一九二四年 四月四日 果穂子

文字数 2,395文字

佐伯果穂子(さえきかほこ)の生涯に就て云へば一ツ二ツ、辻褄の合はぬことが起ってゐる。








ひら、ひらりと揺れる。
金魚が泳ぐ。

水はどこまでも透明なのに、多くの人は水を絵に描くとき、何故青い色を使うのか。
水の冷たい清浄さが、寒色のブルーと重なるのか。
金魚はそのつめたさに抵抗している。燃えるような赤い色を纏ってひら、と花のような尾をゆらめかせ、水を発熱させようとしている。







庭を通り抜ける卯月の風は寒気を帯びてまだ冷たく、薄着で長く外にいるのは適さない。膝を折り曲げて池の際に佇んでいた果穂子は思わず紬のひとえの合わせを直した。
金魚邸(きんぎょてい)の庭はこぢんまりとはしているが、厳選されて植えられた樹々が美しい。今彩りを庭に与えている樹花は山茱萸(さんしゅゆ)、そしてあと数日もすれば桜が花開くはずだ。
けれど、この庭の主役は何と云っても中央に位置する(おお)きな池である。

ひら、とまた金魚は方向を変えた。果穂子は覗き込む。この池はまるでパレットだ、見る毎にそう思う。赤い琉金、朱の蘭鋳(らんちゅう)、更紗のコメットに黒く光る蝶尾(ちょうび)。珍しいものではキャリコの出目金など、複雑な柄のものもいる。さまざまな色がランダムに乗った絵具のパレット。
その中に淡い橙色の背びれを見つけたとき、不意に背後からしゃがれた声が響いた。
此方(こちら)に居なすったのですか」
振り向くと下ろしていた肩口の髪がはらりと落ちる。
「果穂子お(ひい)様」
邸の方向から使用人のテイが歩いてくるのが見える。果穂子は立ち上がった。
「お姫様だなんてお呼びにならないでくださいな。その呼ばれ方、あまり得意でないの」
曖昧に笑ってみせる。
「それに、わたくしは」
「そんなことを云われましてもお姫様はお姫様でしょうに」
テイはやや強気に云ってのけ、婆を困らせないでくださいなと笑った。果穂子も困って結局微笑む。
「風が出てきましたのに。すぐ外に出ようとしなさる」
()さく結った灰色のまげを直しながら、お気持ちは分かりますけれど、とテイはちらりと池を見やった。池面には変わらず美しい色たちが浮き沈みしている。
「だって」
果穂子は敢えてテイの視界を遮るように袖をひらめかせながら彼女の前に出る。
「その風がわたくしには心地好いのだもの」
まあまあ、とテイは呆れたように笑い、果穂子は何故かほっとする。
それで、なにか御用事ですか、との果穂子の問いにテイが「そうでした、お客様が──」と答えかけたときだった。またしても邸の方から声がした。今度は溌剌とした若い娘のものである。
「果穂子さんはほんとうにこの池がお好きね」
現れたのは昱子(いくこ)であった。市松模様の着物に海老茶の袴という出で立ちである。良くいえばモダンな、悪くいえば奇抜な──要するに最先端の恰好。新しいものにいち早く飛びつくところが好奇心旺盛な昱子らしい。顔立ちが華やかな昱子にはその服装がよく似合っているので妙な感じはない。勝ち気な笑みを浮かべてこちらにやって来た。
「昱子姉様」
思わず声音が高くなる。
「あなたもテイさんも、何時(いつ)まで経ってもいらっしゃらないんだもの、こちらから来てしまったわ」
「あらあら、御免なさいね。お嬢様を捜すのに手間取ってしまって」
ちっとも慌てない様子でテイは云い、婆なんですもの、急かさないでくださいなと昱子の背にぽんと触れた。
「ではわたくしは中に居りますからね」
テイは踵を返し早々に邸に向かって歩いていく。池のほとりには果穂子と昱子だけになった。昱子は小さな笑いを漏らす。
「あなたのばあや、ご自分を貫いておいでで素敵ね」
「なあに、それ」
果穂子も笑う。今度は自然と笑顔になれていると分かる。果穂子は昱子といると気持ちにゆとりが出来るのだった。
「来てくださったのね」
「学校が終わったのでそのまま飛んできたの」
目に浮かぶ。お行儀を無視して大股で走る昱子の姿。それに驚く周りの人の姿も。
「きれいね」
昱子はふいとしゃがみ込んで池の金魚を覗き込む。頬杖をつくその仕草は幼子のようだが、昱子がやるとなぜか絵になる。果穂子は昱子のそばに寄って、彼女に倣っておなじようにした。
「学校はいかが? 」
深紅の蝶尾をぼんやり眺めながら尋ねてみる。
「素敵よ。とても、素敵」
昱子は頬杖をついたまま答える。
「けれど、あなたと通えたらもっと素敵だったでしょうね」
そうしていくぶん寂しそうに微笑んだ。
「昱子姉様はこうしてよくわたくしの所へいらっしてくださるもの。わたくしはそれで充分」
「ほんとうに? 」
「ほんとうに」
だってあなた、さっきテイさんに云っていたじゃない、と昱子は食い下がる。
「お姫様と呼ばないでって。わたくしはもうお嬢様ではないって。それは」
「だって事実ですもの」
聞かれていたのか、と肚のうちで果穂子は苦く感じる。果穂子自身、自分に突然降りかかったこの境遇をどう処理したら良いのか、ほんとうはよく分かってはいなかった。ほんとうはよく分かってはいないから、だからついこの池へふらりと来てしまう。

