第3部 終幕

文字数 8,186文字

 談話


「それで、どうだった?」

 至って真面目に尋ねる青年は、分厚い唇を結んで青年の前に座り込む友人を見詰めていた。

「……どうだったって()われても…。これは一体どんな類の話なのさ?」

 (しばら)く閉口し返答に窮していた友人だったが、(ようや)くの事で舌を動かした。

「何って、読めば(わか)るだろ?」
「いや、それはまぁ、なんとなくはね。ただ、物語の起伏が乏しいと云うか、盛り上がりに欠けると云うか。『真理』という興味をそそる題名に反して、作品自体の表情が薄過ぎるというか…。どういった内容の物語なのかが今一、解り辛いんだよ」

 六畳一間の殺風景な部屋。その中央に設置されている円卓を挟んで二人の青年は談議している。円卓の上には、麦茶の入ったコップが二つと紐で(とじ)られた草稿(そうこう)が投げ出されていた。

「…随分とハッキリ云うなぁ、君は。まぁでも、そうやってズバズバと物を云ってくれるというのは、友としての信頼関係を築く事が出来ている証でもあるからね。僕は嬉しいよ。それはそれとして、小説の話だけど。僕は(ミステリー)小説の積もりで書いたんだ」
推理(ミステリー)小説だって?」

 大層驚いた様子の友人は、青年の言葉を反芻(はんすう)する。

「一体、何処(どこ)にそんな要素があったのさ?事件は解決されちゃってるし、推理小説の醍醐味である推理を披露する探偵なんかは、その影すら見えなかったけど?」
「謎小説だからって必ず探偵を出さないといけない規則なんて無いだろ?」
「何云ってんのさ。探偵が出てこなきゃ事件はそのまま迷宮入りじゃないか。仮に事件じゃないにしろ、物語の根幹となる謎を解き明かす存在が居ないと物語を終わらせられないじゃないか」
「でも『真理』では現に終幕してるだろ?」
「それは(はなぶさ)検事が探偵の代わりになってるからでしょ。その役に感謝しないと」
「馬鹿云わないでくれ。その役を書いたのは他でもない僕なんだ。その役の存在意義くらいは誰よりも心得ている積もりだよ」
「だろうね。でもさ、これで推理小説だ何て(うそぶ)くのは少々荷が重過ぎるんじゃない?というか、荷を背負う事すらままならないか」
「なら君には全ての謎が解けたんだろうね?」
「謎も何も、被疑者が判決を下されるまでの過程しか描いてないじゃないか」
「ほら見ろ。何も分かっちゃいない」
「そうは云うけどさ。()し仮に裏の謎があるんだとしたら、それを読者に悟らせ、その種明かしまでするのが一流の推理小説だろ?」
「確かに、裏の謎を臭わせるのは作家の腕の見せどころだろうけど、必ず謎を解き明かさないといけない理由なんて特に無いんだよ」
「なんだそりゃ?じゃあ健人(たけと)は、謎を謎のままにしておくと云う訳か?」
「あぁ、そういう趣向も有りかなと僕は思うよ」
「君は良いかも知れないけど、君の作品を読む読者はどうすんのさ?謎を謎のままに放置されるなんて消化不良を起こしちゃうじゃないか。第一、謎が謎のままで放置されて真実が有耶無耶のままなんてのは、終わりが無いのと同義だよ。そんな物語は物語じゃないよ」
「そうかも知れないけど、そうじゃないとも僕は思うんだ。物語を物語足らしめているのは、始まりが有って終わりが有る事だろ。つまり、起承転結に尽きる訳だ。でも、考えてみてもくれ。始まりが有って、全ての謎が解決、解明されて終わりを迎えるなんて事、この現実の世界に生きていてあると思うかい?」
「全ての謎って云うのは何?」
「真実に至る為の謎だよ」
「余計に分かんないな」

