第1話

文字数 2,168文字

 彼のいる劇場に通い詰めて、三年が経とうとしていた。お世辞にも大きな劇場とは言えない、キャパシティ三十人ほどの、雑居ビル二階に構える小さな舞台だ。彼は芸人として、その舞台に立ち続けていた。相方はおらず、一人でコントをしたり、フリップにツッコんだり、時には漫談なんかもした。多種多様なチャレンジも虚しく、ウケている場面を目にする事は少なかった。当然ファンがいるはずもなく、劇場の入り口で出待ち対応をしている芸人たちを横目に、一人駅へと向かう姿は寂しそうだった。
 私が彼を追いかけるようになったのは、「推しが出るから」と、知人にお笑いライブとやらに連れて行かれたのがきっかけだ。知人の推しはテレビでも何度か目にした事がある、今注目の若手芸人なのだそうだ。賞レース前の調整で、劇場の規模に拘らず沢山出演しているのだという。
 お笑いというものに疎かった私だが、仕事のストレスを笑いで解放できるのならと、二つ返事で誘いを了承した。
 新宿の歌舞伎町横に構えた小汚いビルの階段を登って、客席に座る。流石は注目の芸人が出演するという事もあり、客席はいっぱいに埋まっていた(後ほどわかる事だが、普段は十人埋まれば多い方である)。
 その彼らが爆笑で出番を終え、その次に出てきたのが彼だった。爆笑後の出番というやりにくさもあるだろうが、ネタの荒さが素人目線でも目立ち、笑いは一つも起こらなかった。
 しかし、彼は唯一、ネタ終わりの挨拶は誰にも劣らなかった。
 芸人たちが流れ作業のように「ありがとうございました」と袖にはける中、彼は心を込めて、「ありがとうございました!!」と言うのだった。
 仕事で上司から叱られてばかりの私は、感謝される機会などほとんどない。一体何のために生きているのかわからなくなる時だってある。しかし、彼は私に、真心のありがとうをくれた。あんなに冷たい反応をされていたのにも関わらず、彼は感謝の気持ちをいっぱいに表してくれた。
 私はきっとこの時から、彼をずっと応援する事に決めていた。
  
 初めて彼の出待ちをしたのは、それから一週間後のライブだ。前回のネタをブラッシュアップしたのだろうが、残念ながら笑いは起きていなかった。それでも、変わらないのは「ありがとうございました!!」と言う彼の姿。ニ度目の感謝も、私の心には深く刺さるものがあった。
 ライブが終わり、彼が劇場から姿を表す。私服に着替えた彼は見窄らしく、到底売れそうなオーラは感じなかった。
 「あの」と声をかけると、彼はびっくりした様子でこちらを振り返った。まるで職質でも受けたかのような反応に、私は笑ってしまった。
 「今日、観てました。これからも応援しています。」
 それだけ伝えると、なんだか急に恥ずかしくなってしまい、足早に駅の方角へと向かった。差し入れなど持ってくるのがマナーだったろうかと歩きながら反省していると、後ろから「ありがとうございました!!」という大きな声が聞こえた。振り返ると、彼は嬉しそうに大きく手を振っていた。彼と、その周囲を鬱陶しそうに歩く人々との対比が、更におかしかった。

 月日は巡り、今日は彼の引退ライブが開催される。劇場は変わらず、いつもの雑居ビルのニ階。知人や芸人仲間で埋めた可能性もきっとあるだろうが、チケットは完売できていた。
 彼の引退を知った時、少なからず動揺したものの、割と素直に受け入れる事ができた。周りの芸人が売れるか辞めるかを次々していく中、続けるという判断はかなり難しいのだと思う。彼だってエンタメである前に、一人の人間なのだ。それを引き止めるなんてもってのほかである。
 客席に座り、間も無くして客電が落とされる。真っ暗な舞台に、彼が板付きでいるのが気配でわかる。陽気な音楽が流れ、大きながなりと同時に明かりが点く。最後のライブが始まった。
 ネタ六本、間に企画のコーナー等もあり、会場は大いに盛り上がった。こんなにウケているのは初めて観たし、彼も中MCで「あれ?なんか異常なくらいウケてない?」と発していた。様々な要因はあるにしろ、彼はきっと、その日新宿で最もウケていた。そんな場面に立ち会えた事が、私はとても嬉しかった。
 最後のネタは、彼が最もライブで披露しているネタだった。セリフを暗記してしまっている私は、彼の発する一言一句全てが愛おしかった。
 オチまでやり切り、残すは挨拶のみとなった。あの「ありがとうございました!!」が聞ける、最後の瞬間。
 
 言いかける一瞬手前、私は立ち上がっていた。

 当然、会場は緊張の空気に包まれた。私を見上げる沢山の目線。小声で発せられる動揺の声々。しかしそんなものは気にならず、私は、舞台に立つ彼だけを一直線に見つめていた。
 涙を流す私と目が合った彼は、寸分くしゃっと表情を歪めたかと思うと、振り絞る程の声量で、「ありがとうございました・・・!」とお辞儀をした。深々と頭を下げた彼の姿が、暗転と共に見えなくなっていく。
 拍手に包まれる会場の中、追いかけた三年間の彼が走馬灯のように思い出された。私の生活を救ってくれた数々の「ありがとうございました」が、浮かんでは溶けていった。
 
 客電が点くまでの間に、彼の余韻だけが残された舞台に向かって、「ありがとうございました」と、私は泣きながらお辞儀した。
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