「──果穂子さん、 」
しばらく黙っていた昱子は血色のよい頬を膨らませ、果穂子の袖をつんと引っ張った。なあに、それ──、昱子は異議あり、と云いたげな声音で果穂子に反論する。
「あなた、駄々っ子みたいよ」
膨らませた頬のままじっと円い眼で見つめてくる。昱子のその顔が齢に似合わずあまりに愛らしいので、先程までの気持ちも忘れて果穂子は思わず声を出して笑ってしまった。つられて昱子もくすくす声を漏らす。





やがてきゃらきゃらと高く響く少女たちの笑い声に驚いて、池の金魚たちはついと水の奥深くにまで潜ってしまった。








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登場人物紹介



【金魚邸の娘  プロフィール】



・現代期(2025〜2026年)


《六花》現代期の語り手 。二人の主人公のうちの一人


名前/ 柳六花(やなぎりっか)

性別/ 女性

年齢(生年月日)/ 23歳(2003.5.24)

社会的地位、職業/ 図書館司書。短大卒三年目

好きな事、物/  読書、空想、散歩

嫌いな事、物/ たばこ、雨

趣味、ポリシー/  読書(少しずつ読み進めるのではなく一気に読みたい派)

長所/  人当たりが良い、知識欲が旺盛

短所 (チャームポイントにもなる)/  内気、本来能力はあるが要領は良くない

特技、能力/  まだ発揮する場面は少ないがレファレンス能力はかなりのもの

トラウマ/  特に無いが、人付き合いが苦手

親族、友人/  父母、妹がいる 。  友人は幼馴染でもある亜莉亜。

外見、総合的性格/  セミロングの猫っ毛黒髪。童顔。父親から受け継いだ口下手がコンプレックス。基本的に優しく、純粋。

その他/  現在は古い平屋に一人暮らし。去年までは亜莉亜とルームシェアしていた




《果音》図書館に通う小学生。ある切掛けで六花と親しくなる


名前/  原田果音(はらだかのん)

性別/ 女性

年齢 (生年月日)/7歳 (2018. 11.21)

社会的地位、職業/  白川町中央小学校二年生

好きなこと、もの/  ひとり遊び(お絵描き、粘土遊び)  スカート

嫌いなこと、もの/  集団行動、学校のワックスがけ

趣味、ポリシー/  かわいい消しゴムを集めている

長所/  物覚えがいい

短所  (チャームポイントにもなる)/  人見知り

特技、能力/ 観察眼に優れている

トラウマ/ 親にあまり構ってもらえていない(将来トラウマになる可能性あり)

親族、友人/ 母、兄がいる。母子家庭。

外見、総合的性格/  つやつやのボブ。

その他/  家庭環境にはそれほど恵まれていない。親が割と放任主義




《亜莉亜》六花の年上の幼馴染


名前/木内亜莉亜(きうちありあ)

性別/女性

年齢  (生年月日)/  24歳  (2002.7.8)

社会的地位、職業/ 美容師見習い

好きな事、物/ おしゃれ、旅行

嫌いな事、物/ 面倒なこと、地道な作業

趣味、ポリシー/ 旅行

長所/ 人を和ませる性格

短所  (チャームポイントにもなる)/  名前がキラキラネーム、飽き性

特技、能力/  ヘアアレンジ

トラウマ/  キラキラネーム

親族、友人/ 父母、祖母。広く浅くの友人が多数

外見、総合的性格/ 自由でおっとりとした一人っ子。要領が良い。誰でも許容する器の大きさがある。幅広の二重。茶髪のショートヘア。

その他/ 佐伯家の遠い親戚。実家は資産家。学生の頃にアメリカへ留学経験あり。白川町記念図書館に六花を斡旋した。自分の家(木内家)が所有する借家に六花とルームシェアしていた。




