君に花束を

文字数 5,304文字

「30歳になって、お互い相手がいなかったら、花束を持ってプロポーズするから」
 俺は12年前に、葉月にそう言って別れを告げた。俺は地元の大学に進学し、葉月は北海道の大学に進学することを理由に恋人という関係が終わった。「絶対だよ」と葉月の潤んだ瞳に夕陽が反射して、これまで見たどのようなものよりも美しかった。
 大学に進学してからもしばらくは連絡を取り合っていたが、葉月から実際の距離以上に遠く感じるから辛いと言われ、それ以来連絡をやめた。

 社会人になる頃に、高3のときのグループラインが作られた。作られてすぐは当時の思い出を語り合っていたようだが、そのうちに話題が尽き、メッセージを知らせる通知が日に日に少なくなり、やがてその存在をなんとなく認知しているまでになった。
 しかし一昨年の春、久しぶりにそのグループからの通知が届いた。内容を確認すると、当時、クラスカースト上位だった高杉の結婚報告だった。クラスメイトが「おめでとう」と返信していたので、俺も同じように返信をする。すぐ後に【葉月】という名前で「おめでとう」と送られてきた。途端に蛇口の取れた水道のように葉月との思い出が溢れてきた。葉月のどんな表情も愛おしく、尊く、輝いていた。
 社会人になり、仕事の忙しさを言い訳にして、底の見えない海に沈ませるように無理に葉月を忘れようとしていたのかもしれない。
 すると、スマホが短く振動しLINEが届いたことを知らせる。画面上部には【葉月】と表示されている。いつもよりも指が重く感じる。通知をタップし、メッセージ画面に切り替わるまでの一瞬が導火線に点火し、打ち上がるまでの花火を待つような待ちきれない時間に感じる。
「花束の約束、覚えてるかな?」
文面は葉月の声で再生される。俺は一文字ずつ丁寧に紡ぐように返信を作っていく。
「あと少し待っててほしい。必ず花束を持っていくから」
10年以上、止まっていた記憶の中で葉月が着色され、鮮やかになる。
「大丈夫。いつかあのときの二人に戻れたら。私は大樹がいい」
葉月から久しぶりに名前で呼ばれ、気分が高揚した。そこから葉月のために働くようになり、再び人生の主人公が葉月になった。

 昨年の3月に葉月から、地元に一度戻る予定だから会いたいという連絡があり、会うことになった。当日はこの日のためだけに買った少し高い服を着て、あらかじめ打ち合わせていた喫茶店へと向かう。入店する前に、入り口の前で軽くジャンプをして気合いを入れたあとにドアを開ける。
 少しずつ暖かくなってきたとはいえ、まだ肌寒さが残る3月の外気から、店内が人工的な暖かい空気に満たされていて心地よく感じる。「あっ」という声が聞こえ、振り向くとそこには葉月がいた。肌はやや白く、ショートカットで、細くも太くもないラインで記憶の中の葉月そのままだった。
 葉月の向かいに座ろうとすると、葉月は少し横にずれて伏し目がちに空いたスペースを手で軽く叩いて、俺を誘導した。葉月の横に座ると、恥ずかしさと嬉しさが混在した美しい表情で俺を見る。
 間もなくすると店員が水を運んできたので、ついでにホットコーヒーとホットミルクティーを注文する。
「ミルクティー、もしかして私の?」
「あれ、ダメだった?ミルクティーよく飲んでたから」
「ううん、まだ好きだよ。覚えていてくれたんだ」
「まあね」
 10年振り以上の会話が何気ない言葉で交わされるのが不思議で懐かしくもあった。
 ホットコーヒとホットミルクティーが運ばれてきてそれを飲みながら、当たり障りのない会話をしばらくする。二人ともあえて来年の話はしなかった。お互いに29歳になり、来年のことはどうなるか分からないという気持ちがあったのだろうと思う。実際、俺はそうだった。
 「そういえば」と葉月が思い出したようにバッグから名刺入れを取り出し、その中から一枚の名刺を俺に渡した。
「実は今度、ここで起業するんだ」
そう言って、差し出された名刺を見ると
ーー株式会社ハピネス 代表取締役 村岡葉月ーー
と書かれている。
「私、大学で経済を学んでたから、コンサルの仕事を通して地元を元気にしたいって思ったんだ」
まっすぐ俺を見つめる葉月の瞳に吸い寄せられそうになる。変わらず美しい瞳だと思った。
「素敵だね」と言うと、葉月はふふっと笑い、「大樹、そんなこと言うんだね」と楽しそうに俺を見る。
「だって素敵じゃん」と少しふざけた感じで言い、「地元ってことはこっちに戻ってくるの?」と声に願いを入れて葉月に問いかける。
「うん。しばらくは実家でお世話になるつもり。それで自立できるようになったら、実家をリフォームしてあげようと思って」
「やっぱり素敵だね」
今度は本気で口にする。
「ありがとう」と葉月は短い返事をする。空気はゆっくりと流れていく。高校時代の二人に戻るような感じがして、思わず涙が出そうになる。誤魔化すために咳払いをして、そのついでに話しかける。
「今日は実家に泊まるの?」
「そうだね。これから実家に住まわせてもらうから、挨拶と親孝行も兼ねてね」
「そっか、じゃあ家まで送るよ」
冷めたコーヒーとミルクティーを飲み干し、店を出る。
 喫茶店から葉月の実家まで微妙な横の距離を保ちながら30分ほど歩く。未来の話よりも過去の話をして、努めて明るい雰囲気を保つ。
 そのまま葉月の実家に着き、「それじゃ、また」と言うと、葉月はこちらを向き、
「今日はありがとう。お互いに30歳になるまでまだ少し時間があるから未来のことなんてどうなるか分からない。でも、今日こうやって大樹と話して、ずっと同じ気持ちを抱いてて良かったって思った。だから、花束、待ってる」
葉月の言葉は白い息とともに発せられ、空気中を漂う。いつの間にか陽が沈んで、空気は澄み、葉月の言葉をより際立たせた。
「きっと、大丈夫。」
と一言だけ葉月に伝える。葉月は安心したような表情をし、小さく手を振って家に入っていった。

