約十五坪。間口は狭いが細長く、奥行きがある。ガラス張りの自動扉には縦書きの黒いゴシック体で大きく「営業中」と書かれたプラスチック製プレートがペタッと貼り付けられている。しかし店内を覗いても、店主の姿は確認できない。その代わり細長いカウンター前に置かれた十席の一つに、二十歳(はたち)前後の女性がちょこんと腰掛けている。彼女は右の頬にできた小さな面皰(にきび)を気にしながら、電子メガネ(VRグラス)を取り出したところだ。
 この女性の名は真理(まり)。一年半前から都内の大学に通う学生だ。両国界隈で生まれ育った下町っ子であり、今も近くのマンションで両親とともに暮らしている。焼き鳥屋の名は『隼――はやぶさ』。真理の父親が約二十年前に立ち上げた店だ。家族経営の零細ビジネスであるため、真理の母親も女将(おかみ)として毎晩働いている。一人っ子である真理も高校生の頃から頻繁に両親の手伝いをしてきた。今日もいましがたカウンターやテーブルを消毒し、品書きを壁に掲げ、箸置きと割り箸を並び終えたところだ。
 両国という土地柄もあり、この辺りは相撲をネタに酒をひっかけたい酔客が集まる場所として昔から有名だ。本場所がある一月、五月、九月は特に人の往来が多い。真理がまだ幼い頃、そのおかげで隼――はやぶさは大きく繁盛できたが、二〜三年前から一転、店の経営は火の車と化した。変化があまりにも急激に訪れたため、父親と母親はもちろんだが、まだ社会人経験のない真理でさえ、えもいわれぬ鳥肌をゾクゾクと感じたほどだ。
 客足がすっかり遠のいた店舗は両国界隈にとどまらない。今では上野や神田の飲み屋、銀座や六本木のバー、そして赤坂や新橋の料亭なども例外なく、経営上、大変厳しい状態に追い込まれている(酒やタバコ、ギャンブルなどを提供する商売は、政府系組織の支援や金融機関から借入れを受けられなくなったからだ)。これは東京都外の繁華街や地方の飲み屋街などで店を構える商売も多分に漏れない。なかには廃業を余儀なくしたところもある。
 日本中がほんの数年でガラリと変わってしまった理由は、はっきりしている。『ラショウモン』だ。十年前までは影も形もなかった企業名・商品名だが、この四〜五年で愛用者が爆発的に増えた。今では日本国民の半数以上が毎日使っている。その勢いは一向に衰える兆しがないため、利用者の数は、この瞬間もきっと、増え続けているに違いない。ラショウモンを長年取材している著名ジャーナリストのM氏が入手した最新のリーク情報によれば、経営陣は五年以内の「全国完全制覇」を短期的戦略目標として掲げているようだ。
 作者はさっき「店主の姿は確認できない」と書いた。今は水曜日の午後五時を過ぎたばかりだが、このままではひょっとしたら七時や八時を過ぎても、客はただの一人もやって来ない可能性がある。真理の父親はその気配をすでに嗅ぎつけたらしい。彼は数分前、娘の視線を気にしながら忍び足で店の奥に移動し、厨房(ちゅうぼう)の隅にしゃがみ込んだ。そこで身を潜めながらお猪口(ちょこ)を取り出し、数少ない常連客がボトルキープした薩摩焼酎をちびちびと盗み飲みしている。
すると、まるでこのタイミングを見計らったかのように、上空に浮かぶドス黒い雲がざあっと大雨を降らせた。路上が一気に大量の雨水で覆われたからだろうか。鴉もドブネズミも瞬く間に消えてしまった。いま店外で目に付くのは足下(そっか)のアスファルトに染み込んだ鴉の白い(くそ)だけだ。
 店主は二杯目の焼酎をすでに飲み始めている。だがあれほどの大雨にもかかわらず、まったく気づいていないようだ。理由はおそらく心底疲れ切っているからだ。ここ数年間、彼は商売を再び軌道に乗せるため、血の(にじ)むような努力を重ねてきた。しかし今のところ結果は追いつかず、やることなすことがことごとく空振りに終わっている。精魂ともに力尽きたからか、未来への希望を見失ってしまったからなのか、あるいはどうせ誰にも迷惑はかからないと自分の中でたかをくくったのか、それは分からない。だが彼は営業時間中の飲酒――しかも盗み飲み――が「悪事」とは知りながらも、心の中で暴走する欲求を抑えられなかった(いや自らの意志で(たが)を外した可能性さえある)。これでは明日もまた、同じ行為を繰り返すかもしれない。いや、天地がひっくり返らない限り、間違いなく何度も繰り返すだろう。