 健人の言葉に困惑する青年は、円卓の上の麦茶を仰いだ。

「そうだな…。康平(こうへい)は心と意識、魂の存在がどんなものか、宇宙の原点は何処なのか、人間という種々雑多(しゅじゅざった)な生物がより良く生きていく方法は一体なんなのか、という謎を君は解決しているのかな?誰かに()って、その謎を解き明かして貰ったかい?どうなんだ」
「どうなんだって。そんなの解決も解明もされて無いよ」
「そうだろう?でも、君も他の人も皆一丁前に生きているし、自分の人生という物語を紡いでいるじゃないか。
 だからね、謎が謎のまま放置されたって構わないんだよ。それに因って物語が止まる訳では無いんだから。必ず何かしらの着地点へと終着するんだ。ただ、真実がなんであったのかと云う点において理解できるか、出来ないかの差が存在するだけさ。
 僕はね、物語の終幕に必要なだけの謎が探偵のような存在に解かれ、皆に説明するといった前時代的な優しい推理小説じゃなくて、物語の進行に必要な一部の謎は解かれても、その更に裏にある全ての謎、(すなわ)ち真実に至る謎はそのままで置かれていて、読者にその謎を考えさせる、(また)は謎が解らないままにその読者と共に人生を歩み、いつしかその謎が解ける事があるようにと寄り添い願う、そんな実際的な謎小説を書きたいと思ったんだよ」
「…ふーん。でもさ健人、よく考えてみなよ。僕達の人生は常に主観的な一部始終の物語でしかないし、この現実の世界はその個々人の物語の羅列でしか無い。そんな混迷を極めた中で全ての謎が解決、解明される必要なんて無いじゃないか?
 君の云う通り、個々の物語に関係のある謎は解決なり、解明されなければ話が進まないし、終わりを迎える事が出来ない。だから、一部の謎は解明されなきゃ駄目だが、全部の謎は解明されなくたって不自由しないのさ。それが個人の人生なんだからね。
 でも、小説は違う。小説のように大衆が読むことを前提とした物語には謎が解き明かされなければいけないし、解明された上で読み手に作者の意図を伝えなければいけないんじゃないのか?君の云う謎を謎のままに放置するのは物語じゃないよ。君は実際の人生と創作物の物語とを一緒くたにし過ぎてるよ」

 康平は空のグラスを弄びながら、健人の顔を見ている。

「その通りだよ。さっきも云ったけど、僕はより実際的な小説が書きたいんだ。別に無意識的にその二つを混濁している訳では無くて、意識的にそうしているんだよ。昨今は一層リアリティを追求する人が増えているから、そうした時代のニーズに合わせた作品を作らなければいけないと思うんだ」
「でも、読後に考えさせる物語なら良いけど、読み終わっても尚、考える物語ってのは読んでいて面白くないじゃないか。結局、何が本当だったのか分からず仕舞(じま)いなんだからね」
「まぁ、中にはつまらないと思う人も居るだろうけど」
「それが大半だよ。どれだけ前時代的だろうと読者の理解が追い付かなければ、それは面白くない小説としてのレッテルを貼られて終わりさ。健人だってそんな当たり前な事は解ってるだろ?」
「もちろん、重々承知だよ。人が物語といった始まりと終わりを望むのは何でだと思う?」
「それが世の(ことわり)だからじゃないの?」
「面白い意見だね。是非とも拝聴したい(ところ)だけど、僕の意見を先に云わせて貰っても良いかな?」
「どうぞ、お好きに」
「人が物語といった始まりと終わりを望むのは、春夏秋冬と云った季節の節目があり、季節を識別する基準があるように、人もまた人生という物語の中に、今の自分がどれだけ成長でき、どの地点にいるのかが解る節目が欲しいからなんだ。
 人生と云った長い物語には終わりを付ける事が出来ない、けど懐古する為の節目は欲しい。だから、要所要所で独自に物語を設けては節目を作り出す。これが物語という局所的な始まりと終わりを望む理由だよ」