 新年度に向けて、会社はそれなりに忙しくなる。それは葉月も同様で、半年ほど経つと街の情報誌に葉月のことが特集されていた。
『情熱と知識と若さで大館市を盛り上げる新進気鋭の村岡葉月社長』
そこには美しい瞳の葉月が経営者の顔をして、インタビューに答えていた。葉月というよりも村岡葉月社長としての顔だった。
 喫茶店で会ってからしばらくLINEでお互いの近況報告をしあっていたが、俺は30歳を手前に課長に昇進し仕事が増え、葉月も事業拡大のために忙しくなり、いつの間にかLINEのやり取りはなくなり一年が経っていた。

珍しく母から連絡があり、同窓会の案内状が届いているから取りに来いということだった。家から実家までは車ですぐだったが、今年の正月に顔を見せて以来、帰っていないことを思い出し週末に帰ることにした。
 実家に戻り、母に手土産を渡し、案内状を確認する。
ーー 平成25年度 大館市立第二高校3年2組同窓会のお知らせ
 皆様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。30歳を迎える年となり、その記念として下記の通り同窓会を開催する運びとなりました。積もる話や近況などを語り合い、楽しいひと時を過ごしたいと思います。皆様、是非お誘い合わせのうえ、ご出席くださいますようお願い申し上げます。
日時 8月20日(土) 19時〜
場所 プリンス大館ホール

幹事 川上 航平 ーー

8月20日は葉月の誕生日だったと思いながら、出席に丸をつける。同窓会の日に葉月は30歳になる。
「参加するの?」
母が台所でお茶を淹れながら聞いてくる。
「とりあえず、行ってみることにしたよ」
「それじゃあ」と言いながら、母は俺にお茶を出し、
「じゃあそれまでに髪を切ってこなくちゃね。あとはスーツもクリーニングに出さなきゃ。変な格好で行ったら笑われちゃうから」
「もう30歳になったんだから大丈夫だよ。髪は切るし、クリーニングに出したスーツも着ていくから」
二十代前半までは正直、母独特のお節介が鬱陶しく感じたが、今では愛おしく感じられるようになった。その日は実家に一泊し、翌日はそのまま出社した。