 「これで今日は、ほぼカンバンね」
 真理はざあざあ降りの雨を身動き一つせずに凝視(ぎょうし)しながら、自分に向けてそう(つぶや)いた。すでにVRグラスを顔にかけているが、スイッチはまだ入れていない。
 ところで店内には女将さんである真理の母親が見当たらない。それもそのはず。数日前に家をあとにしたきり、行方が分からないからだ。もっとも彼女の「家出」は今回が初めてではない。一年ほど前からしばしば、突然、何の予告もなしに姿を消すようになった。決定的な証拠はないが、どうやら浮気相手が原因のようだ。少なくとも真理の父親はそう考えている。一方の真理は母親の事情(情事ではない)にもう少し精通している。母親はなんと、浮気相手ら(複数いるらしい)からせしめたカネや貢物を隼――はやぶさの資金繰りに充てているのだ。彼女のこうした「内職」がなければ、店はとっくに廃業に追い込まれた可能性がある。その事実をある日、真理は偶然知ってしまった。そのため母親の「悪事」を(とが)める気など、どうしたって起きるわけがない。
 真理にとって両親はかけがいのない大切な存在だ。しかし彼らの商売のことは、考えれば考えるだけ気が滅入(めい)る。いくら(こうべ)を巡らせても打開策は思いつかず、いつもヘトヘトになり、相撲で言う「がっぷり四つ」から抜け出せない。そのためかもしれないが、近頃の真理は、自分ではどうにもならないことを力づくで寄り切ろうとするよりも、自力でうまく(さば)ける事象の対処に専心した方がいいと、考えるようになった。言い換えれば「柔よく剛を制す」のコツを掴み出したのかもしれない。
 「よし!」と言いながら真理は軽く柏手(かしわで)を打ち、力士が土俵上に塩を撒くのと同じ心持ちでVRグラスのスイッチに手をつけた。すると一瞬のうちに隼――はやぶさのカウンター席から、父親も母親もいないバーチャル空間に身を置き換えた。
 このバーチャル空間にも気候があり、ユーザーからの指定がなければ、現実世界の天気がそのまま反映される。真理は食べ物や人間関係と同じく、気候の好き嫌いがない。そのため他のユーザーと違い、デフォルトの天気をそのまま受け入れるのが常だ。どうやらさっきまでの大雨は、一転して小雨に変わったらしい。そのため真理の目の前には、白糸のような無数の細長い雨がゆっくりと上空から(したた)り落ちている。ユーザーはアバターを通じて雨を感じられるが、現実世界と違い濡れる心配はなく、当然ながら傘もいらない。バーチャル空間に必要不可欠な自分の分身・アバターに関しても、真理は特に(こだわ)りがない。そのため今まで使用したものはすべて、現実世界の自分と外見が大して(たが)わない、自動作成されたアバターだ。女子大生らしくないと言えばそうだが、父親譲りの飄々(ひょうひょう)とした性格と、母親譲りの美しい容姿が影響しているのかもしれない。だがしかし真理は今日に限って一捻りのアクセントを加えている。それは青いスーツジャケットの左ラペルに身に付けた白銀の鳥毛型ペンダントだ。ひょっとすると、何かのおまじないだろうか。
 真理は数日前から念願の就職活動を開始したばかりだ。すでにバーチャル空間にある企業オフィスを二、三ほど見学している。その時に印象に残ったことと言えば、父親と異なり、余裕を持ちながら颯爽(さっそう)と仕事に励む会社員の姿だ。面接のように採用がかかった重要なアポではないとはいえ、今日の訪問先は満を持してのぞむ企業だ。理由は単純明快。訪問先があの飛ぶ鳥を落とす勢いのラショウモンだからだ。