 健人はそこでコップを手にすると麦茶を流し込み、喉を潤した。

「そして、(いく)つかの節目を経て培った経験を(もっ)て、創作物である物語に触れる事でその物語を自分の中で吟味する。その後に、自分の経験から来る考えが通用し、理解出来る範疇の物語だった場合は面白いと云い、自分の思考が及ばず、理解の範疇を超えた場合はつまらないというレッテルを貼るんだ。
 中には物語の内容が余りに稚拙な為に飽き飽きしてつまらない、という場合も有るだろうけどね。まぁ、それは良いとして。物語の面白い、面白くないと云った善し悪しは読者の理解力に多大なる影響を受ける訳だけど、僕の書いた『真理』のように考える小説は読者の理解力を柔軟なものにすると思うんだ」
「でも、解説が無けりゃ考えるだけで終わっちゃうじゃないか」
「それで良いのさ。必ず答えが得られるなんて考え方がそもそも間違いだ。答えを得てしまったら、人はそこで止まってしまう。常に考え続けなければ、人は腐してしまうんだから」
「それって最早、物語じゃなくて随想録(ずいそうろく)じゃないか」
「まぁ呼び方はなんとでも好きにしてくれて良いよ」
「そんなのは読む人を選んでしまうし、第一、君の個人的思考に読者が共感してしまった場合、柔軟な理解力を得る処か偏見が生まれてしまうじゃないか」
「読む人を選んでしまうのかも知れないけれど、偏見は生まれないよ。だからこそ考え続けるように謎を謎のままにしているんだから」
「…だとしても、やっぱり僕には面白そうには思えないな。前時代的な小説の方が面白そうだよ」
「まぁ、確かにそれが面白いと思って貰える究極の形だからね。だからこそ、王道なんて呼ばれるんだから。でもね、小説に限った事じゃないけれど、王道も邪道も入り混じった種々雑多な創作物が混在する現代において、こういう趣向を備えた作品があっても良いんじゃないかと僕は思うんだ」
「そりゃあ在って良いだろうけど……やっぱりなぁ」

 康平も健人に次いでボトルから麦茶を注ぎ、それを口に含んだ。

「まぁ僕の納得なんてどうでも良いさ。此処(ここ)まで偉そうに、さも自身の作品が万人に読まれる崇高なもののように言ってるけど、君の作品に謎と云える謎なんてあったか?さっきも云ったけど、ただ判決までの過程を描いてるだけの君の作品は物語では無く、最早日記帳の類に思えるんだけど?それでも強いて謎を挙げるとするなら、最後の『あぁ、三時だ…』くらいか?」
「なんともまぁ、君は悪口の達人だね」

 康平の罵詈讒謗(ばりざんぼう)の嵐に、特段怒る気配の無い健人は至って飄然(ひょうぜん)として平坦な感想を漏らす。

「でも強いてだとしても、疑問が挙がるようならそれは謎として成立だと僕は思うんだけど?」
「細かいなぁ」
「でも実際そうだろう?真実の解らない人からしたら十分に謎じゃないか」
「謎にしちゃあ、インパクトが弱過ぎるよ」
「だけど、分からないならそれは立派な謎じゃないか。それをインパクトが小さ過ぎると感じるのは、君が普段の生活をどれだけ大雑把に暮らしているかという適当さの現れだよ」
「そうかな?」
「そうだよ。なら、僕の書いた物語の真実を解き明かしてみてよ」
「真実も何も、殺人犯が取調べ受けて、量刑を下されてお仕舞いじゃないか。何が真実だ。含み口調で云ったって無駄だよ」
「真実が無ければ僕だって意味深になんか云いやしないよ。じゃあ、訊くけど。君は本当に(なぎ)容疑者が(かなどめ)未世子(みよこ)を殺したと思う?」
「凪の言動と検出された証拠から、ほぼ間違い無いでしょ?そもそも、君はその積もりで書いたんじゃないの?」
「僕の意図する処は違うよ。まず一つ、遺体を自殺に見せ掛ける隠蔽工作だけど、それ自体がそもそも警察のでっち上げなんだ。爪から皮膚組織が検出されてるあたり、刃物に付いてる指紋とかも知らべてる筈だよ。そしたら京未世子がどういう風に刃物を握っていたかなんて一目瞭然の筈なんだ」
「どういう事さ?」
「君は野菜や果物を切る時、どうやって刃物を持つ?通常であれば、刃先が外に向くようにして、刃の背に人差し指を添わせるような持ち方をしないか?」
「…まぁ」
「それを逆に持ってたんだ、京未世子は」
「逆って、逆刃刀みたいに刃の部分を自分側に向けたって事?」
「違う違う。忍者とかが小刀を持つ時のを想像して貰えれば良いよ」
「あぁー…」

