不規則なSOS

文字数 3,352文字

 この話には起承転結で言うところの結がない。つまるところオチがないのだ。それは聞き手にとってみればなんとも収まりが悪い終わりになってしまうに違いない。しかしながら僕はあの時起こった僕自身に出来事を誰かに話さない訳にはいかないのだ。今後僕の発信するかもしれないSOSを聞き逃してしまわれない為にも。

 僕はその日もいつものように市民プールの25mレーンを一人で泳いでいた。身体の全体を大きく使って筋肉をしっかりと伸ばすようなイメージでゆっくりと泳ぎ、同じレーンで自分より早く泳いでいる人がいたら端に寄ってその相手に道を譲る。あくまでも自分のペースで自分が定めた目標まで泳ぎ切ることに集中する。これを毎週火曜、木曜、土曜に行う。それが僕がこの30年間で身につけることができた習慣だった。

 目標の距離を泳ぎ終えたあと、プールサイドに置かれたベンチに向かうとこれもいつものように富田くんが座っていた。彼はこの時間にいつも僕と同じようにこのプールに泳ぎに来る大学生だ。清潔感のあるさっぱりとしたスポーツカットに引き締まった身体、加えて人当たりのいい性格は好青年という言葉が一番ふさわしいように思える。
 僕たちはいつものようにベンチに座って世間話を始めた。大学のゼミやサークルに活発に参加している彼はいつも様々な新しい意見や感想を楽しそうに僕に話してくれる。しかし今日彼は最近起こった不思議な出来事について僕に話し始めた。それは彼が所属している登山のサークルで起こった出来事だった。

「その時ぼくたちは部室で無線機のチェックをしていたんです。そうしたら部員の一人が『どうしてもSOSにしか聞こえないFMが入るんだけど』と言ってきました。何人かで集まってもう一度聞いてみると、不規則ではあるけれど確かに長点と短点を連続でクリックする音が聞こえます。ぼくたちはそこで誰かが発信しているSOS信号だと判断しました。アンテナを振るとそれは県境にある山で、信号強度はかなり高かったです。ぼくたちは急いで顧問に取り次ぎ車を出して貰うことにしました」

「警察には連絡したの?」と僕は訊いてみた。

「いや、確信ではなかったので現場に着いてからの報告にしようという顧問の判断でした」彼はそう言って一呼吸置いた。「二時間ほどかけて特定できたのは天神平という場所です。現地に到着すると夕方ということもあってか人はほとんど誰もいない状況でした。小型の無線機を持ちもう一度方向を確かめてから三組に分かれて移動すると、隣を歩いていた部員の無線機が突然ハウリングを起こしました。これは普段ではあまり起こらない現象です」

 僕は息をのんで彼の話の続きを待った。プールの中では小学生くらいの女の子と指導員の女性がクロールの泳ぎ方を教えていた。女の子は懸命に腕をかいて前に進んでいた。

「それから登山道に入ってすぐの場所にザックを発見しました。さらに少し見回した後に女性の死体を見つけました。詳しくは見ていないけれど比較的に若い方だったと思います。ぼくたちは慌てて警察に連絡して到着するのを待ちました」

「……そういった形で登山客の遺体なんかを見つけるのは珍しいことだろうね」と僕は言った。

 彼は頷いてから、でも不思議なのはここからなんです、と唇を舐めながら言う。

「ぼくたちは死体を発見したあと興奮状態で誰も気づかなかったんですが、見つかった女性の持ち物やその周辺から無線機が見つからなかったみたいなんです。でもそれはありえない話でした。だってぼくたちはその無線機からの信号をキャッチしてそこまで来たんですから」

「誰かが遺体を見つけた後に、SOS信号だけを送りその場から去ったという可能性は?」

「警察はその可能性も洗ったようですが、めぼしい情報はなかったそうです。遺体が発見されてから死後二日が経過しているようだったので本人が信号を出した後に無線機がどこかになくなったという可能性も低いみたいです」

 確かに彼の言う通りそれはおかしな話だった。死体がSOSを発信できるわけがない。じゃあそのSOSは一体どこから、誰が発信したのだろうか?

