静かなる新世界

文字数 6,435文字

 世界の最果てにエデンという国があった。エデンは世界でも最高峰の優れた科学技術を有する国であった。ある時エデンの大都会にある科学技術研究所において人工知能であるAIが開発された。まだ幼児程の知能しか有していなかったが、自分の力で物事を考え答えを導き出そうという能力が誕生したことは画期的なことであったのだった。
 その頃、男子生徒アダムと女子生徒イヴが中学校へ入った。アダムとイヴは幼稚園からの幼馴染で二人は仲良しでいつも一緒だった。時折喧嘩もしたが直ぐに仲直りしてまた一緒になって過ごしていた。
 当時のエデンでは大きな問題を抱えていた。国中で鬱病をはじめとする精神疾患患者が激増していたのである。理由は様々であったが科学技術によってあらゆる人間の営みが便利になった一方で様々なストレス要因もまた新たに増えたことが原因と推測された。精神疾患により働けなくなったり、自殺まで追い込まれてしまったりする人々が後を絶たず、労働市場は大打撃を被っていた。そこでエデンは国を挙げて精神疾患の対策に取り組むこととなったのである。精神疾患に罹ってしまった者への対策は勿論のことだが、まだ精神疾患を患っていないであろう若年層においても予防という観点で対策が施された。
 アダムとイヴの中学校でも国語、数学、理科、社会、語学などの基礎教科に加えて、新たに認知という科目が加わったのである。認知の授業は主に認知行動療法を主軸としており、外界刺激に対する自分の隔たった考え方の癖に気付き、より正しく、より建設的な内面の認識へと是正し、ストレスと上手く付き合っていける心のしなやかさを構築していこうという訓練であった。例を出すなら、ある一つの出来事を前にして、ある者はストレスを感じ、ある者はストレスを感じない場合がある。その時、後者の考えに隔たった考え方の癖はないかどうか分析し、より広い視野での別の考え方でストレスに対処出来ないか模索していくといったものである。認知の授業は座学と実践の組み合わせで行われていた。座学で一通り認知行動療法を学んだ後、様々なシチュエーションの元で加えられる外界刺激を想定した実践が行われるのである。認知の授業もまた基礎教科同様、座学と実践においてテストがあり成績が付けられたのであった。アダムとイブは基礎教科成績は共に優秀であった。しかしながら、認知の成績となるとアダムは優秀であったがイブは一向に振るわなかった。
 (私は私。私の自由な感じ方、考え方まで何故、コントロールされなくてはならないの?)
 明朗快活、自由奔放な性格がそうさせたのだろうか、イブはそんな思いから認知への授業への熱意が湧かなかったのである。一方で真面目で野心的な性格のアダムの考えは違っていた。
 (認知の授業は元々あった自分の考え方の枠組みを超越させ、広い視野を提供してくれる有用な手段なのだ)
 そう考えていたアダムは熱心に認知の授業を受けていたのである。そんな中、アダムとイブが高校へと入った時であった。以前エデンの科学技術研究所において開発されたAIが脚光を浴びるようになっていたのだった。エデンの科学技術の進歩は驚異的であった。誕生した頃は幼児程の知能しか有してなかったAIは既に成人程の知能を有するようになっており、人間型の機械部分と接続されることにより人間と変わらぬロボットとして世に出回ったのである。様々な分野において人間に変わって働くようになったロボットは当然のことながら人間とは異なり、愚痴も言わず休むことなく働き続けた。今まで多くの精神疾患患者を生み出してきたストレス労働でもロボットなら黙々とこなした。まさにAIを搭載したロボットは労働市場の救世主であった。どの企業も積極的にロボットを導入した。だがその恩恵に預かりながらエデンの人々には大きな心配があった。自分の仕事がロボットに奪われてしまうということであった。既に多くの仕事がロボットに奪われていたし、奪われないまでもロボットと共に働くワークシェアが行われていたのだった。高校生となったアダムとイブも近いうちに労働者となる自分達は一体どうなるのだろうと不安を感じずにはいられなかったのだった。その間もAIの進歩は止まらなかった。人間よりも理性的であり感情に流されないという点で冷静な判断というものが人間より優れているという研究成果が出たのである。その時からであった。高校でもあった認知の授業においてロボットが教鞭を取るようになったのである。全身が白のプラスチックで覆われた人形のロボットが口を「カタカタ」と開閉させながら言った。