 康平にはなんとなく想像が伝わったようであった。恐らくだが、トンファーという武器を持つ時の状態に近いのだと思う。

「その持ち方の方が力が入るから良く切れるんだ。これで英検事が隠蔽工作の理由として上げていた躊躇い傷が無い事の説明が付くだろ?それに、そもそも自分の指紋を付けないようにするのに手袋だの、拭き取る布だのが無いと可笑しいのに警察も検察もそれに関しては一切触れないのは、でっち上げるのに都合が悪いからと考えられないか?」
「だとしても、なんでそんな事を?」
「簡単な事さ。自分達の評価の為だよ」
「警察や検察がそんな事しないだろ。普通」
「その普通って一体なんだろうね?」
「常識的にって事に決まってるじゃん。事件の真相を明かして、裁判に依って公正な判断を下す為にやってるのに、自分達の評価の為だけにそんな卑劣な事はしないでしょ?」
「その常識的って云う偏った見解がもう駄目なんだよ。その思い込みは良くないな。実際に警察や検察内部で、そういう事態が起こってるのかは判断のしようが無いけどね。冤罪が有る時点で有っても可笑しくは無いと僕は思うよ。
 それに僕達が知らないだけで、不正の事実を揉み消ししているのかも知れない。若しかしたら、冤罪なのにそのまま死刑執行された人も過去には居たかも知れないよ」
「でも、そんな事を云い出したら切りが無い。それって最早憶測だし、そういう可能性もあるってだけのたられば話になってしまうじゃないか」
「そうなるね。でも、よく考えてみてくれよ。警察が事故を起こしたりしても、警察官とか、役職の名前が出るだけで個人の名前は露出しないだろ?そういう日常的な小さい部分でも隠蔽しているんだから、組織の立場を揺るがすような記録だったら揉み消していたって何も不思議はないだろ?
 それに、警察じゃなくて学校の教職員の話になるけど、教職員は勤務の中で一人一人評価されているらしいんだ。自分の受け持つクラスで虐めなんて発覚すれば、教職員としての評価が下がり、虐めへの対処として教職員のサービス残業も増える。それらの理由で虐めを見て見ぬ振りをし、(あまつさ)え虐めなんて存在しないと虚偽の申告をした教職員がいたそうだよ。
 学業だけで無く、子供の情緒面、道徳といった部分をも教育する立場の人でさえ、そういう事をしているんだから、高々人に依って作られた法を遵守する警察や検察にあったって可笑しく無いとは思わないか?」
「……それは、そうだけど」

 言葉に窮する康平を見て、健人は話が脱線している事に気付いた。

「大分話が逸れたけど、物語の真実は、凪容疑者は人殺しなんかでは無いって事なんだ」
「じゃあ、誰が京未世子を殺したのさ?」
「誰も殺してないよ。彼女は自ら死んだんだ。最初に凪が(にのまえ)刑事に長々と説明してただろ?あれが事の真実さ。凪自身が云っていたように、彼は正直者だった訳だ」
「京未世子の体内から発見された体液は?爪から出た皮膚組織は?第一、京未世子は自殺願望者を説得し、救済する為にネットの掲示板を使ってたんじゃないのか?」
「体液はそのまま中に出したんだろうね。皮膚組織も行為中に背中か何かを引っ掻いたんじゃないかな。夢中になってたから、そんな些細な傷になんて気付かなかったんだろうよ。
 そして、凪と会う以前に会ってた学生だけど、自殺を説得されたがその理由は分からない、と云っていたよね?考えても見てくれ、自殺という行為をあそこまで崇高な行いのように強く思い込んでいた京未世子なんだ、自殺のシチュエーションにも(こだわ)るだろう。だけど、学生の自殺理由が彼女の想像に反して余りに下等だったんだ。それで、そんな下等な理由で死んでは駄目だと説得し、彼女自身はシチュエーションを打ち壊された事に因って興醒めしてしまったから自殺しなかったんだ。だけど、凪の時にはもう自殺を我慢出来なかったのさ」
「そんな馬鹿な。そんなご都合主義的な事の積み重ねが真実だって?まだ、英検事が云ってた事の方が信憑性があるぞ?」
「その信憑性ってやつは、どれだけ論理的であるかどうかに左右されると僕は思ってる。君が英検事の云ってる事に信憑性を感じるのは、科学的証拠を並べ立てて話しているからだよ。
 さっきの話じゃないけど、理路整然とした論理的な話の方が常識的に考えて受け入れやすいからね。でもね、その常識的と云った偏見でしか物事を判断出来ないのが、そもそもの間違いなんだ。それに凝り固まっているから真実が歪められてしまう。常識は常識で一つの考え方として自分の中に持つべきだし、別の観点での考え方も持つべきだと僕は思うんだ。だからこその考える小説、謎小説なのさ」
「でも、そんなの納得出来ないよ」
「納得出来るか出来ないかは真実に関係無いよ。それは受け取る側の勝手な見解だ。その身勝手な思い込みが『真理』の登場人物である凪のような冤罪者を生んでしまう。まぁ、凪自身にも問題はあるけれどね。
 ただ、冤罪に限らず、その納得の是非から来る身勝手な見解は、必ず他人を傷付け貶める事になる。だから僕達は常に人を見る審美眼を養わなくちゃいけないし、人の悪い面だけで無く、良い面を見付ける努力をしなければいけない。そうでないと、人は優しい気持ちを持てないし、互いに傷付け、いがみ合ってしまうから」
「…なるほど。だから『真理』な訳か。随分と解り辛い」

