第1話
文字数 4,139文字
その海原は、いつの世も静かに波立ちながら、時に時代を大きく変える。
血で赤く染まったその海は、西に広がっていった。
漕ぎ手を失った小舟は、島影から突然流れ出す。
鎧は重く、得意の海の中にもかかわらず自由が利かない。自らの身を守るために様々なものを取り付けることによってかえって身動きの取れない状態を招く。それが身を亡ぼすのだ。
一代を天下に知らしめて、権力をほしいままにした結果、それを守るために様々なものを身に着け、自滅への道に進む。これが時代の理だ。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の理を表す。栄華を世に知らしめた一族の末路は、海の藻屑。妬みと恐れが反発の伏線にあった。
一族の為の、一族による、一族の世。その様にふるまうことが彼らには必要だった。
彼らが周到に計画を進めてきた権力への彼岸は、その成果として、一族の悲願であった幼き安徳天皇を抱き、三種の神器とともに海の底に消えていったのだった。
海峡に一艘の小舟が漂っている。
頭を剃った男の戯言「情けないことを、重ねて見苦しい我が一門」涙を流すもむなしいことと、彼方を仰ぎ見るばかりだ。
船頭に問う「荒れた波頭を切ってくるは、誰だ?」
「坂落としの若造でさあ。屋島に向かっているようですよ」
屋島には、船頭がたくさん集められて、先の激しい戦いを思い起こすばかりだ。
既に頭を丸め出家することで自らの人生を昇華させようとした男は、その甲斐もないことを思い知り、ただただ苦しみを堪えて波の上の靄にすがって漂っているばかりだ。
「おい、船頭、もっと急げないのか。敵の戦法を皆に知らせねばならぬ」
悔しいかな、彼にとって最も頼りにできる長男は、彼よりも既に旅立ち、ここに現れることはない。それに変わって、戦にはからっきし知識も力もない若造が陣頭に立っている。しかし、とてもじゃないが東国の狼藉者たちは何枚も何枚も上手だ。まっとうに太刀打ちできる相手ではない。
鹿しか往来できぬようなで鵯越を下るといった奇策を駆使して挑んでくる彼らにどうやって勝てるというのだ。いやあ、以前には、闇の中の鬨の声や松明の動きに恐れをなし、われ先に逃げ出すばかりではなかったのか。それこそ屋島を落とされたら、最後は、壇ノ浦だ。
一方、都では、もう一人の入道が、美しい女たちを周りに侍らせ、歌を詠んでいる。
この入道、女を喜ばす筆はうまく使えても、歌を詠む筆は思うようにいかぬと見える。そのことにいら立っているのか、遠い海で執り行われている戦が気になって仕方がないのか、立ったり座ったり落ち着かないのだ。
彼は、幽閉から抜け出し、一門の逃避行への道ずれもうまく免れてここに居座っている。そもそも、彼らをうち滅ぼそうと仕組んだのは他でもないこの男なのだから。
「あの男は気に入らなかった。私のことを軽んじて、無理やり私を幽閉したり、自分の孫をわずか2歳にして天皇に仕立て上げた。今回の戦は、私の第二皇子が仕組んだことではあるが、紅組にしろ、白組にしろ、私をうまく利用しようという魂胆が丸見えだ。だから、源平どっちが勝とうが私には関係ないことなのだ。
それにつけても、これほどまでも落ち着かぬのは、恐らく大きな時代の流れの変化を感じるからだろう。
紅組がいずれ滅亡することによって、我らにとっても予測も出来ない世が展開されるに違いない。
いずれにしろ今の政権はもはや死に体同然だ」
入道こと後白河法皇は、梅の香に導かれて庭に下りていく。
既に桜が芽吹き、梅の花びらがそこかしこに散り落ちている。
「彼らも悲劇よなあ。先代が築き上げた権力の座を、子孫たちは守ることができない」
何不自由なくのほほんと育てられた子たちに罪はないが、責任はある。
自分たちを頼って従ってくる郎党たちをないがしろにして、主従関係の大切さを忘れてしまっていた。つまり、大事にしなければならない施しを忘れ、奉仕のみを要求していると、入道は考えるのだ。
「だから敵に対峙しても、大将がまともな指揮を取ることもできず、相手が寝返りを打つ物音ですら恐れをなし、配下の者のことなどほったらかして、真っ先に逃げ出してしまうのだ」