 なぜ真理は言ってみれば親の「(かたき)」のような存在であるラショウモンに興味を抱いたのか? 復讐のためか? そうだとすれば、彼女は一体、どうやって仇討(あだう)ちを果たすつもりなのか? 元禄十五年(1702年)に江戸本所の吉良邸に討ち入った赤穂義士四十七士のように、日本刀を振りかざしてか? それとも二十一世紀初頭に世界を震撼させたイスラム教過激派のような自爆テロ「ジハード」によってか? だが、そのいずれかの場合でも、攻撃を成功させるにはバーチャル空間のオフィスではなく、現実世界のオフィスを標的にする必要がある。彼女が今、眼の前に敷かれた七段の石段を上がり、金色(こんじき)の大きな扉を押し開けているのは、何か別の魂胆があるからだろう。
 「わあ、本物と同じだ」建物の中に足を踏み入れるなり、真理は思わず呟いた。通常の場合、バーチャル・オフィスのデザインは、実際のものよりも壮麗で華美なものが多い。ところがラショウモンの場合、目の前に(たたず)む建築物と空間は、現実世界の本社オフィスを忠実に再現したものだ。石段で真理が目視した建物の外側には高さ数十メートルのコリント式の大列柱が(そび)えており、その外観は古代ギリシャ時代の神殿を彷彿させた。建物の内側には吹き抜けの大空間が縦横ともに五十メートルほど広がっており、金色を存分にあしらった扉だけでなく、三色の重厚感ある大理石床とドリス式円柱群が、品位と威厳を醸し出している。真上には人間のプロンプト(prompt)を基にAIが描いた天井画があり、描かれた人々の視線が、まるで真理の一挙手一投足に注がれているように見える。
 この絵画が美しいことは素人でも直観的に分かる。けれども数えきれないほどの人間が複雑に触れ合い、絡み合い、交わり合う姿が何を意味しているのかは、よほどの玄人(くろうと)でない限り知る由もない。勝ち誇る人、悲鳴をあげる人、かどわかす人、何かに取り()かれた人、歯を食いしばる人、諦めてうなだれる人、必死で(あらが)う人、雨に濡れる人、熟考を重ねる人、それをあえて放棄した人、デマを無批判に受け入れる人等々、描かれた表情を一つずつ上げていけば、それこそきりがない。それでも天井画の人間全員に共通していることが、たった一つだけある。それは死んでいるものはただの一人もおらず、全員が生きた人間として描かれている点だ。
 真理は(まばた)き一つせずに真上から真正面へと目線をゆっくり移動させた。すると今日の案内役が彼女の方へ歩いて来た。
 「ラショウモンへ、ようこそ。弊社のビジネスに興味を持っていただき、礼を言う。今日は一人で参られたようだが、最後までわたしが責任を持って対応する」
 この案内役は人間ではなく、ボットだ。首から下は人間と同じ姿をしているが、頭は黒毛のジャッカルのような形をしている。よく見ると古代エジプト文明の神話に登場する神・アヌビスと見分けがつかないほどよく似ていた。身長は二メートルをゆうに超えており、上半身だけでなく下半身も筋骨逞しい。だからかもしれないが、その雰囲気は浅草寺・宝蔵門の金剛力士像にもよく似ている。その声は夏草を揺らすそよ風のように爽やかで透明感に満ちていた。声量も大きく、まるでテノール歌手のようによく通る。この半人半獣姿のボットは大きな笑みを浮かべながら、手のひらを開いたまま両手を斜め下に伸ばしている。まるで自分の胸に飛び込んで来いと体全体で表現しているようだ。
 真理は自分の氏名が神谷真理であること、現在〇〇大学商学部の二年生であること、そして今日はオフィス内の見学や面接のためではなく、質問をするために訪問したことをアヌビスに伝えた。すでに右足を屈(かが)めて左膝を床につけたアヌビスは、真理が話し終えるのを待ち、無言で(うなず)いた。そして一切を気にせず、忌憚(きたん)なく質問をすべきだと言明した。これを聞いた真理は自然と屈託のない笑顔を見せた。彼女は直立不動ではあったが、その姿は蹲踞(そんきょ)の姿勢から立ち上がる力士のようにも見えた。彼女は一呼吸おいてから質問を始めた。