 康平は苦笑した。

「なんだか、また話が逸れてしまったね。要は、紐解けば単純な事象が、沢山の人の企みや思い込みに因って歪められて、複雑怪奇な解を導き出してしまうという事なんだ。真実は常に一つだけど、(こたえ)は種々雑多な人の数だけ存在する。
 畢竟(ひっきょう)するに、(ミステリー)というのは種々雑多な人達が複雑に絡み合う事に因って織り成される混線状態であり、その(なぞ)というベールに隠された真実を考えるのが(ミステリー)小説であって、一部の(なぞ)を探偵役が推理して、解が導き出される過程を見るだけが推理(ミステリー)小説では無いと僕は思うんだ」
「うーん。君のミステリーに関する見解は分かったし、考える実際的な小説の面白さも今し方ちょっとは理解出来たよ。けど、やっぱり腑に落ちないな。今だって君の説明が無けりゃ僕なんかは気付きもしなかったし…。それに今尚、後者の前時代的な推理小説の方がやっぱり面白そうに思えるよ」
「まぁ、王道だからね」
「じゃあ、その王道で物語を書いた方が良いんじゃないの?そんな謎小説とか幾ら云ったって、作者の自慰作品としか読者には見られないでしょ?」
「確かに自惚れだとか思われるかも知れないけれど、それがどう評価されるかなんてのは、その時代に因りけりだと思うけどな。ただ、僕は読者に考え続けていて欲しいだけなんだ」
「だとしたら、今の時代にはそぐわないね」
「そうかな?」
「そうだよ。だって、真実を考える以前に、現代の人は倫理観や道徳、人間性といった面で大いなる欠落があるし、何よりも皆は考える事よりも明確な解を欲しているからね。
 だからさ、真理探究するといったスタートラインにすら現代の人は立てちゃ居ないんだよ」
「…そうか、僕の才能を披露するには時代が早すぎたか」
「何が才能を披露だ。笑っちゃうね。あんな起伏に乏しい薄っぺらい物語じゃ世間様のお目に掛かる事すら無いよ。それこそ自惚れさ」
「違いない」

 二人は揃って肩を揺らして笑った。

「あー。お腹が減ったから、何か食べに行こう」
「そうだね、この話はこれでお仕舞いにしようか」

 二人は舌の渇きなど気にもせず、六畳一間の部屋を後にしようとジャケットを羽織る。

「それはそうと、健人」
「なんだい?」
「今まで何してたんだよ?」

 靴を履きながら、康平は健人を見る。

「何って、君と話してただろう?」
「ばーか、そうじゃなくて。ついこの間、八年振りに再会したと思ったらいきなり、小説を書いたから読んで欲しい、なんて云い出してさ。まさか、小説家になるためにずっと本を読んでたとかじゃないだろうな?」

 康平は冗談(めか)して訊いた。

「んー、そんなところかな」
「嘘だろ?」

 靴を履き終えた康平は立ち上がると、健人を横目で見やった。

「どうでも良いじゃないか。過去のことなんて」
「…まぁ、それもそうか」

 二人は玄関の扉を開けて外へと踏み出す。施錠する為に背を向けた健人から康平は視線を外した。(おもむろ)に表札の苗字が目に映る。

「…なぁ、健人。昔からこんな苗字だったか?」
「ん?あぁ、これは母親の方の旧姓だよ。色々あってね」
「へぇ。あれ、昔は何て苗字だったっけ?」

 康平は階段の途中で振り返り、健人の横顔に疑問を投げ掛けた。

「…さぁ、なんだったかな」
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