《 早ゆり》青島 (旧姓高篠)?子の娘


名前/三石早ゆり(みついしさゆり)

性別/女性

年齢 (生年月日)/72歳

社会的地位、職業/ 未亡人  (夫享年75)  一人暮らし

好きなこと、もの/ 料理、洋裁

嫌いなこと、もの/ 病院通い  寒さ

趣味、ポリシー/  いつもきちんとした身だしなみを心がけている

長所/  計画性がある

短所  (チャームポイントにもなる)/  事務的手続きが苦手。

特技、能力/  人に説明をするのが上手

トラウマ/ 空襲

親族、友人/  母  (?子)、弟2人

外見、総合的性格/ おしゃれでチャーミングなおばあさん。白髪ショート



その他

《金木さん》

金木ゆかり。女性。26歳。六花の同僚。細やかな性格。気配りが出来、優しい。ライブリアンとしては情熱的。


《瀬川さん》

瀬川京子。女性。42歳。立花の同僚でベテラン司書。やはり仕事に誇りを持っている。


《館長》

奥山秀一。男性。48歳。管理者としての側面が強く、図書館や本への思い入れはあまりない。









・大正期(1924〜1927年)


《果穂子》大正期(1924〜1927)の語り手。二人の主人公のうちの一人


名前/佐伯果穂子(さえきかほこ)

性別/ 女性

年齢 (生年月日)/16〜19歳(1908.3.19〜1927.4.13)

没年/1927年 (19歳)

社会的地位、職業/  実業家佐伯善彦の長女(養女)。母は元使用人で妾の黒沼つや。

好きなこと、もの/  表現すること全般

嫌いなこと、もの/  騒がしいこと

趣味、ポリシー/   人前ではいつもきちんと立ち振る舞うよう心がけている

長所/  柔和で思慮深い

短所  (チャームポイントにもなる)/  人を愛することに臆病  頑固

特技、能力/  割と全般的に器用

トラウマ/  幼少期亡くした母親に過度に執着するきらいがある。佐伯家に引き取られるが、以降複雑な家庭環境で心を閉ざす。

親族、友人/  生母、つや   父、善彦  義母、環  義弟、秋彦

外見、総合的性格/  おっとりとした雰囲気美人。顔つきはやや大人びている。下がり気味の眉、印象的な涙袋と長い下睫毛。親友は?子。自由な考え方に惹かれている

その他/  六歳までは母親と2人だけの生活をしており、同年、母が亡くなり佐伯家に引き取られる。十六歳の時義弟、秋彦が生まれたのと同時に別荘へ




《昱子》果穂子の御相手で親友


名前/高篠昱子(たかしのいくこ)

性別/  女性

年齢 (生年月日)/  17〜20歳  (1907.12.9〜1927)

没年/  1997年  (90歳)

社会的地位、職業/   高篠準造の長女。女子学院卒業 二十歳の時婚姻。早ゆりの母。

好きなこと、もの/  新しいこと、珍しいもの、お喋り

嫌いなこと、もの/  平凡、退屈、諦めること。男尊女卑。

趣味、ポリシー/   既存概念に囚われない

長所/  前向き、活動的

短所  (チャームポイントにもなる)/  気が強い、突発的

特技、能力/  カリスマ性がある。雄弁家。

トラウマ/  子供の頃から兄と区別されてきたので男尊女卑に敏感。後年は果穂子の死がトラウマに

親族、友人/  祖父、父、母、兄。  交友は広いが、親友は果穂子のみ。

外見、総合的性格/  快活な美人。カリスマ性がある。濃い睫毛と眉毛を持つ。

その他/ 女子学院卒業と同時に親が決めた相手と婚姻する事になっていたが、反発した。二十歳で婚姻。相手は青島隆光。?子より十歳上。長女(早ゆり)、長男、次男の三人の子を設ける。

口癖は「あなたがそう仰るのならそうなのでしょう」。果穂子の一番の親友で、思慮深いところを尊敬している。




《竹田テイ》 


名前/  竹田テイ(たけだてい)

性別/   女性

年齢  (生年月日)/  61〜64歳  (1863〜1930)

没年/  1930年  (67歳)

