オレンジジュースとおでん

文字数 1,928文字

 十二月の夜は息も凍り付くほど冷たい。
 ただいまー、と普段通りを意識して声をあげながら、玄関の引き戸を閉めて鍵をかける。
「あら、おかえりなさい」
 リビングに繋がる台所のドアを開けた途端、出汁の香りが微かな灯油の匂いに混じって、冷えた鼻腔に触れた。流し台の前では祖母が洗い物をしていた。
「もうすぐご飯できるから、早く荷物を置いてきちゃいなさい」
 手を泡だらけにした祖母にうなずき、軋む階段をあがって、自室でコートを脱いだ。
 私は祖母と二人暮らしをしている。選んだ大学は実家からは程遠く、祖母の家から通いやすいという理由で部屋をあてがわれてからもうすぐ四年が経つ。
 カーテンを閉め切った窓がカタカタと音を鳴らした。私の生まれる前からあったというこの古い家は、あちこちに綻びがある。今の私のように、何かの衝撃でひとたまりもなく崩れてしまうかもしれない。
「朝美ちゃーん、ご飯よー!」
 一階から祖母の声が響き、階段を降りて台所に入る。ダイニングテーブルの真ん中には、花柄のホーロー鍋が置かれていた。出汁はここから香っていたようだ。
「今日はおでんよ」
 ボーダーのエプロンをしたままの祖母が、具材を器に取り分けている。どのくらい煮込んだのだろう、出汁色に染まった大根、卵、糸こんにゃく。それらからは湯気が立っていて、隙間風の冷たさも感じさせないはずだった。でも。
「おばあちゃん」
 私はそろそろと椅子を引きながら、言った。
「あまり食欲がなくて……」
「あら、風邪でもひいたの?」
「そうじゃないんだけど……」
 祖母が怪訝な表情を浮かべるのも当然だ。今朝の私は、トースターで焼いた食パンを頬張っていたのだ。
 身体的な不調はない。問題は、もっと深い場所にある。
 二年間一緒にいた恋人から別れを告げられたのは、今日最後の講義が終わった後すぐの事だった。突然の出来事で、彼の声がおぼろげに響いた。どうして、と何度も訊ねた。ごめん、と何度も謝られた。ずっと悩んでいたんだ、と告げられた時、綻びは元に戻らないのだと悟った。
 クリスマスを告げる駅前のもみの木やオーナメントが、灯りと共に私を突き刺した。何も知らずにカラフルなイベントに溶け込もうとしていた昨日までの景色は、ずいぶんと遠いところに消えてしまった。
 朝美ちゃん、と祖母が言う。
「食べられるだけでもいいから、少しでも食べなさい」
 祖母はおもむろに冷蔵庫の扉を開けて、食事時には出さないはずのペットボトルを取り出した。量販店で買い足しされたグラスがオレンジ色の液体で埋まっていく。私の好きなオレンジジュースだった。
 祖母も両親も、食事と共にジュースを飲む事をよく思わなかった。ファミリーレストランでのお子様ランチもドリンクバーも、縁遠いものだった。
 なのに、私はおでんを目の前にしてジュースを飲み込んだ。失恋という形で生まれた空洞に酸味が混ざり、それを埋めるように私は大根を箸でつつく。ほろほろと崩れそうになる大根が、出汁と共に口の中に広がって、食道を伝って落ちていく。
「あったかい……」
 思わずつぶやいた言葉と共に、ほろりと涙がこぼれた。慌てて鼻をすすると、出汁の香りが傷口に優しく沁みて、なおさら涙が溢れた。
 何が悪かったんだろう。いつから駄目になっていたんだろう。いくつもの疑問が、中和しない味と共に渦巻いた。何を直せばよかったんだろう、私の何が不満だったんだろう。
 一方的に突き放された心は丸裸になって、さまざまな感覚をまっすぐに受けて止めていく。古い家の床の軋み、窓を叩く風の音、白い蛍光灯の光、湯気と共に上がる出汁の香り。
 箸を持ったまま泣き続ける私の前に、ティッシュケースが置かれた。祖母は黙ったまま流し台に向かい、やかんに水を入れた。私はティッシュを手に取って乱暴に目元を拭う。ティッシュには、禿げたマスカラが付いた。
 クリアになった視界に映る祖母の背中が丸かった。いつからこんなに小さくなっていたのだろう、と思い、そうじゃないんだと考え直す。いつから、だなんて事はない。祖母が年老いていくのも、彼の心が離れていったのも、時間の経過によるものだったのかもしれない。
「朝美ちゃん」
 子供の頃から変わらない呼び方で、祖母が言う。
「お風呂を済ませたら、ココアを淹れようかね」
 いつもなら肥満やら虫歯やらを気にして夜に甘い物を摂る事など許さなかった祖母は、何事もなかったようにおでんを食べ始めた。あちち、とくしゃくしゃに皺の寄った祖母の顔。おばあちゃん。思わず縋りたくなった気持ちを抑えるように、私は卵を口に運んだ。
 リビングにあるファンヒーターが静かに唸る。壁時計の針は進んでいく。卒業と共にこの家を出るまで、あと三か月。
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