第十一夜

文字数 1,358文字

 こんな夢を見た。
 私は父と向かい合っている。私は彼とは不思議にも面識はなかった。ただ彼は父であった。
 私は海を何遍も超えた方に行く。いや、ただ、行きたがっているだけである。
 異国への単純な憧れがあった。私の夢は至極ぼんやりとして終始おぼつかなかった。とりあえず海へ出ればこの退屈な日々が終わるだろう、ぐらいに思っていた。
 そういう青年期のさなかに私はいた。
 馬鹿者が、と父は私にむけて怒鳴る。無論私と彼以外には誰もいないのだから、怒鳴られたのは私に他あるまい、しかし彼の怒りには私以外にも誰か含まれているようだった。私ひとりが受け止めるには大きすぎたから、居間はやはり凍り付いたようでしばらくしんとしていた。
 ーー兄のぶんにほかならない。
 彼も異国へ行きたがった。けれど私よりはよっぽど外の世界を知っていたのだろう。
 「外ではなんでも新手だか新智恵だかいうのが流行ってるようだ。私は賢くありたい、もっと世界というものを知りたい。この目でしかと見てみたい。」
 彼は私にそう聞かせながら普段よりいきいきとして見えた。海よりもさらに外のことを語るとき、いつもそうであった。
 父は優秀な兄を随分可愛がった。父は地方のまあまあな役人で、兄の将来は中央の官僚と決めてきかなかった。兄はそういうとき誤魔化すように静かに口角を上げた。のろまで不器用な私は、父からそんな期待をかけられることもなかったが、兄を羨む気持ちの一つも起きたことはない。
 鎖国なんてとうに終わっているんだからさっさと行けばいいのにと思っていたが、いくら役人の家でもそんな余裕などあるはずもない。明治になっても海外へ出るというのは一大事だった。兄は国の金で海外へ行けるほど優秀なわけでもなかった。父が止めないわけがない。それでも彼はここを飛び出した。家を去る前、兄は私に言った。異国で道半ばで死のうと、この国でつまらん人生を送るよりよっぽどマシだ、と。彼にどいういう算段があったかは知らない。兄とはそれきりだ。

 私は部屋に戻って鳥籠をぼうっと眺める。鳥はぴい、ぴいと力なく鳴いた。籠にはいくつかの傷があった。嘴でつついたようなあとだ。抜け出そうとしていてつけたものなのかもしれない。
 眺めるうちに鳥の餌がもうないことに気づく。それで大急ぎで下まで取りに行く。抜け出せない彼を可哀想と思ったためかもしれない。あるいは、与えなければどこかに行ってしまうと考えたからかもしれない。
 階段を降りたところに母がいた。
 さめざめと泣いて、鼻をすすっている。
 「どうしたのですか。なにか、辛いことでもあったのですか」
 私は親思いなふうを装ってみせた。どうせ母も私を責めるのだ。
 「あなたの兄が…」気づけば母は電報みたいなものを握りしめている。
 「兄が、どうしましたか」
 このときの私としては、また叱られるのではないと知って安堵したぐらいであった。だから、遠い異国で兄が死んだと聞かされたときの私の衝撃はどれほどのものだったろう。私は凍りついてしばらく動けなかった。父は突然のことに驚き居間を落ち着かなく動き回った。悲しいというよりはなにかに焦っているような具合だった。

 不意に醒めたような感覚になった。
 窓の外でぴい、と鳥の鳴く声がした。私はその瞬間に全てを悟ってしまった。
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