真理: まず一つ目ですが、なぜラショウモンは発売開始からわずか数年のあいだで、日本国民の半数以上が使用する人気商品に成長できたのですか? 確かに御社は製品に依存性物質が含まれていないと説明しており、専門家らも異口同音の見解を述べていますが、それではなぜ、これだけ多くの人たちが、毎日欠かさずラショウモンを使っているのですか?

アヌビス: 理由は複数ある。最重要なものを挙げよう。第一にラショウモンが日本政府のお墨付きを得た公認の企業であり商品だからだ。第二に価格が一粒十円と非常に安価であるからだ。第三に誰でも携帯しやすいため、場所や時間にかかわらず、簡単に服用できるからだ。第四に使用すれば必ず、快楽と幸福感を味わえるからだ。第五に使用者同士が強い一体感を感じることが可能だからだ。

真理: しかし、すでに国民の過半数が日常的に使用しており、今後も使用者がねずみ講式に増え続けると世間では噂されています。つまり依存性物質を含む、含まないという議論は本筋から()れた論議であり、ラショウモンは事実上、危険なほど依存性が強い商品なのではないですか?

アヌビス: いや、申し訳ないが、その指摘は的を射ていない。なぜかと言えば日本国民は皆、快楽と幸福感を味わう権利を持つからだ。この二つは空気や水、食べ物と同じく、人間が生きていく上で欠かせないものだ。人間は日々絶えず空気や水、食べ物を必要とするが、人間がそれらに依存しているとは誰も言わない。快楽と幸福感はそれらと同列に扱われるべきであり、ラショウモンを使用すれば、良質な快楽と幸福感をリスクなく手軽に味わうことができる。

真理: 確かに快楽と幸福感はわれわれが豊かな人生を送るために必要です。空気や水、食べ物と同じぐらい重要かもしれません。ですが、ラショウモン以外にも快楽と幸福感を味わえる方法はいくつもあります。理由はどうあれ、国民の大多数がラショウモンに拘泥(こうでい)し、他の選択肢を完全に排除して生きるのは、不健全かつ不完全な人生だと言えませんか?

アヌビス: ところで神谷さんは、ラショウモンを使用したことはあるのかな?

真理: はい、あります。三、四回ほど。

アヌビス: 差し支えなければ使用後の感想を是非聞かせてほしい。

真理: もちろん快楽と幸福感は得られました。最初に説明いただいたポイントも、ほとんど当てはまると思います。ただし私の場合、他者との強い一体感だけは感じませんでした。一人で使用したのは四回中、一回だけでした。にもかかわらずです。正直に言います。私はお酒を飲んだり、ドラッグをやったり、セックスをしたりする方が、他者とのあいだに強い一体感を感じます。ラショウモンは、その、なんと言えばいいのか……説明が難しいですが、快楽や幸福感の発火薬としてはあまりにも効率的というか、意外性がなさ過ぎる気がします。人間は誰もが重苦しさや背徳感、後ろめたさを感じたいときがあります。その機会を完全に奪われた人間は、逆に暴走してしまうのではないでしょうか?

アヌビス: それはつまり、酒やタバコ、麻薬、ギャンブル、暴力、不貞行為などが人間社会をうまく回す上で必要だと言いたい、そういうことか?

