Catch boll day(キャッチボール デイ)

文字数 3,167文字


 さぞ偉大なるジョージ・ワシントンが生を受けていない日に、お父さんは天に召された。
 父親が死んだその日、僕は煙突雲をふかしながら真っ青な空を仰いでいた。獅子を形どった雲に手を伸ばしたけど、とても届きそうにはなかった。素手で戦ったとしても敵わないだろうな。恐れ多くて思わず神様みたいに崇めちまったよ。

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 僕は葬儀の場で、激怒したふとっちょさんに右の頬骨を力一杯ぶっ飛ばされたんだ。漫画(コミック)の登場人物のように天使が空を舞うことはなかったが、吹き飛んだ反動のせいか、爆発したふとっちょさんの顔が九つ首のおぞましい怪物に見えてしまって、僕は大慌てで父の葬儀の場から逃げ出してしまった。

 けど、ふとっちょさんに叩きつけられた右頬よりも、ぶっ飛ばされた反動で打ち付けられた左頬骨の方が痛かった。敬虔なるイエス様に感謝しなくては。もしくは家に帰ったらふとっちょさんの写真に祈りを捧げるのも悪くない。

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 まあ、自業自得ともいえる。
 敬虔なる父さんの棺に向かって、不貞を働くような親不孝者には、当然の報いだろう。

 B29から原子爆弾を投下して黒い雨を降らせるよりは良心的だろうけど、不用意に雷を落とす雷親父は、ムッシュ・ゼウス殿だけで充分だ。

 でも、どうしようもなかったんだ。葬儀の場で白い棺に横たわった父さんの真っ白な顔を見て、僕にはかけるべき言葉が見つからなかった。
 来るべきではなかった。こんな辛い思いをするぐらいなら、親父の大好きだった鹿狩りにでも行っておくべきだったんだ……。
 ああっ、神様、どうかこの憐れな殉教者をお許しください! 神様っ! ああ、神様!

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 こうなる運命だったのだ、と自分の運命を呪いつつ、僕はその場からできるだけ遠ざかって逃げたかったけれど、僕には四本も足がついてないので、ケンタウロスのように駆けて逃げることは叶わなかった。
 もう疲れた。次の安息日(バカンス)は今度こそ休みをとるようにしよう。それがいい。

 やむなく、白い棺から猪のように猪突猛進して立ち去ろうとした時、

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 ──気づいた時には、僕は隠し持っていたボールを父さんの白い棺に向かって放り投げてしまっていた。
 僕がボールを投げた時の母君(ははぎみ)といったら、『夜の女王のアリアの魔笛』にも引けをとらない叫びようだった。

 きっと母さんは、牛小屋のような汚い実家を掃除したとしても二度と許してはくれないだろう。

 僕が投げたのは、父親との想い出──親父が僕の誕生日に買ってくれた真っ白な野球(ベースボール)の球そのものだった。

◇ ◇ ◇

6
 毎年、誕生日がくると、親父は僕に野球のボールとかミットとかを飽きもせずに贈ってきたものだ。まったく鬱陶しいことこの上ないよな。
 親父は男の子が生まれたら、野球少年にして、キャッチボールをするのが夢だったらしい。
 けど、僕は小さい頃は内気だったし、野球のなにが面白いのかまるでわからなかったから、親父からのキャッチボールの誘いをいつも断っていた。

 あまつさえ狩猟が趣味だった親父からのハンティングの誘いでさえも断り続けていた訳だし。
 でも僕だって可愛らしい小鳥を殺すようなことしたくなかったんだよ。僕にだって言い分ってやつがあるんだ。

 それなのに、ムッシュ・ゼウス殿は不肖の息子を見限って、近所の子供たちとキャッチボールを始めましたとさ。

 親父がよその子とキャッチボールしてるの見ると、もう腹立ってきちゃうんだよな。わかるだろ?
 あまりにも腹が立ったもんだから、家の庭で買ってた番犬(ばんけん)を殺してやったよ。自分のことを人間だと思ってるあの阿呆犬をな。地獄へ落ちろ。

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 でもそれだけじゃあ、僕の気はおさまらなかった。だから、親父がくれたミットとボールを全部ナイフでズタズタにしてやったわけ。気の毒なことにミットは牛革が厚くて破き切れなかったけどな。でもミット坊やを強姦(レイプ)できて僕は漸く腹の居所が収まったのさ。