そもそも、清盛自身も周りの苦労もろくに知らず、配下の者のことなど、とんと関心をもたない男だった。
保元の戦いでは、過分な褒賞を得たが、それにもまして商才に長けて金儲けがうまく財を積み上げたのだ。
「あいつの海外貿易で儲けたその金でわれわれも甘い汁を吸うことができたというわけだが、あいつは、その金にあかして人心を得たと思い込んでいたのは、バカ者というほかない。あの世でも金が通用すると思っていただろうが、あにはからんや、あの世じゃ何の神通力もないと知って、今頃悔し涙を呑んでいることだろうよ」
それにしても勢いというものは、その都度波となって時代を制するものなのか。もはや延々と紡がれてきた朝廷の力も情けないほど弱体化してしまっている。それこそ自業自得というものだろう。ちいさな子や孫に地位を与え、責任ばかりを押し付けて、権力だけはいつまでも握ったままだ。
実に醜い。
様々な卑劣な手法が慣習化し、政治などどこ吹く風、思うがままの世を謳歌する。
そんな都合の良い時代がいつまでも続くわけもない。一方で朝廷をうまく利用していい思いをしようとした輩もすでに逃げ出して、すっかり都の華も陰りが見えている。
「こんな夕闇にどのような光を望めばよいのだろうか。安徳が出ていった今、後鳥羽を天皇にしてうまく収めることもできるが」と、後白河院はあくまで未練がましく女官たちが待つ玉座に戻る。
「三種の神器があればいいのだが、いや無くても適当にやるかな」
入道は、もう歌を詠むことを諦め、手にした筆をもって、側女たちの着物の裾に分け入り、いつもの手習いを始めていた。
・・・・・・・・・・
潮の流れは相変わらず速く、行く手を拒む。
弓の名手が射落とした扇が波のまにまに浮き上がってきては、沈んでいったり、誰も手にすることもせず流されていた。
すでに戦はところを移している。
清盛には見える。孫の命が短いことも、我が一族の世も終わりに近づいていることも。
いまさらその男は何をするために荒波の海戦のただ中に行こうとしているのだろうか。彼の祈りが、彼の罪業を帳消しにして、一族の再興を可能にするとでもいうのか。
男も、都の入道を恨んでいる。
そもそもあの後白河院が添えものでしかなかった天皇の座を守れたのは、清盛の軍勢が保元の戦で、義朝たちと一緒に時の上皇軍を追い落としたからだった。さらにその後の義朝たちの乱では、捕らえられた院を、何とか苦労して救い出すということもあった。
「そんなにも協力してやったのに、我らに対する仕打ちはなんとも酷いものだ。やっかみに過ぎないのだが、ついには、源義朝の息子たちに秋波を送って、我らを追いつめてくるのだ」
潮の流れに逆らって進む小舟の舳先に立ち、襲い来る高波を忌々しく見つめる男の目には一条の涙が見える。波しぶきがそれを隠しているが、船頭たちには相変わらずの見続けてきた風景だ。
男は、なおも思う。「頼朝の首が取れなかったことが心残りだ」
男は、最後まで頼朝の首をとの願いが強く、ついには阿弥陀仏を称えることもなく、高熱の苦しみのうちに絶命した。このことが彼の一生をよく表している。
かくも権勢を誇ったものが、時代に与えたものは一体何だったのか。
平安の陰湿な権力争いの中で、ある意味振り回された平家一門。
彼らは、いくら得意面をしても、単に新しい時代の狭間に咲くあだ花となったに過ぎない。
一時は自分たちが作った都に遷都を図ったり、天皇一族の中に潜り込もうとしたが、それも結果を出してはいない。
哀れ、彼ら一族は海の平家らしく海に消えていくのみなのか。
一の谷、屋島、そして追われ追われて壇ノ浦へ。敵は三千余艘、対して操船に長けているとはいえ平家はすでに一千艘にしかならず、敗戦の色は濃く、形勢不利と見た味方の裏切りも多かった。
おびただしい血が海を汚す。
もはやこれまでと、彼の身内が次々と海に沈んでいく。
兄弟たち。息子、娘たち。孫たちまでも。
碇を背負って自ら身を投げていくものも。
妻がまだ幼き安徳天皇を抱え、三種の神器とともに海に飛び込んでいった。
一体、平家とは何だったのか?