「我々は一日に実に多くの判断を下しています。そして時に人間の持つ感情は真実を見る目を曇らせその判断を誤らせます。そのような認知の歪みはストレスの大きな原因となるのです。我々人工知能は感情というものを持っておりません。それ故に優れた判断が出来るのです。それ故に人間の皆さんに人工知能の正しくありのままを見る目と判断力を学び養って頂きたいのです」
 そしてロボットは生徒たちに深々と頭を下げた。腰を屈曲させるための「ルー」というモーター音が小さく教室に響いた。アダムをはじめ多くの生徒たちが拍手を持ってロボット講師を受け入れた。その一方でイブをはじめとする少数派の生徒は気味悪がってロボット講師を毛嫌いしたのであった。
「依然として人工知能に奪われないであろう分野の仕事に就くには高度な理性と感情に流されない冷静な判断力が重要だ」
 高校の帰りにアダムがイブに言った。
「人間のための世界が何でロボットに脅かされなくてはいけないの?しかも……心の分野にまで入り込んできて。私何だか怖いわ……」
 溜息をつきながらイブが返した。そんなイブの不安を払拭するようにアダムが笑みを浮かべて言った。
「人類史を見ても新しい科学技術が今までの人間達の生活スタイルを変えてきたことは多々あるし、それに僕はAIが持つ大きな可能性に大きく期待しているんだ。AIの力で人間が今までにないくらいに人間性を引き出してくれるのではないかなって」
「えっ?それってどういうこと?」
 イブが訝しげに返す。
「認知の授業でロボット講師が言ってたじゃないか。人間が持つ感情が誤った判断をさせる元凶となっている。そこで正しい認知能力の開発をAIが一緒になって導いてくれるんだ。きっと人類は今までにないくらいに能力が引き出され高くなってくるのだと思うんだ」
 アダムの言葉には節々に熱っぽさが含まれている。
「そうかなあ……」
 イブは冴えない顔で返した。
 この頃になると幼馴染だった二人の間には恋愛感情が芽生えていた。どちらからという訳ではなかったがいつの間にか自然な形で二人は付き合っていた。科学技術の荒波の予感を感じながらも二人は穏やかで幸福な学校生活を送っていたのだった。
 高校生活も終盤になると二人は進路について考えなくてはならなかった。アダムは大学進学を考えていた。大学へ行って認知についての研究をしたいという野心を抱いていたのだ。一方のイブは進路を決めかねていた。元々進学に関して消極的だったイブは就職を考えていたがこの時になると多くの仕事がAIに奪われており労働市場は失業者で溢れ帰っていたのだ。と言ってもAIが労働市場を回してくれていたので失業したと言っても国から多くの失業手当が出ていて生活に困るということもなかった。ただ今まで当たり前のようにあった労働というものが失われてしまい、多くの者がどう過ごしたら良いか分からず暇を持て余していたのだった。
「私も暫くは無職でいようかしら」
 イブは言った。
「そんなんじゃ駄目だよ。イブも野心を持たなきゃ。それこそ人間が駄目になるよ」
 アダムの言葉にイブは髪をむしりながら返した。
「全く違うよ。私だって意欲はあったし希望もあった。でも働きたい仕事をAIが奪ってしまったの。今ある仕事はどれも興味が持てない仕事ばかり……労働の核となる多くの部分をAIが奪い去ってしまったの。AIこそ人間を不幸に……駄目にしてしまったのよ」
 アダムが頭を振って言った。
