第1話

文字数 4,922文字

手から手へと、縄が宙を踊る。
頭上から放られた一束のわら縄は、空中でゆるゆると解けて、弘幸の真上の松葉を打った。
樹齢二百年の赤松の枝は、その赤茶けた無数の腕を天へと差し伸べ、その梢の先の青々とした松葉は、やがてくる冬の足音を聞き澄ますかのように、凛と大空を突き上げている。その枝と葉との、目にも綾な織り成しの向こうには、真っ青な秋空が透けて見えた。
こんな秋の朝は珍しかった。北陸の秋口から春にかけては、晴天はひと月に数えるほどしかない。その胸のすくような深い青を見て、朝露がわら縄に染みる音さえ聞こえるような気がした。弘幸は腕を伸ばして縄の末端を引くと、それを頭上の枝に結び付けはじめた。
「違う、まずは弱い枝からや。ああ、もっと根元の方や」
 良三が、雪吊りの芯柱のてっぺんから指示を飛ばす。頭上から降ってくる怒号に、弘幸は慌てて縄目をほどき、隣の枝に結びなおした。
「ぼさっとするな、次は後ろや」
 また縄が降ってきた。良三の手から、弘幸の手へと。
生白い弘幸の腕とは違い、良三の双の腕は、松の樹皮のようにひび割れていながらも、まめまめしくよく動いた。昨年、傘寿を迎えたばかりの良三は、昔は腕利きの庭師だったそうだ。老いてもなお矍鑠(かくしゃく)とし、現役を退いたあとも、こうして手(て)次寺(つぎでら)の雪吊りを手伝ったり、公園の庭木の世話を無償で引き受けたりしている。年若い弘幸にも劣らず、その身のこなしは猿のように軽かった。
 弘幸はここ金沢に越してくるまで、雪とは縁遠い温暖な地方で暮らしていた。それ故に、真冬の重く湿った雪、どんよりとした暗い空、色彩の絶えた灰色の街並みに、移り住んできた当初は閉口したものだ。けれども、そんな弘幸も、この雪吊りのある風景だけは好きになれた。樹上に立った芯柱から、数十本ものわら縄が、樹形にそって円錐形に掛けわたされる。真っ白な雪、灰色の空、すべてがモノクロに埋もれる風景の狭間で、雪吊りされた木々だけは、しゃんと背筋を伸ばし、まっすぐな金色の吊り縄を天から地へと伸ばす。厚い雲の切れ間から光が差すような、その洗練された幾何学的で美しい外観は、まるでレンブラントの絵画の天使(エンジェル)の(・)梯子(ラダー)を思わせる。
 作業を進めているうちに昼になった。午後から始まる報恩講のため、寺の中には続々と人が集ってきていた。参道脇に設営されたテントの下からは、門徒の婦人方によるにぎやかな炊きの音が聞こえる。
ふと、弘幸の手が止まった。
「駄目や、駄目や。下ばっかり向いとったら。わしなんか、母ちゃん亡くしてもう二十年や」
 つい先月、弘幸は四十年連れ添ってきた妻と死に別れていた。通夜も葬式も滞りなく済ませ、あとは四十九日法要を待つのみだった。けれども弘幸は、いまだに妻を亡くしたという実感を持てずにいた。喪失感も何の痛みも感じずに、嵐のように過ぎ去っていく法要に精も根も枯らされ、呆然と立ち尽くしているといった風情だった。
「なかなか実感がわかんもんです。急に一人になっておどおどするばかりで。妻は旅行好きでしたから、明日にもひょっこり帰ってくるんじゃないか。そんな気がするんです」
「なあに、慣れや」
「どれくらいで、平気になりますかね」
 その問いに、良三は答えなかった。不安定な芯柱に両足を掛けたまま、鷹が獲物を見るような目で、やおら空を見上げたかと思うと、そのまままんじりとも動かなくなった。
 聞こえなかったのか、それとも――。良三は、認知症を患っていたため、声を掛けてもまともに応じてくれないことがあった。そんな時の良三は、しばしば弘幸の名前すら忘れ果て、あどけない少年時代や、職人だった壮年期に記憶が退行するときもあった。老人とも若者ともつかぬ、奇妙に混濁した、まだらな人格になることもあった。