後世に、富に狂った悪人どもとして名を馳せるだけなのか。
男には、すべてが見えていた。
それでも執拗に自らの思いを遂げようと荒波に向かうのだ。ああ、なんと、この男はそれを何度となく繰り返しているのだ。決して浄土へはこの海からはたどり着くことはできないことを知りながら。
声が聞こえてくる。どこからか?
暗雲が渦を巻く空を見上げる男の目に入ったのは、はるか彼方から近づいてくる天女なのか。
ぼんやりした輪郭が次第に明確になっていく。
現れたのは、安徳の母、清盛の娘である建礼門院だ。
懐かしさのあまり男の目に涙が光る。
「懐かしや。そなたはどうしていたのだ?」
建礼門院は静かに応える。
「父上をお恨み致します。私は、海に嫌われて、敵の武将に捕らわれた後、大原の庵に引きこもることを許されました。
そこで日々、叔父叔母、兄弟姉妹、そして子どものために、念仏を称え、一門の成仏を祈っております。
皆、浄土への道は遠いものの、あなた様に限っては、おそらく決してかなわぬものと思います。
ある時、後白河院にお尋ねいただきました。
院はわたくしの不幸を嘆いていらっしゃいましたが、院にとっても、この世はままならず、先の短い身を振り返り、ご自身の生き様をひと時の夢の如しと語っていらっしゃいました。
本にこの世は、人を恨み、人を貶めて争いばかり。
私は、あらゆる不幸を見てまいりました。
先立たれた一門を弔い、浄土への祈願に明け暮れる日々なのです。
権力と財でこの世を十二分に謳歌され、信心すら忘れてしまったあなた様は、まだこの世に未練があるのでしょうか」
船頭たち、いや餓鬼と呼ばれる亡者たちは、黙って櫓をこいでいる。
いや、時の波間を潜り抜けているのだ。いつまでも、いつまでも。
血で赤く染まったその海は、西に広がっていった。
漕ぎ手を失った小舟は、島影から突然流れ出す。
鎧は重く、得意の海の中にもかかわらず自由が利かない。自らの身を守るために様々なものを取り付けることによってかえって身動きの取れない状態を招く。それが身を亡ぼすのだ。
一代を天下に知らしめて、権力をほしいままにした結果、それを守るために様々なものを身に着け、自滅への道に進む。これが時代の理だ。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の理を表す。栄華を世に知らしめた一族の末路は、海の藻屑。妬みと恐れが反発の伏線にあった。
一族の為の、一族による、一族の世。その様にふるまうことが彼らには必要だった。
彼らが周到に計画を進めてきた権力への彼岸は、その成果として、一族の悲願であった幼き安徳天皇を抱き、三種の神器とともに海の底に消えていったのだった。
海峡に一艘の小舟が漂っている。
頭を剃った男の戯言「情けないことを、重ねて見苦しい我が一門」涙を流すもむなしいことと、彼方を仰ぎ見るばかりだ。
船頭に問う「荒れた波頭を切ってくるは、誰だ?」
「坂落としの若造でさあ。屋島に向かっているようですよ」
屋島には、船頭がたくさん集められて、先の激しい戦いを思い起こすばかりだ。
既に頭を丸め出家することで自らの人生を昇華させようとした男は、その甲斐もないことを思い知り、ただただ苦しみを堪えて波の上の靄にすがって漂っているばかりだ。
「おい、船頭、もっと急げないのか。敵の戦法を皆に知らせねばならぬ」
悔しいかな、彼にとって最も頼りにできる長男は、彼よりも既に旅立ち、ここに現れることはない。それに変わって、戦にはからっきし知識も力もない若造が陣頭に立っている。しかし、とてもじゃないが東国の狼藉者たちは何枚も何枚も上手だ。まっとうに太刀打ちできる相手ではない。
鹿しか往来できぬようなで鵯越を下るといった奇策を駆使して挑んでくる彼らにどうやって勝てるというのだ。いやあ、以前には、闇の中の鬨の声や松明の動きに恐れをなし、われ先に逃げ出すばかりではなかったのか。それこそ屋島を落とされたら、最後は、壇ノ浦だ。