 課長職にも慣れてきた。蝉が鳴き始めるとすぐに会社が定める夏休みになった。期間中に同窓会に向けて散髪をし、スーツをクリーニングに出す。気休めに筋トレもしてみたが、予想通り3日と続かなかった。メタボではないが、形容しにくい体型が俺を構成している。
 同窓会前日の夜にスマホが長く振動し、見ると川上と表示された。通話ボタンを横にスライドさせ、電話に出る。
「おっ、久しぶりだな江藤」
久しぶりに聞く川上の声は元気そうで、少し安心した。
「久しぶりだな。急に電話なんてどうしたんだ?」
「明日の同窓会なんだけどさ、江藤は行くだろ?」
「そのつもりだけど、何かあったのか?」
「いや、特段、用があるって訳じゃないんだけど、クラスで一番仲良くしてくれたお前が来ないと盛り上がらないと思ってさ」
「なんだよそれ。それならもっと早く連絡してくれば良かっただろ」
俺は笑って答える。それに連動するように川上の声もワントーン上がる。
「お前、俺だってね、そこそこ仕事にプライベートにと忙しいんだよ。あ、あとさ事前に伝えておきたいことがあってさ」
川上の声が途端に、真面目な声色になり俺も身構える。
「俺さ、結婚するんだ。それで同窓会当日に皆の前で発表しようと思って」
意外だった。川上は既に結婚しているものだと勝手に思っていたので、反応が少し遅れ変な間ができそうになる。
「そうなんだ。おめでとう。それで相手は?」
すると川上は水を得た魚のように興奮した口調で話し出す。
「聞いて驚くなよ。クラスメイトに村岡っていたろ。俺、村岡と結婚するんだ」
後頭部を花瓶か何かで思いきり殴られたような衝撃がした。耳鳴りがして視界が狭まっていくような感覚。何か言わなくてはいけないと思えば思うほどそれは見つからず、喉に異物が詰まったように感じる。
「……何で?」
やっと出た言葉はかすれていて、弱かった。それに反比例して川上はさらに声を弾ませる。
「知ってるとは思うけど、あいつこっちで起業したろ?それで、事業を拡大するために俺が働いている銀行で融資を受けようとしたんだ。でも、まだ実績に乏しい時期で、それを理由に断られたんだよ。それで本人から話を聞いてみたらここ断られたら事業拡大どころか倒産するかもって話になって、それで融資担当者に俺が全責任を持つから融資してあげてほしいって頼んだのよ。それで何とか融資することができたんだけど、その後に何度か食事をして、その流れで付き合うことになってさ、ついに結婚することになったんだ」
川上は上機嫌で答える。
 足のつかないプールで溺れたことを思い出す。息ができす、誰かに助けを求めてもその声は誰にも届かず、泡に姿を変えてやがて消える。
「……明日は一緒に村岡と来るのか?」
「いやあ、どうだろう。向こうがあんまり乗り気じゃなくてさ」
「そうか…。仕事も忙しいんだろうから、無理させてやるなよ。じゃあ、また明日」
と一方的に電話を切る。
 その場に立ち尽くし、ゆっくりと呼吸を何度かする。少しずつ酸素が体内に充満し、思考が鮮明になってくる。
 確かに、今後の葉月の人生を考えると銀行に勤める川上と一緒になる方が良いのかもしれない。8月20日に30歳になる葉月は新しい人生を歩み出すのだろう。経営者として正しいと思った。
 夜が明けるまで、行くかどうか考えたが、向き合わなくてはいけないと思い、予定通り参加することにした。
 会場に着くと、既にほとんどの懐かしい面々が揃っていた。その中には川上もいて俺を見つけると「昨日はありがとうな」と人懐っこい笑顔を向ける。
「村岡は?」と小さい声で尋ねると川上は小さく指をさす。その方向には、女性陣に囲まれ、こちらに背を向けて話す葉月の姿があった。
 川上が幹事として場を仕切り、皆がなんとなくできあがってきた頃、「今日は皆さんにお伝えしたいことがあります」とマイクを持って、前方のステージに上がる。既に事情を知っているのだろう女性陣の数名が川上をキャーキャーと囃し立てる。
「俺、村岡葉月さんと結婚します!」と勢いよく言うと、事情を知らない出席者たちは「えー!」と驚きの声をあげたが、次第に「おめでとう!」と祝福の声と拍手の音に代わった。川上は葉月の方を向いて、手招きをする。葉月は顔を俯かせて川上の横に立つ。
 何か外国の映画を見ているような非現実的な出来事に感じられ、五感の全てがなくなった感覚に陥る。
 後ろから肩を叩かれ、我に返る。振り向くと従業員の女性が花束を持ち、「こちらを」と手渡される。前を見ると、俺と同じように同級生の一人が花束を持っている。
「幸せになってよね」とその人がなぜか、川上に花束を手渡し、川上はやや戸惑っていたが場の雰囲気を優先したのか「ありがとう!」と返事をする。俺は葉月に近付き、「おめでとう」と口を動かして、花束を手渡す。ついでに声もついてきたくらいの声量だった。
 葉月が俺を見る。その瞳は潤んでいて、とても美しかった。


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