真理: すべてではないですが、少なくともいくつかについてはそうだと思います。

アヌビス: どうしてそう思うのか、理解に苦しむ。データを見てみたまえ。われわれがラショウモンを商品化したのは十年前。それ以降、日本の犯罪件数は明らかに下降曲線を辿っている。いじめ、虐待、差別的発言や行為も激減した。自殺者も年々低下している。われわれの商品を毎日使う日本国民は仕事にやりがいを感じ、生活に生きがいを感じている。一昔前まで日本各地で繰り広げられたストライキや大規模デモ、破壊行為などがすっかり影を潜めたのはそのためだ。他にもまだある。国民の半数以上が抵抗なく、大きな社会変化を受け入れるようになった。政府が移民政策を百八十度転換できたのも、そのためだ。おかげで日本の経済成長率は二十世紀中頃に匹敵する高水準を再び記録し始めた。酒やタバコ、ギャンブルなどが快楽と幸せの発火薬として使われていた時代より、遥かに健全な世の中ではないか? そこそこの快楽が保証された毎日、安定した幸福感が味わえる生活、そういう人生こそが至高の人生と言えるのではないか?

真理: 確かに多くの社会問題が解決されましたし、日本中の人々が、快楽と幸福感を日々享受できています。国民全員がラショウモンを使い始めるのも、もはや時間の問題に過ぎないのかもしれません。しかし、こんな「ハッピーピル」がなければ得られない快楽や幸福感が、至高の人生を生きる人間の姿でしょうか? それならいっそのこと、奴隷にでもなった方が良いかもしれない。あるいは自分なりの方法で快楽や幸福を追い求めて命を落とすのもいいかもしれない。ラショウモンに拘泥(こうでい)する人が増えるたびに、私はそう考えてしまいます。パーフェクトでベストな人生は存在しない。それなのになぜ、われわれ全員がラショウモンによって快楽と幸福を味わうことが重要なのですか? 

アヌビス: 理想を言えば、確かにそうかもしれない。しかし他国を見てみたまえ。表現の自由が認められない国では政府のプロパガンダが強要される。国民は自分の頭で考えることさえままならない。そんなろくでもない国で生きる人たちは世界中に大勢いる。彼らは当然、快楽も幸せも感じていない。監視制度が徹底された国だって世界には存在する。そこでは状況がさらに悲惨だ。政府は国民一人ひとりの日々の行動だけでなく、頭の中までハックしている。彼らは快楽や幸せについて、考えることさえできない。もちろん、神谷さんの言う「重苦しさや背徳感、後ろめたさを通じた快楽や幸福感」なんて夢のまた夢だ。別の国では政府が極力、国民生活に干渉しないようにしている。しかし、あらゆる形態の犯罪――殺人、暴行、窃盗、詐欺、強姦等々――が後をたたない。そのため一部の特権的な立場にいる人を除けば、快楽や幸福感と無縁の生活を送っている。そんな国々と比べた場合、日本は天国みたいなところだと思わないか? そして遥かに良い人生を国民一人ひとりが送っていると思わないか?

真理: つまりラショウモンは必要のない悪をこの世からなくすためにある「必要悪」なのですか?

アヌビス: 悪という言葉は適切でない。必要なものは、あくまで必要だからだ。

真理: しかし、もしそれが正しかったとしても、世界の多くの国々が悲惨な状態にあるのに、われわれだけがのうのうと生きる人生が良い生き方だとは思いません。結局のところ、結論は先ほどと変わりません。それは意味のない空っぽな人生ではないですか?

アヌビス: いつまでも日本国民だけがラショウモンを使用している場合は、神谷さんの言うとおりかもしれない。けれどもわれわれは、ラショウモンを世界中で販売したい考えを持つ。世界中の人たちがこれを使用すれば、この世からほとんどすべての問題が消えてなくなると、われわれは考えている。神谷さん、あなたもわれわれと一緒に働き、天地をひっくり返してみないか? あなたはまだ大学二年生だ。返事は今でなくてもいい。それでは、またいつか。


真理がバーチャル空間から現実世界に戻ると、そこには久しぶりに母親の姿があった。彼女はいつものように、暫くのあいだ不在にしていたことを詫びた。すると真理は、はっきりとした口調で「わたし、将来の進路を決めた」と母親に言った。
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