一方、都では、もう一人の入道が、美しい女たちを周りに侍らせ、歌を詠んでいる。
この入道、女を喜ばす筆はうまく使えても、歌を詠む筆は思うようにいかぬと見える。そのことにいら立っているのか、遠い海で執り行われている戦が気になって仕方がないのか、立ったり座ったり落ち着かないのだ。
彼は、幽閉から抜け出し、一門の逃避行への道ずれもうまく免れてここに居座っている。そもそも、彼らをうち滅ぼそうと仕組んだのは他でもないこの男なのだから。
「あの男は気に入らなかった。私のことを軽んじて、無理やり私を幽閉したり、自分の孫をわずか2歳にして天皇に仕立て上げた。今回の戦は、私の第二皇子が仕組んだことではあるが、紅組にしろ、白組にしろ、私をうまく利用しようという魂胆が丸見えだ。だから、源平どっちが勝とうが私には関係ないことなのだ。
それにつけても、これほどまでも落ち着かぬのは、恐らく大きな時代の流れの変化を感じるからだろう。
紅組がいずれ滅亡することによって、我らにとっても予測も出来ない世が展開されるに違いない。
いずれにしろ今の政権はもはや死に体同然だ」
入道こと後白河法皇は、梅の香に導かれて庭に下りていく。
既に桜が芽吹き、梅の花びらがそこかしこに散り落ちている。
「彼らも悲劇よなあ。先代が築き上げた権力の座を、子孫たちは守ることができない」
何不自由なくのほほんと育てられた子たちに罪はないが、責任はある。
自分たちを頼って従ってくる郎党たちをないがしろにして、主従関係の大切さを忘れてしまっていた。つまり、大事にしなければならない施しを忘れ、奉仕のみを要求していると、入道は考えるのだ。
「だから敵に対峙しても、大将がまともな指揮を取ることもできず、相手が寝返りを打つ物音ですら恐れをなし、配下の者のことなどほったらかして、真っ先に逃げ出してしまうのだ」
そもそも、清盛自身も周りの苦労もろくに知らず、配下の者のことなど、とんと関心をもたない男だった。
保元の戦いでは、過分な褒賞を得たが、それにもまして商才に長けて金儲けがうまく財を積み上げたのだ。
「あいつの海外貿易で儲けたその金でわれわれも甘い汁を吸うことができたというわけだが、あいつは、その金にあかして人心を得たと思い込んでいたのは、バカ者というほかない。あの世でも金が通用すると思っていただろうが、あにはからんや、あの世じゃ何の神通力もないと知って、今頃悔し涙を呑んでいることだろうよ」
それにしても勢いというものは、その都度波となって時代を制するものなのか。もはや延々と紡がれてきた朝廷の力も情けないほど弱体化してしまっている。それこそ自業自得というものだろう。ちいさな子や孫に地位を与え、責任ばかりを押し付けて、権力だけはいつまでも握ったままだ。
実に醜い。
様々な卑劣な手法が慣習化し、政治などどこ吹く風、思うがままの世を謳歌する。
そんな都合の良い時代がいつまでも続くわけもない。一方で朝廷をうまく利用していい思いをしようとした輩もすでに逃げ出して、すっかり都の華も陰りが見えている。
「こんな夕闇にどのような光を望めばよいのだろうか。安徳が出ていった今、後鳥羽を天皇にしてうまく収めることもできるが」と、後白河院はあくまで未練がましく女官たちが待つ玉座に戻る。
「三種の神器があればいいのだが、いや無くても適当にやるかな」
入道は、もう歌を詠むことを諦め、手にした筆をもって、側女たちの着物の裾に分け入り、いつもの手習いを始めていた。
・・・・・・・・・・
潮の流れは相変わらず速く、行く手を拒む。
弓の名手が射落とした扇が波のまにまに浮き上がってきては、沈んでいったり、誰も手にすることもせず流されていた。
すでに戦はところを移している。
清盛には見える。孫の命が短いことも、我が一族の世も終わりに近づいていることも。