年を取るとは、まことに不思議なものだ。足腰は萎え、頭は呆け、最期は隣で看取る家族の名前すら覚束なくなりながらも、心だけは若かりし頃へと還っていく。どうして心は旅立つのか。きっとその時々にはできなかった、さまざまな悔いを晴らそうとしているのだろう。遠い過去に置き去りにしてきた、忘れ得ぬ悔いを。弘幸は思う。だからそんな時、弘幸はむやみに声を掛けず、ただ静かに見守ることにしていた。
  縄をさばき終わっても、良三はなかなか下へと降りてこなかった。ひとたび風が吹けば、芯柱は大げさに揺れる。弘幸はやきもきしながら、良三がそこから降りてくるのを、今か今かと見守っていた。良三は庭師時代の汚れた濃紺の法被に、藍染めの地下足袋をはいていた。そのいでたちは、あまりにも真っ青すぎて、少しでも目を離せば、大空の奥に吸い込まれてしまうように思えたのだ。腰の命綱だけが赤い。
「なあに、しゃんと背筋伸ばして生きとったら、呼ばんでもお迎えがくる」
 弘幸の頭上で、良三は天狗のように呵呵(かか)大笑(たいしょう)した。
 良三は、その青空の向こうに、自分の死期すら見透かしているのではないか。ふと、そんな気がした。泰然とした良三の表情には、長い孤独な生活による荒みも、自らの死への恐怖もないように思えた。自分はひと月経っても未だに妻の死さえ受け入れられないというのに、かたや良三は二十年だ。そんな良三を見上げる弘幸の目には、おこがましいほどの羨望(せんぼう)があった。
 その後、どんなに待っていても、良三は下りてくることがなかった。そのまま天使の階段を上って行ってしまったのだった。報恩講の三日後、庭仕事に出向こうとした矢先。八十一、ころり脳溢血での大往生だった。

十二月に入ると、ちらちらと雪も降りだし始め、朝晩の厳しい冷気は、昼過ぎの玄関の框(かまち)にまで腰を下ろすようになった。その頃になってようやく、弘幸は妻のいない生活に慣れはじめていた。 
弘幸は定年を迎えた年に、妻の出身地であるここ金沢に、築二十年の三十五坪の中古住宅を購入していた。二人の娘はすでに嫁いでいたし、近くに住んでいた妻の両親も施設に入っていた。手狭とはいえ、二人で暮らすには、十分すぎる広さだった。しかし、急に一人になると、この家も異常に広く感じ、掃除をするのも億劫に思った。今では家中に、深雪(みゆき)のような埃が、堆く積もっていた。
「なあ、比佐子」
 ひとり呟く。返事はない。
 妻の名を、最後に呼んだのはいつだったか。言葉を交わしたのも、ずいぶんと昔のことのような気がした。
 娘たちが巣立ってからは、夫婦を繋ぎ合わせていた絆が、いかに脆い(もろ)ものだったかと思い知らされた。定年を迎えてからは、比佐子は一日中家にいる弘幸をあからさまに疎むようになった。二人の間に会話はなく、弘幸は妻の趣味さえ知らなかった。そのときはじめて、自分と妻との心の距離が、取り返しもつかないほどに隔たってしまったことを悟った。
 おもむろに、仏壇の傍らにあった写真立てに手を伸ばした。それは比佐子との結婚写真だった。硝子の表面を指でなぞると、ごっそりと黒い埃が塗れついた。無情な時の経過に、弘幸は慄然(りつぜん)とした。
自分だって、もうすぐ死ぬのだから。
心の中でひとりごちながら、そっと写真立てを伏せた。死だけが、この灰色の日々を抜ける、唯一の出口のような気がしていた。比佐子との結婚生活の虚しさも、老いの不安も、一人きりの孤独も、死の前には等しく無力に思えた。やがては誰もがみな死を迎える。その揺るがしがたい絶対的な運命を思うとき、一抹(いちまつ)の悲壮感とともに、例えようもないやすらぎをも感じるのだった。
比佐子はもう、どこにもいない。そして気が付けば、抜け殻となった亡き妻の臥所(ふしど)には、いつの間にか真っ黒な死が横たわっていたのだった。

 あと一息で、冬も終わる。そんな日のことだった。明くる年の二月中旬、突如として大雪が降った。朝、窓の外を見ると、見たこともないほどの雪が積もっていた。秋に雪吊りしたあの赤松は、雪の重みで折れていやしないだろうか。急逝(きゅうせい)した良三の代わりに、その管理を任されていた弘幸は、ふと不安に駆られた。雪が小止みになった昼過ぎ、様子を見に寺へと向かうことにした。
