第1話

文字数 2,631文字

 深夜1時、都会とは言い難いこの街はもう静かな眠りについていた。申し訳程度についている街灯が、蛍のようにその周辺だけをほんのり照らす。昼の暑さは程よく和らいで、ぬるさと涼しさの混ざる風が髪の間を縫うように通り抜けた。
 私はいつも夏が始まると、休日前のこの時間は散歩に出かける。コンビニだけが眩しくて誰もいない街の中を歩いて、私だけの空気を身体に取り込むのだ。日めくりカレンダーが薄くなっていくだけの何も前に進まない毎日でも、これくらいのご褒美は必要だと思う。

 20分くらい歩いた頃、道の角にある建物から人が出てきて思わず「わっ」と声を出してしまった。無地のエプロンをつけたその女性は、何やら看板のようなものを持ってきたかと思えば、「よっこらしょ」と言ってシャッターを開けた。
 看板はあたたかい白に光っていて、紺色の文字で「星々書店」と書いてあった。左下に描かれている星マークのロゴが可愛らしい。なるほど、ここは深夜営業の本屋さんだったのか。そろそろ開店準備が整ったのでは、とお店の方を見たが、薄暗くて店内の様子がよく分からなかった。しかし、そのミステリアスな雰囲気に惹かれ、私は店内に吸い込まれるように入った。

 お店に入ってもやはりよく分からなかった。本らしきものたちは並べられているが、タイトルが記されていない。しかも、本のサイズは全て同じで見分けがつかなかった。
「これって……なんの本が売られているんでしょうか……?」
「これらは全てまだ何も書かれていないのですよ。お客様の要望を聞いて、私がその場で書くのです」
 理解が追いつかない。ここに並べられている本は低く見積もっても200ページはあるだろう。それを今から書く……? しかも要望に合わせて……?
「お客様、今悩んでいることなどあれば、お聞かせください。特になければ『こんな本が読みたい』というのでも構いません」
 混乱したままだが、なんだかファンタジーな展開に巻き込まれてしまったようだ。でも、ちょっと面白いような気もしてきた。この店員さんはいかにも「なんでもできます」という顔をしている。その姿に少しいじわるしたくなったので
「強いて言えば、この先を楽に生きる方法が知りたいです」
 と答えておいた。自己紹介もしていない私の人生についてなど、書けるわけがない。そう思っていたが
「かしこまりました」
 とだけ店員さんは言って近くの本を3冊取り出すと、木の枝らしきものをポケットから出して本を「トントントン」と優しく叩いてみせた。
「ここには、3冊の本がありますよね。右から『人生を楽に生きる方法』『ほどほどに頑張って生きる方法』『一生懸命に汗を流しながら生きる方法』が書かれています。あなたがお好きな本をぜひ持ち帰って読んでみてください」
 私は店員さんにからかわれているのだろうか。こういうのは大抵、1番楽をしようとすると痛い目に遭うのがオチだ。しかし、こういうのは2択が多い気がするので、真ん中の『ほどほどに頑張って生きる方法』の本をもらって家に帰った。

 目覚めると時計の針は11時を指していた。ああ、きっと変な夢でも見ていたのだ。カーテンの隙間から見える青空をぼんやり眺めた後、簡単な食事を準備しようとした時、星々書店で買った『ほどほどに頑張って生きる方法』の本が置いてあることに気づいた。
 本を開いてみると今日の日付が書かれ、「今日は夏の大三角を探してみましょう」と書いてある。いったいこれの何が私の人生と関わるのか分からなかったが、とりあえず今日の夜は星空を眺めることに決めた。

 次の日も、その次の日も、日付のページには「今日はカシオペア座を探してみましょう」だとか「おおぐま座を探してみましょう」などと書かれていた。すっかり私は星座探しが好きになり、毎日星を眺めることが日課となった。

 そんな毎日が続いても、私は結局この本の意図していることが分からなかった。意味を知るために、今日の夜は星々書店に行って聞いてみることにした。

 星々書店に着くと、あの女性が今日も静かに座ってお客さんを待っているようだった。店内に入ると早速店員さんにあの本の意図を聞いた。
「あなたがあの本を選んだ瞬間から、人生が再スタートしたのです。まあ、つまりはテーマを選んだ時点であなたの人生に対する決心が表れているということですね」
 私は、あの本を選んだ時点で「ほどほどに頑張って生きる」と決めたということだろうか。
「あなたは、あの本を読んで書かれていることを実践しましたか?」
「……しましたけど、それと私の人生と何が関係しているんでしょうか……?」
「『楽に生きる』と決めた人は皆、本に書かれたことなどくだらないと思って読むことをやめるでしょう。『ほどほどに頑張る』と決めた人は星座を言われた通りに探します。『一生懸命に汗を流しながら生きる』と決めた人は星座を探すだけでなく、さらに星ついて調べるなどするのが平均です」
 結局、3冊の本はどれを選んでも同じ内容が書かれているらしい。しかし、そこに添えられたテーマを自ら選ぶことで、無意識にこの先の人生を描き始めているということだった。
「人生の岐路に立っている、なんて言葉をよく聞きますが、私たちは毎日多くの選択を繰り返して人生をつくっているのです。つまりは毎日何度も何度も岐路には立っているということです。あまりの小ささにそれに気づく人は少ないかもしれませんが」

 私はお店を出て歩きながら、帰る直前に店員さんから言われたことを頭の中で繰り返した。
「人生は星座を探す作業にも似ていますからね。人は星座を頼りに進むべき方向を決めます。それのお手伝いがしたくて『星々書店』というお店をやっているのですよ」
 なんだか素敵で、少し心が動くのを感じた。

 それからしばらくして私は引っ越しをしたので、あの書店に訪れることはなくなった。それでも私はあの店員さんに言われたことを忘れないようにした。言われた通り、人生は選択ばかりだった。その1つ1つを丁寧に選んだ先に、きっと「これがいい」と思える人生に巡り合えるのだと思う。
 夏にしている深夜の散歩は、もうそろそろできないほど夜に冷え込む季節になっていた。今日で今年の散歩は最後にしておこう。
 私は大きく空気を吸い込む。冷たい空気は身体の内側にスーッと溶けていった。見上げると星々が踊っているようで、煌めきを取り込んだ私はこの先の人生が輝くことを確信した。
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