いまさらその男は何をするために荒波の海戦のただ中に行こうとしているのだろうか。彼の祈りが、彼の罪業を帳消しにして、一族の再興を可能にするとでもいうのか。
男も、都の入道を恨んでいる。
そもそもあの後白河院が添えものでしかなかった天皇の座を守れたのは、清盛の軍勢が保元の戦で、義朝たちと一緒に時の上皇軍を追い落としたからだった。さらにその後の義朝たちの乱では、捕らえられた院を、何とか苦労して救い出すということもあった。
「そんなにも協力してやったのに、我らに対する仕打ちはなんとも酷いものだ。やっかみに過ぎないのだが、ついには、源義朝の息子たちに秋波を送って、我らを追いつめてくるのだ」
潮の流れに逆らって進む小舟の舳先に立ち、襲い来る高波を忌々しく見つめる男の目には一条の涙が見える。波しぶきがそれを隠しているが、船頭たちには相変わらずの見続けてきた風景だ。
男は、なおも思う。「頼朝の首が取れなかったことが心残りだ」
男は、最後まで頼朝の首をとの願いが強く、ついには阿弥陀仏を称えることもなく、高熱の苦しみのうちに絶命した。このことが彼の一生をよく表している。
かくも権勢を誇ったものが、時代に与えたものは一体何だったのか。
平安の陰湿な権力争いの中で、ある意味振り回された平家一門。
彼らは、いくら得意面をしても、単に新しい時代の狭間に咲くあだ花となったに過ぎない。
一時は自分たちが作った都に遷都を図ったり、天皇一族の中に潜り込もうとしたが、それも結果を出してはいない。
哀れ、彼ら一族は海の平家らしく海に消えていくのみなのか。
一の谷、屋島、そして追われ追われて壇ノ浦へ。敵は三千余艘、対して操船に長けているとはいえ平家はすでに一千艘にしかならず、敗戦の色は濃く、形勢不利と見た味方の裏切りも多かった。
おびただしい血が海を汚す。
もはやこれまでと、彼の身内が次々と海に沈んでいく。
兄弟たち。息子、娘たち。孫たちまでも。
碇を背負って自ら身を投げていくものも。
妻がまだ幼き安徳天皇を抱え、三種の神器とともに海に飛び込んでいった。
一体、平家とは何だったのか?
後世に、富に狂った悪人どもとして名を馳せるだけなのか。
男には、すべてが見えていた。
それでも執拗に自らの思いを遂げようと荒波に向かうのだ。ああ、なんと、この男はそれを何度となく繰り返しているのだ。決して浄土へはこの海からはたどり着くことはできないことを知りながら。
声が聞こえてくる。どこからか?
暗雲が渦を巻く空を見上げる男の目に入ったのは、はるか彼方から近づいてくる天女なのか。
ぼんやりした輪郭が次第に明確になっていく。
現れたのは、安徳の母、清盛の娘である建礼門院だ。
懐かしさのあまり男の目に涙が光る。
「懐かしや。そなたはどうしていたのだ?」
建礼門院は静かに応える。
「父上をお恨み致します。私は、海に嫌われて、敵の武将に捕らわれた後、大原の庵に引きこもることを許されました。
そこで日々、叔父叔母、兄弟姉妹、そして子どものために、念仏を称え、一門の成仏を祈っております。
皆、浄土への道は遠いものの、あなた様に限っては、おそらく決してかなわぬものと思います。
ある時、後白河院にお尋ねいただきました。
院はわたくしの不幸を嘆いていらっしゃいましたが、院にとっても、この世はままならず、先の短い身を振り返り、ご自身の生き様をひと時の夢の如しと語っていらっしゃいました。
本にこの世は、人を恨み、人を貶めて争いばかり。
私は、あらゆる不幸を見てまいりました。
先立たれた一門を弔い、浄土への祈願に明け暮れる日々なのです。
権力と財でこの世を十二分に謳歌され、信心すら忘れてしまったあなた様は、まだこの世に未練があるのでしょうか」
船頭たち、いや餓鬼と呼ばれる亡者たちは、黙って櫓をこいでいる。
いや、時の波間を潜り抜けているのだ。いつまでも、いつまでも。