外は別世界だった。道も、生垣も、家々も、真っ白な雪に覆われて、すっかり元の輪郭を失っていた。雪が光を含むせいで、あたりは曇天なのに妙に明るい。生まれたての新雪は、指で触れると、たわいもなく崩れた。その清浄な雪の肌(はだえ)の下で、街はしんと息をひそめていた。まるで目を開けたまま、真昼に夢を見ているように。
家の周囲はすっかり雪の山に埋もれていた。まるで見知らぬ街に迷いこんだようだった。途中の花屋で、仏花を買った。妻の好きだった、真っ赤なガーベラを、一輪だけ添えて。その日はちょうど、妻の月命日だったのだ。
 寺の門をくぐると、一目散に赤松の元へと向かった。寺の者や、近隣の門徒が、早朝に雪掻きしたのだろう。参道の両脇には、積もりたてのやわやわな雪が、堆い山を作っていた。
枝が折れていないといい、弘幸は祈るような気持ちで上を見た。雪化粧された赤松は、すべてが真っ白に埋もれた寺院の風景の中で、その円錐形の幾何学模様を、少しも乱さず風雪に耐えていた。周囲を一巡りして、弘幸は胸をなでおろした。雪の重みで撓(しな)ってはいるものの、枝は一本も折れてはいなかった。
 帰り際、弘幸は妻の墓へと向かった。
あたりは昼とは思えぬほどにうす暗くなっていた。分厚い雲は、琺瑯質(ほうろうしつ)の冷たい光を放ちながら、地上の街に、重く低くのしかかっている。その空の果てから、真っ白な雪が、とめどなく降ってくる。絶え間ない雪に、墓地は丸ごと埋もれつつあった。拝(はい)石(せき)も、花立(はなたて)も、香炉(こうろ)も、すっかり雪に覆い隠され、わずかに墓石の頭が顔を覗かせているだけだった。こんな大雪の日に、わざわざ墓参りに来るものなどいないのだろう。墓道すら見えなかった。
 何を待っていたんだ、俺は。
鋭い悲しみが、突如として胸にこみ上げた。弘幸は体ごと埋もれるようにして雪をかき分けながら、妻の墓の前にまでたどり着いた。亡き妻の墓は、今にも雪に埋もれそうになっていた。その黒御影石の墓石の上には、こんもりと雪の塊が覆いかぶさっている。
ふと弘幸の脳裏に、埃塗れの結婚写真が閃いた。灰色に薄汚れた硝子を指の腹で拭(ぬぐ)うと、鮮やかなカラー写真が蘇った。白無垢姿の妻の真っ赤な口紅、まばゆいばかりの金屏風。その隣ではにかむ自分。新婚旅行ではじめて見た、南国の海のその青さ。はじめて塔子を抱き上げたときのはにかんだ喜び。そして忘れかけていた、数々の悔い。
弘幸は、夢中で雪を払い除けた。この景色が雪に埋もれてしまうことが、ただ怖ろしかった。
かいてもかいても、雪はなくならなかった。雪の清浄なまでの白さは、弘幸の手を冷たく拒絶するようだった。手袋の中にまで、雪の冷気は染み込んできた。針で差すような強烈な冷たさに、何度も手が止まる。ようやく花立が顔を出したところで、弘幸は手袋を外し、墓石に刻まれた妻の名に、そっと指を触れた。
俺はここにいるよ。
墓石の冷たさだけが、それに答えた。
弘幸は立ち尽くしたまま、いつまでも花を手向けられずにいた。
振り仰いだ空は暗い。雪は降りやまず、一条の陽光さえ見えない。しかし、このぶ厚い雲もいつかは破れ、そこから青い空が顔を出す日がくるだろう。やがては自分も、そこへと向かう。天使の階段を上って。だから、あともう少しだけ、ここで立ち尽くしていよう。葉は枯れ、枝は折れ、真っ白な雪に倒れ伏すまで。
胸に抱えた花束の、真っ赤なガーベラの花弁にも、氷砂糖のような雪が掛かった。雪は弘幸の髪に、肩に、背中へと降り積もった。弘幸はもはやその雪を払うことすらせず、花束を双の腕で掻き抱き、その色とりどりの花々に顔を寄せていた。歌うように、呟(つぶ)めくように、そして何かを懸命にささやくように。
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