信長と障子

文字数 1,566文字

 天正六年の十月のある朝。

 朝の早い織田信長公は、添い寝役の女房もいない珍しく誰もいない寝所をでる。
 小姓たちをつれて安土城のお気にいりの庭先で寛ぐことにしたのだ。
 廊下から庭に降りると、ふと歩みが止まった。
 つまらないことが脳裏をよぎったのだ。
 無視してもよいのだが、神経質な彼の性格にはのどに刺さった小骨のように気になってしまう。
 
「座敷の障子を閉め忘れてきた。誰か、閉めてまいれ」
「では、わたしが行ってまいります」

 信長の小姓たちはすべてこの場にいたが、まっさきに主人の命に応えたのは、森蘭丸であった。
 父に似ず、兄に似て、凛とした美貌の少年である。
 このとき、まだ十四歳。
 小姓として殿さまの傍に侍って一年ばかり。まだまだ初々しい顔つきで、それでいて時折肝の据わった態度を示すと評判であった。

「お蘭か」
「行って参りまする」

 品のあるしずしずとした歩みで蘭丸はこの場を離れていく。
 眼のあるものがみれば、武芸の達者のみが持ち併せる隙のなさを窺い知れるであろう。
 森蘭丸―――あの若さで塚原卜伝の新当流の達人でもあるのだ。

 信長がお気に入りの小姓たちととるに足らぬ雑談をかわしていると、しばらくして、

 ぴしゃり

 と、障子の閉まる音がした。
 その場にいた誰もが蘭丸が開いていた障子を閉めたのだろうと考えた。
 少し遅れて蘭丸が戻ってきた。
 信長は鷹揚に、

「戻ったか。やはり開いていたのだろう」

 と、聞くが、蘭丸の返事は皆の予想とは違っていた。

「障子は閉まっておりました」

 蘭丸は顔色も変えずにそう答える。
 さすがの信長も訝しんだ。
 障子が閉まっていたというのならば先ほどの音はいったいどういうことなのだ、と。
 こういった納得できぬことに対しては追及せずにはいられないところが信長の長所であり短所でもある。
 すると、蘭丸は静かに口を開いた。

「殿が障子を閉め忘れたというのに、改めて閉まっているのはおかしなことだと考えました。しかも、小姓の皆様はすべてこの場にいて、あとで障子を閉めることができるものはいないはず。気を利かせて誰かが閉めたというのならば、殿の言葉があったときにお答え申し上げたはず。誰が障子を閉めたのか、まったくもって胡乱なことです」

 信長が閉め忘れていたなど思いもよらないということを案に示唆している。
 それだけ忠義に篤いということでもあった。

「そっと気配を探ると、中になにやら気配がございましたので、障子を開けて中に押し入り、忍びいった不埒者を抜き打ちで斬り伏せておきました」
「……刺客がおったのか」
「はい。顔を改めたところ、荒木摂津守さまのご配下の一人に見覚えがありましたため、他の方に知られるわけにはいかぬともう一度障子を閉め、誰の目にもつかぬようにいたしました」
「なんと……」

 伊丹城の荒木村重に叛意ありという訴えがあちこちから信長のもとへ寄せられていたのを知らぬものはいなかった。
 信長自身が自らの母堂を人質として差し出してきた荒木を疑っていなかったことから誰も信じようとはしていなかっただけなのだ。
 だが、その荒木の手下が安土城の信長の寝所に忍び込んでいたとなっては疑いの余地もないことだろう。
 しかし、信長を必殺するために選びぬかれた刺客を音も立てずに殺すという凄まじい剣技の持ち主であるにもかかわらず、森蘭丸はそれを誇る様子もない。
 しかも、安土城に小姓が持ち込めるのは脇差だけで、蘭丸も例外ではなかった。

「わかった。お蘭は、予が閉めたはずの障子を開いているなどと口にした粗忽ものだという評判が立たぬようにあえて音を立てたということだな」
「御意」

 信長は小姓たちを見渡し、

「みな、わかったの。そういうことがあったのだ」

 森蘭丸をはじめとした小姓たちは、頭を垂れて主の意図を忠実に理解したのであった……
 





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