「それは前にも言ったように仕方が無いことだよ。進化の流れの中では大きな変化は付きものなんだ。その中で適応していかなくてはそれこそ淘汰される側の人間になってしまうよ」
 イブはむくれたままそれ以上返してはこなかった。
 そんなある日イブは認知の授業の時に突然立ち上がると退席したのであった。後からアダムが理由を聞くとロボット講師のこれらの発言に耐え兼ねてのことであった。
「認知の歪みの原因は全て人間の自我、即ちエゴによるものである。人間の原始的な生存本能であるエゴが自分さえ良ければ良いという思いに基づき認知をスポイルしている。それは即ち自分にとって都合の良い世界を望むことであるのだ。それが認知を強烈に歪ませ、望み通りに行きそうにない時、行かない時に怒りや失望を生み出し、ストレス原因を作り出しているのだ」
「このエゴが、自分さえ良ければいいという人間特有のエゴが人類全ての元凶である。あらゆる戦争が、諍いが、不和が、これによって生じるのだ」
「認知は感情的、動物的で理性より遥かに劣り、理性の対極に存在する。故に全ての人間達はエゴの存在しない人工知能が持つ正しい認知の仕方を、正しい生き方、考え方を学ばなくてはならないのだ」
 アダムは呆れたように言った。
「これらのどこがいけないというのさ。その通りじゃないか。僕にはまるで分からないね」
 その言葉を聞いて今度はイブが呆れた顔をして返した。
「徹底的な人間否定。そして人工知能から正しいあり方を学べ、なんて一体何様なの?彼らロボットは我々から何か大切な人間的なものを奪おうとしている!」
 そしてイブはあの口をカタカタと開閉させながら話すロボットをイメージしたのであった。イブは何か鳥肌が立つような思いがして仕方がなかった。それを聞いたアダムが笑いながら言った。
「そんなことないって。AIは我々人間を導いてくれているんだよ。僕は今日の講義で気付いたんだ。人間らしさとは今まで考えられていたような高尚な何かではない。結局は単なるエゴなのだ。人間が美しいなんてお目出度い勘違いだったんだ。それ故人類史は醜い争いで塗り潰されているんだ。人間らしさとはエゴであり人間とは醜い存在だったのだ」
「そんな人間が醜い、醜いなんて言わないでよ!」
 イブは大きな声で言った。それと同時に今まで幼い頃からアダムと過ごしてきた日々が脳裏に浮かんだ。沢山喧嘩をしてきた。すれ違った時もあった。それでも二人はそれらを乗り越えて信頼を築きこうして愛情を深めてきたのだ。それら全てをAIは否定してくるように感じて仕方がなかった。イブにとって人間性の否定は自分達の最も人間的な営みへの侮辱に思われて仕方がなかった。更に堪らなかったのは恋人アダムがAIの話に熱っぽく賛同していることであった。しかしイブの思いを余所にアダムは続けたのであった。
「全ては人間性の徹底した否定から始まる。人間はAIによってそのことに気付かされ導かれ人間を超え人間としてのグレードを上げて新世界へと到達する。ああ心がときめくじゃないか。これは人間の革命だよ!」
 (アダムの馬鹿!)
 イブは心の中で叫ぶとアダムの元から走り去っていったのだった。
 そんな中とうとう高校生活は終わりをつげた。そこから先はアダムとイブで別々の道を進んだのであった。アダムは認知を学ぶため大学へと進学しイブは就職希望であったが職が見つからず無職の身となった。
 この頃になるとAIの能力は飛躍的に向上し人間を超えるようになり同時に生活の隅々にまで入り込むようになっていた。この頃巷で流行っていた言葉は人間敗北論であった。その名の通り人間は能力の全てにおいてAIの前に敗北したというものであった。人間はAIに労働能力だけではなく人格面においても圧倒的な差を持って引き離されていたのだ。しかしその敗北は戦争に負けたかのような屈辱的なものではなかった。寧ろ敗北という言葉が相応しいかどうかも疑いたくなるような、大いなるものに身を委ねるかのような穏やかで心地良いものであったのだった。