第2話

文字数 1,879文字

 彼女は静かに目を瞑り、まるで頭の中で映像を再生しているかのようだった。

「そう、御社の製品の概要はよくわかりました。実績からしても、御社の製品で決定したい所存ではあります。あとはコストですね。アフターフォローを含めてこの値段ですと、ウチとしてはやや厳しい。そのあたり交渉の余地はありますか?」
 やはり、そう来たか。
私はいつもの、とっておきの笑顔を見せた。
「ええ、お気持ち、事情はよくわかります。このご時世、どちらの企業様もコスト削減に悩まれていますから。しかし、弊社としてはどちらの他社さまともこの価格で取引を・・・」
「いや、そんな建前の話は省略しましょう。交渉の余地があるかどうかを僕は知りたい。率直にどうですか?あなたからみて、あなたの上司にはその裁量があると思われますか?」
予測しないストレートな質問だった。私は笑顔だけは絶やさないように、そして、頭の中では覚えたマニュアルの記憶を探そうと必死だった。どう答えるのが最適か、しかしその答えは出なかった。
「あ、えっと、そうですね・・・これは一度持ち帰って、社内で検討して・・・」
彼は私の目をまっすぐに、笑わず、じっと見つめた。
「いや、そうじゃない。君の意見を聞きたいんだ」
黒い瞳に吸い込まれそうになった。
「えっと、はい。えっと、正直に言いますと、難しいと思います。その・・・」
私はぎこちなく、固まった笑顔のまま、下を向いた。
「いや、それでいいんだ」
大きな声で彼は言った。びっくりして顔を上げると、彼は澄んだ空気のような笑顔を見せていた。
「うん、わかった。では契約はその値段で行こう。ところで、君は無理をしていないか?無理はエナジーの無駄遣いだ。もっと自然に振舞った方がいい」
 私はまともに彼の顔を見ることができなかった。すぐにこの場を逃げたい気持ちになった。心の中を見透かされたような、恥ずかしさと、悔しさと、自己嫌悪・・・そんなものが入り混じった気持ちで、全身から汗が出た。
でも、笑顔は変えずに、
「あ、はい、ありがとうございます。では、社に持ち帰り、また検討します。あの、こちらが契約書なのですが、記載していただいて、また後日受け取りに伺います」何とか、そこまで言い切ると、机の上に投げるように契約書を置いて、慌てて立ち上がり、彼に背を向けた。
「ああ、わかりました。ではよろしくお願いします」
彼はあまりにも普通に返事を返した。
 私は彼に背を向けたまま会釈して、逃げるように部屋を出た。本当は会社に持ち帰って検討する必要などない。その場で契約書を交わし、控えを置いて挨拶をして去ればよかったこと。でもどうしてもその時はその場にいることができなかった。彼を苦手だと感じた。一刻も早く去りたくなった。後日、契約書の受け取りは誰かに頼もう。そう思いながら、鼓動が静まらない心臓を運んだまま帰路を急いだ。
 三日後、私はまた、彼の前にいた。しかも、レストランでランチを目の前にして。
「はい、契約書、記載しておきました」
彼は真面目な顔で書類を出した。
「はい、ありがとうございます。では確認します」
私はいつもの仮面の笑顔のまま、書類に目を通す。こちらのサインを書いて、控えを彼に返した。
「これで、契約成立になります。この度はありがとうございました」
そう言いながら彼の顔を見ると、例の透き通った笑顔で彼は言った。
「さ、仕事はここまでだ。今日は僕の誘いに応じてくれてありがとう。ここのランチはなかなかいけるよ」
「こんな気を使っていただかなくても良かったんですが」
「いや、僕は君に興味があってね・・・」
 また、鼓動が騒がしくなった。
 それからは何を話したのだろう?彼は私の笑顔の仮面の下に入り込んできた。強引だとか、失礼な感じではない。静かに、ゆっくり、でも直線的に、私の仮面を外しにかかった。こんな人は初めてだった。
 一年後、彼は私の大切な人になり、私は彼のような自然な笑顔が出せるようになっていた。彼を真似した。仕事上ではまだ仮面を少しは使っていたけれど、無理な嘘の笑顔は減った。だって、彼にはすぐに見破られるから。
それでもそこまで変わるのには時間を要した。うまくいかずに泣き出すこともあった。
「人間は頭で、つまり理屈がわかっていても行動に移すことには体が抵抗するものだ。特に沢山の経験を積んでしまうとね。体が覚えてしまうんだ、楽な方を。本当は楽ではなくなるのにね。新しい行動には新しい経験を積まないとなかなか進めないものなんだ」
私が泣いた後、笑って頷くと、
「うん、その自然な笑顔が素敵だ」
彼は決まっていつもそう言った。
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