社会的地位、職業/  佐伯家の使用人

好きなこと、もの/  花

嫌いなこと、もの/  よく分からない昔からの風習

趣味、ポリシー/  堅実

長所/  責任感がある

短所  (チャームポイントにもなる)/  耳が遠い

特技、能力/  裁縫

トラウマ/  貧しさゆえ幼い頃から奉公に出されたこと

親族、友人/  疎遠になっている

外見、総合的性格/  しっかり者の働き者。白髪に小さく結った髷。茶や青、紺など地味な色の着物。身なりは小綺麗。

その他/  数少ない果穂子の味方。彼女を孫のように思っており、その境遇に同情している。果穂子が別荘に移った際、世話係として同行した。




《黒沼つや》


名前/  黒沼つや(くろぬまつや)

性別/  女性

年齢  (生年月日)/  25歳  (1886〜1911)

没年/  1911年  (25歳)

社会的地位、職業/ 佐伯家の元使用人で佐伯善彦の妾

好きなこと、もの/  掃除

嫌いなこと、もの/  不公平

趣味、ポリシー/  不平を言わない、積極的

長所/  たおやかさ、優しさ

短所(チャームポイントにもなる)/  流されやすい

特技、能力/  薄幸そうな美しさ

トラウマ/  佐伯家でのあれこれ

親族、友人/  母、娘  (果穂子)

外見、総合的性格/  憂いを含む美人。線が細い。状況に流されやすい、人の意見に反発できないところがあったが、果穂子の母になってからは意志や自分の意見を貫く強さも。

その他/ 18歳の時に佐伯家の当主の妾に。翌年果穂子出産。25歳(果穂子6歳時)没。死因は肺結核。善彦の本妻、環から嫌がらせを受けていた。





《佐伯善彦》


名前/佐伯善彦(さえきよしひこ)

性別/  男性

年齢  (生年月日)/  59歳  (1865〜1947)

没年/  1947年  (82歳)

社会的地位、職業/  佐伯商会社長

長所/  

短所  (チャームポイントにもなる)/

特技、能力/

親族、友人/

外見、総合的性格/  寡黙な人物。

その他/37の時環 (16)と結婚。42の時つや (18)を妾とする。実際は果穂子を娘として大切に思っていたが、家の事情や環の板挟みになって結局は果穂子を別荘へ移す。事業者としての手腕は優れている





《環様》


名前/佐伯環(さえきたまき)

性別/  女性

年齢  (生年月日)/38歳  (1886〜1957)

没年/1957年  (71歳)

社会的地位、職業/  佐伯善彦の妻

長所/  

短所  (チャームポイントにもなる)/

特技、能力/

親族、友人/

外見、総合的性格/  良家のお嬢さんとして生まれ、気位が高い。つやと果穂子の存在がどうしても許せなかった。一方で、佐伯家の女主人として夫を支えた良き妻だった。果穂子を憎みながらも良心の呵責を感じていた。36の時長男、秋彦を出産。

その他/  幼い頃より大切に育てられていたが、所謂箱入り娘で、自由は許されなかった。家柄を重んじる家庭で育ち、それがそのまま環の価値観となっている。




《佐伯秋彦》


名前/  佐伯秋彦(さえきあきひこ)

性別/  男性

年齢  (生年月日)/2〜5歳  (1922〜1981)

没年/1981年  (59歳)

社会的地位、職業/

親族、友人/  父、善彦  母、環  義姉、果穂子

外見、総合的性格/  器の大きい人柄。幼年期のことはうっすらと覚えている程度。したがって果穂子との記憶もほとんどない。

その他/1945年  (23歳時)、父の会社『佐伯商会』倒産。生活が一変する。1951年、29の時佐々木昭子と結婚。二児の父となる。




《高篠凖造》


名前/  高篠準造(たかしのじゅんぞう)

性別/  男性

年齢  (生年月日)/61歳  (1863〜1930)

没年/1930年  (67歳)

社会的地位、職業/

親族、友人/

外見、総合的性格/

その他/末っ子で一人娘である?子を溺愛している。溺愛のほどは名付けられた名前からも窺い知れる(昱とは光り輝くの意)。そのため?子に関しては少々過保護なきらいがある。しかし後継ぎ問題に関しては兄達とは区別してきたため、?子に男尊女卑と指摘される。




《青島隆光》


名前/青島隆光(あおしまたかみつ)

性別/  男性

年齢  (生年月日)/   30〜79歳  (1897〜1976)

没年/79歳

社会的地位、職業/

外見、総合的性格/ 奔放な昱子を受け止めるだけの寛大さがある。穏やかで優しい人物。

その他/









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