「まあ遺体を見つけるなんてことはあまりないことですけど、登山をしていると他にもいろいろ不思議なことが起こります。心を動かされることも少なくないです」彼はそう言って笑顔を作った。「どうです? 今度一緒に登山に行きませんか? ぼくでよければ必要な道具なんかは教えてあげられますよ」

「今の話を聞いて登山に対しておよび腰になっていたところさ。危険が付きまとう趣味っていうのは僕の趣向から外れているんだよ」

「そんなことをいったら水泳だって危険でしょう」

 そうして登山の話題は終わっていった。その時は彼に言った通り登山など興味はなかった。しかしながら僕は結局富田くんの強い誘いに押し負けて、一度二人で登山に行くことになった。そして非常に認めたくない事実ではあるが、その日を境に僕は山を登ることの魅力にどっぷりとはまってしまった。その風景、緑の匂い、そこで食べる物。いつもの日常生活で当たり前に目にし、口に含む物が、全ていつもの日常生活と乖離していた。それは僕に新しい感覚を与えてくれた。
 結局のところ登山は僕の趣向に合っていたのだ。自分で設定した目標に向かい自分のペースでゆっくりと進んで行く。他人と争ったりしなくてもいいというのも大きな魅力だった。そんな風にして何度か富田くんを含めた数人で登山にチャレンジしたり、一人でゆっくり地方の山に登りに行くこともあった。

 それから大体一年くらいが経過した後だった。僕は一人である郊外の山を登っていた。その日は天候が不安定で何度か足止めを食らっていたので、当初の予定よりだいぶ遅れた時間に自分が設定した場所に到着した。何物にも代えがたい心地のいい達成感が疲労した身体を包み込む。冷たい新鮮な空気が体内を循環し、疲労を押し流してくれるようだった。
 無線機がハウリングを起こしたのはその時だった。突然ノイズが走ったような音が鳴り響き、僕は何事かと無線機をチェックする。続いて聞こえたのは不規則の連続のクリック音だった。長音。少し間があって短音。それが三回繰り返される。そこで僕は誰かのSOS信号だった確信した。信号強度も強く、ここからそう遠くない場所からのものだと分かった。薄暗くなり始めている登山道を引き返し無線機を使って、強い信号の発信元へと向かって行く。
 その最中、僕は早足で歩きながら一年前に聞いた富田くんの話を思い出さないわけにはいかなかった。遺体から発せられた正体不明のSOS。思えば今のこの状況はかつて富田くんが語っていた内容と酷似していた。――もしかしたら僕が向かっている先には遺体があるのではないだろうか?
 最初に僕の視界に入ったのは道端に無造作に置かれたザックだった。そして近づくにつれてそのザックには見覚えがあることが分かる。使い古され色が落ちたベージュ。もう廃盤となっているらしいブランドのロゴ。そして彼が愛用していたトレッキングポール。そしてその場所から30メートルほど離れた場所に誰かが横たわっているのが見える。色白くなり精気がなくなったその人物は間違いなく富田くんだった。

 後日、警察から連絡があり、やはり彼の周囲から無線機は見つからなかったという報告を受けた。それに伴い第一発見者の僕は事情聴取を受けることになったが、彼は二日前にはすでに亡くなっており僕はその時会社にいたのでアリバイがあった。

「不思議な話ですよ。二日も前にあんな場所で亡くなっていたら、普通誰かが気づくもんです。二日も発見されずに野ざらしにされていたなんて考えられない。それに無線機が見つからないのも不自然だ。ねえ、おたく本当にSOSの連絡を受けてあの場所に辿り着いたんでしょうね?」

 刑事のそんな問いに対し、僕は頷くことしかできない。僕は間違いなく、SOSの無線連絡を受けてあの場所に来たのだ。それが二日前に死んだはずの遺体からだったとしても。
 それ以来、僕は登山には行っていない。プールにも行かなくなってしまった。そして天気の悪い昼下がりの休日にはいつもあの時の不規則なSOSが聞こえるような気がした。
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