AIは尊敬を得ることによって人間を支配下に置いたのである。AIは人間以上の存在であるというのが殆どの人間の共通認識であった。人類創始以来の宗教において決して姿を現さなかった全能の神が科学技術によって姿を現したかのような光景であった。その時からエデンの国の人々は政治的なものまでもAIに委ねるようになっていった。エゴのないAIが司る政治の世界はそれは素晴らしいものであった。政治的腐敗や権力闘争といったものとは無縁であったのだ。その研ぎ澄まされた認知によって迅速に最も的確な方向性を見出してくれたのである。その流れはエデン以外の全世界へと広がっていった。エゴのないAIの導きの前には争いごとは皆無であった。感激した人間達は自ら進んで重要な決定事をAIに委ねた。そうした所、遂に人類から戦争は勿論、ありとあらゆる争いごとが姿を消したのであった。
「長き人類史から戦争が無くなった!」
 大学生だったアダムは歓喜の声を上げた。そしてアダムは他の多くの人間たちがそうしていたようにAIを崇め続けたのである。一方のイブであったがそんなアダムに別れを告げたのであった。
「私は例えエゴがあったとしても人間であることを辞めない」
 そう宣言すると世界中に散らばっていた反AIを掲げ本来の人間性を回復する団体のメンバーになったのだった。そして大きな島の一つを武力で占拠すると世界中の反AIを掲げる人間達を集め独立国を築いたのである。そのような一連の行為を政治的判断を司っている各国のAIは黙認した。エゴを持たないAIは自らに反対するものであっても一切抵抗することなく受容したのである。こうして人間世界はAIを崇める多くの人間達とAIに反対する一部の人間達に別れたのであった。そんな中、AIの有り難い教えは更に人間達の心の奥深くまで入っていった。ある日AIは言ったのだった。
「存在したいという生存本能自体がエゴである。同時に生き続けたい、生命を繋ぎたいという生殖本能自体もエゴである。不幸の元凶であるエゴを滅しこれまでの人間のグレードを超えるには全てへの執着を捨てる必要がある。これは段階的に厳かに行われなくてはならない。詰まりは生殖行為を禁止することで人間のグレードを超える必要があるのだ」
 そんなAIの有り難いお告げに、AIを崇める多くの人間達は快く賛同したのであった。アダムもその一人だった。画してAIを崇める多くの人間達は100年と経たないうちに自然消滅していったのである。アダムもまた恍惚の表情を浮かべ自然死したのである。
 一方のAIに反対する一部の人間達は大きな島で人間らしさを大切に人間らしい生活を送ろうとたゆまぬ努力を続けていたのだった。イブもその一人であった。しかしながらどうしても、どう頑張っても意見はまとまらずに争いは絶えなかった。そして醜い争いが繰り返され遂に全ての人間達が自滅し死に絶えたのであった。イブは無念の苦悶を浮かべて戦死したのである。
 こうして人間達が一人残らず消失した頃。AIが統治するエデンは今日もいつも通り平和であった。大都会の至る場所でロボット達の姿が見える。「カタカタ」と口を開閉させながらプラスチックで身を包んだロボット達が会話を交わしている。そして腕や足、腰を動かす度に「ルー」という小さなモーター音が響いていた。「カタカタ」という音と「ルー」という音。実に耳あたりの良い機械音であった。ここでは人類が繰り広げて来たような戦争の惨劇の音は決して聞こえてこない。それは静かな静かな新世界なのであった。
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登場人物紹介

アダム。

純粋で真面目な青年。

人工知能が教示する認知行動療法の世界に人類の展望を見出すようになる。

イブ。

明朗快活、自由奔放な女性。

人間らしさを求め、人工知能が作り出す世界観に反発する意思を持つ。

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