4:歪ナ姉妹

文字数 2,168文字

 妙に百合の様子がおかしい。そうあたしが思ったのは、夕方くらいのことだった。いつもより早くギャラリーから帰ってきた姉の顔は青白く、何かを悩んでいる様子だ。

「ねえ、ちょっと。なんかあったの?」

 百合はあたしの問いかけに、何も答えない。リビングから見えるダイニングキッチンの奥で、淡々と夕食の準備をしている。

 無視されているのが(しゃく)だったから、矢継ぎ早に問いかける。

衛東(えとう)さん、今日来たんでしょ? いくらであの絵、売れた?」
「……賢者の海は、売れたわ。二百万で」
「二百万! さっすが衛東さん、太っ腹。あたしのパトロンだけあるわ」

 パトロンは何人か現れるようになったが、やはり衛東が一番だ。特に、月彩(つきさい)の風景を気に入ってくれているところが素晴らしい。他の連中は手慰みに描いた風景画なんかばかり買っているから。

 あたしの才能が、二百万。これからあたしの名は、もっともっと売れていくだろう。楽しみで仕方ない。ソファに座り直し、画集をめくる。

「これで今月、楽になるじゃん。なんで暗い顔してるのよ、あんた」
「少し具合が悪いの」
「ふぅん」

 それが嘘か本当か、あたしにはどっちでもいい。ただ、風邪なんか引いてあたしに迷惑だけはかけないで欲しい、そう思う。

「衛東さん、他のシリーズも欲しがってたよね。売ってやってあげてもいいかな」
「……売る気なの?」
「蛇と泡、残ってるじゃん。セットで売って、少しだけ安くしてもよくない?」
「今あなたが描いている作品ができたら、それも考えるわ」

 珍しい言葉だ。月彩の風景を描くのを嫌がっていたはずなのに。まあ、それはさておこう。何をいわれても、あのシリーズを描くことをやめるなんてできやしないのだから。

「ところでさ、百合。あんたいつまであの男、ギャラリーにおいとくつもり?」
「フィラスのこと?」
「それ以外に誰がいるのさ。ドジだし、へまばかりするし。追い出せばいいじゃん」
「彼のこと、悪く言わないで。フィラスは一所懸命にやってくれてるわ」
「はーん。何、あんたら、そういう関係?」
「違うわ……考えすぎよ」

 ふん、と鼻を鳴らして画集を閉じる。少なくとも、あたしが数回会った時に見た際、あの男は百合に好意を抱いているのがわかったから。

 百合は取り立てて美人じゃない。お洒落にも気を遣わない。素朴と言えば聞こえはいいが、要は地味なのだ。彼がどうして百合なんかに惚れているのか、それが理解できなかった。

 あたしに惚れるならわかる。女を捨てちゃいないから。そこも気に食わない部分の一つだ。

「ま、あんな男に好かれても困るけどね」
「何か言った? 薔子(しょうこ)
「別に。ねえ、それより早くしてよ。夜に続き描くんだからさ」
「今、できたわ。座って」

 言って、机に夕飯を並べていく手際はいい。画集を置き、百合の元に向かう。これまた地味な和食が並んでいてうんざりした。

「少しくらい祝いの食卓ってもの、考えないの? あんた」
「いくらお金が入ったからって、頻繁に豪華な食材は買えないわ」
「つまんない女」

 あたしの挑発に、百合は乗ってこなかった。大げさにため息をついて、とりあえず食事をはじめる。どうせならステーキとか、魚介類とか、立派なものが食べたかったのに。本当に姉はあたしの気分を損ねるのが上手だ。

 テレビのニュースもつまらなく、会話もなし。ますます気分が滅入ってくる。煮付けを適当に食べて、あたしは食事の大半を残した。

「もういらないの? もっと食べないと、体に悪いわ」
「母親ぶるなよ。こういう気分じゃないし。後でコーヒーとサンドイッチ持ってきてよね。アトリエの方にいるから」
「……わかったわ」

 席を立ち、少しずつ夕飯を食べる百合を見下ろす。食事の手がいつもより遅い。本当に具合が悪いのかもしれないが、あたしの頭はすぐに切り替わり、絵画のことでいっぱいになる。

 無言のままリビングを出て、アトリエの方に向かった。途中の通路から覗ける細い月が綺麗だ。黄昏の中に浮かぶ月、それもモチーフとして考えたけれど、月彩の風景シリーズには似合わない。

 アトリエの中は空調が効いており、居心地がよかった。油の独特な匂いも好きだ。自分だけの空間。誰にも邪魔をされない聖域。

 大事な領域の中心に、描きかけの絵が待っていた。早く、早く、と誰かに急かされている感じがする。

 不思議なことに、百合が持っていた眼鏡をかけた時から、あたしの視力はグンとよくなった。そして絵への閃きが止まらなくなった。そうして描いたのが、月彩の風景だ。

 頭の中へ鮮明に送りこまれるイメージは、どこか退廃的で暗く、それでも抗いがたいものがあった。これを形として残せるのはあたししかいない。そういう自負すらわいてきて、事実、月彩の風景によって脚光を浴びることができた。

 あたしにはもっと伸びしろがある。百合なんか目じゃないほどに。いや、もう絵を描かない姉と比べるのも悪いか。かわいそうな百合。あたしが太陽なら、百合こそ月だ。ううん、星かもしれない。

 あたしという妹がいなければ、そう思ったことはないのだろうか。

 仄暗い考えを巡らせながら、カンバスの前に座る。途端、百合のことも視力のことも、もうどうでもよくなった。絵の具を出し、続きを描いていく。

 早くあたしを見て。もっとあたしの絵を見て。ただそれだけを願いながら。
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