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 ところがだ。運悪く父親が僕の真後ろに立ってたんだよ。僕の黒い影なんか踏んじゃってさ。忍び足で近寄ってくんなよな。いつもなら長ったらしい杖を鳴らして歩いてるだろうが。

 「そんなに俺が憎いのか?」なんて、訊くなよな。勘弁してくれよ。せめて僕が返事するまで待ってくれよ。親父の書斎から勝手に盗んだこのナイフも返すつもりだったんだ。
 どこいくんだよ。待ってくれよ。弁解させてくれよ、父さん。

 僕はきちんと馬の刺繍が縫い付けられたこのミット坊やに親父がくれたボールを食べさせてあげるつもりだったんだぜ。よくできた息子だろ?

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 それも僕がナイフで傷つけたボールには、『サヨナラホームラン!』とか書いてあったんだよ。誕生日でくれたやつ十二個全部だぜ? ドン引きだろ? 僕にサヨナラ満塁ホームランとか打てるような自慢の息子になって欲しいって、魂胆が丸見えなんだよ。うぜえんだよ。
 僕にチャンピオンベルトを腰に巻いてほしいとでもいうのかよ。無茶いうなよな。だったらいま腰に巻いてるベルトがそうだよ。どうだい、よく似合ってるだろ。これは嘘じゃない、本当になんだ。

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 でも僕だってさ。親父が望むようなスポーツ万能の、ヘラクレスみたいな男らしい奴になりたかったんだぜ。信じられないかもしれないけどさ。話すと長いんだよ。いやほんと。

 だから傷が浅かった十一回目の誕生日に親父がくれたボールだけは大事にとっておいたんだからな。
 それにミットだって野球クラブの連中が使ってるやつをごっそりと盗んでくる予定だったんだよ。そいつらを親父と遊んでた子供たちにもプレゼントするつもりだったんだ。

 それなのに弁解する前にぽっくり逝っちゃうのは無しだろ。勘弁してくれよ。

 だから僕にはボールを投げる選択しか残されてなかったんだよ。わかるだろ?

 せめて胸を張ってサヨナラぐらいはしたいじゃないか。

 偉大なるムッシュ・ゼウス殿ならわかってくれるよな?

◇ ◇ ◇

11
 ──そういうわけで、父親への背信の(のち)、僕は墓地から少し離れたところで、偉大なる父から譲り受けたこのボックスカーに寝そべっていた次第だ。

 僕はかりかりのクロックムッシュをたいらげてから、腕時計(ムッシュ・クロック殿)が刻んだ時計の針を確認した。秒針は十一時を示していた。

 さあ、キャッチボールの時間だ。

 こうなる運命だったのだ、と何度も自分に言い聞かせた僕は、己の不甲斐なさを呪いつつ、右頬を擦って、左手にミットをはめて、父親との想い出を乗せたボールを右の手で手中に収めた。

 ──そして気づいた時には、青い空に浮かぶ太陽に祈りを捧げる間もなく、遥か彼方へと丸いボールを放り投げてしまっていた。

 ぴかっ、と輝いた〈黄金の林檎〉が眩しくて目が焼けてしまいそうだったけど、黄金に輝いた十一番目のイカロスは、遥か真下の母なるミットめがけて上手く着弾してくれた。
 その反動で二番目の石板を叩き割ったような地鳴りがボックスカーを激しく揺らした。

12(0)
 ストライクだ。今日は本当に幸運な日(ラッキーデイ)。ミットがボールを抱擁してくれた。やはりイエス様は僕たちのことを見放してはいなかったのだ。

 (むかし)飼っていた我が家の番犬の地響きのような唸り声が聴こえた気がした。
 懐かしい我が家の情景が克明に浮かんできた。家に帰る時間が来たんだ。時計の秒針が零時に帰る頃には家路についている頃合だろう。

 先ほどまで荒れ狂っていた僕の心には、真っな海が広がっていった。これでようやく海を渡れる。これでようやく勝利の唄を家族に捧げることができるんだ。

 ──でも僕たちは一体誰にこのささやかな勝利を自慢することができるのだろうか。

「おやすみなさい、お父さん……」

 どうか安らかに眠ってください。

 僕たちはお父さんが誇れるような息子になれましたか──。

 晴天の青空なのに、ジーン・ケリーの黒い唄が聴こえた気がした。
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