第1話 シカの声

文字数 4,699文字

(あらすじ ~ 自然保護事務所の職員の石田は、山中のシカの鳴き声に驚く。採石工事で自然歩道の一部が危険な状態になっていることを知る。上司の小倉から斜陽産業の林業や、人工林が天然林を減らし、自然を破壊していくと教えられる。石田はシカの声が女の悲鳴に似ていると感じ、大学時代に好きだった昭子を思い出す。30歳に近づき、結婚問題を気にしている。)

 時代は昭和から平成に移ろうとする頃だった。
 石田は、仕事仲間の篠田と一緒に事務所を出た。市街地を抜け、農村を抜け、山村に入る。公用車は最後の十字路を抜けて、一本きりの山道を登った。林道の両側には、高い木々がおおい被さっている。
 車窓から見下ろすと、右側には谷間の風景が、左側には山の斜面の風景が広がっている。
「谷底が奥まで続いているな」
石田は前方を見つめながら言った。
「この沢は結構続いてますよ」
「沢って、よく聞くね。谷間じゃないの?」
石田は聞き返した。
「山の人たちは、沢って言うんですよね」
元々、山林と関係の薄い者は、山と山の間はただの「谷間」だと思い、そう呼ぶ。しかし、同じ谷間でも小さな狭い谷間は、林業の関係者は「沢」と呼ぶらしい。それが最近石田には分かった。
沢は、場所を示す目印にもなる。町の人々は、どこどこの角を曲がって、という言い方をする。一方、山の人々は、どこどこの沢を上って下って、という言い方をする。山の中には、指をさして分かるような建物はない。
 目の前の道路は舗装されていない。砂利や枯れ葉や水たまりで、表面が覆われている。
山の斜面は、道路を挟んで緩やかに下っている。背の高い高い杉木立が、その先に広がっている。しかし、密にはなっていない。下草が刈られ、風通しが良い。木々は、枝打ちという作業で枝がきれいに切り落とされている。適当な間隔で並んで、上空にまっすぐに伸びている。
 杉木立の向こうには、さまざまな種類の低木が生い茂っている。杉木立は植林で出来たもので、人工林と呼ばれている。低木は自然に生えたもので、天然林、自然林と呼ばれている。

 篠田は目的地に着くと、車を停めた。石田は車から出て、用事のある場所まで少し歩いた。すると、
「ぎゃー」
 突然、大きな音が聞こえた。女の悲鳴か。その声は周囲の静けさを切り裂いて、山林に鳴り響いた。
 石田は振り返り、耳をそばだてた。聞こえてくる方向は、自然林の奥だった。
 耳を澄ましていると、またひとつ聞こえた。
 周囲は草木だらけで、人間は石田と篠田のふたりしかいない。しんと静まりかえっている。空気は引き締まっている。
「シカの鳴き声ですよ」
 篠田が静かに言った。
「シカなの?」
 石田は篠田の顔を見た。
「びっくりしますよね」
 篠田は、にっこり笑った。篠田は石田より2、3才年下だ。しかし、職場への配属が一年早くて、仕事上は先輩に当たる。
「女の人でも、こんな山奥で誰かに襲われてるのかと思ったよ。初めて聞いたよ。野生的だなあ」
 石田は山の中を見回すが、シカの姿は見えない。石田は想像した。町で暮らす人間がこんな空間に迷い込んだら、野生動物のように生き抜いていくことは出来ないだろう。ほとんどの人間は文明化された空間、環境でしか、もう生きられない。

 石田は、この4月に自然保護事務所に事務職員として転勤してきた。職場は、事務職員より技術職員の方が多かった。林業、林道、自然保護、動物保護の関係者が一緒に働いていた。
 石田は毎朝、自家用車で自宅から事務所に通った。
 途中でブドウ団地と呼ばれるブドウ畑の中を通った。舗装道路は、広々とした空間を貫き、車を軽快に飛ばすことが出来た。ブドウ団地の背後に屏風のように構える沿道の山々を、時々眺めた。
 山々は季節の移ろいに従い、色や模様を替えた。初夏は、眩しいほどの新録を見せた。晩秋になると、それまでの緑の画布が赤や黄に変わり、まだらになった。冬は、一面が赤茶けて、はげ山のようになり、ところどころ雪帽子を被ることもあった。

自然歩道の途中に、歩くのに危険な箇所があるという連絡が、事務所に入った。
 石田たちは車で現場に向かいながら、問題の山を遠くから眺めた。その付近一帯は、採石工事が行われている。ブルドーザーやダンプカーが使われ、一山二山と削られていく。掘り出した土砂はダンプカーで運ばれ、都市部の埋め立てや建設工事に使われる。
山を削り、掘り進める作業は、許可された範囲が限られている。しかし、削る作業は、自然歩道の近くに迫っている。
 石田たちは近くの林道に車を置いて、山道を歩き始めた。
 山の中の道は自然のままの状態で、気をつけて歩かないと怪我をする。町の中の道に歩き慣れた足には、負担がかかる。作業服を着て、作業帽を被って、運動靴を履く。
 こういう仕事は、登山やハイキングの好きな人なら向いているかもしれない。
 しかし、石田は、山歩きは特に好きではない。得意でもないし、あまり興味もない。そんな人に限って、こういう仕事をやらされる。世の中は皮肉にできていると内心で思う。
 登ったり降りたりの道が、くねくねと続く。
 草木に囲まれた空間だ。土や木や、動物や虫や、様々な自然の匂いが鼻をつく。風が吹き付ける。
 登り詰めた先に、山の頂上の尾根道がある。道幅が狭くて、人とすれ違うのがやっとだ。気をつけないと怪我をする。
 大げさに言えば、綱渡りに似ている。
 しばらく行くと、落ちたら大変、危ないと感じる場所に出た。篠田が言った。
「この辺じゃないですか?」
「何だかよく見えなくて、怖いね」
 石田が見てみると、雑木林の先は崖になり、谷底になっている。採石工事が目の前まで及んでいるらしい。
 日本はもともと山国で、平地は狭い。その狭い地域に、人が集まり、町を作る。町が広がれば、農山村地域に開発の手が伸びる。自然は法律などで保護されているが、それでも、さまざまな工事が進められる。
 石田は、自然の保護と都市の開発のバランスを取っていくのは難しいと感じた。
 事務所は、調査した場所の危険な箇所に、立ち入り禁止の表示をすることにした。

 自然保護の仕事をしていると、おのずと森林や林業と関わりを持つことになる。
明治以来、商品価値の高いスギ、ヒノキが、山間部に盛んに植えられてきた。自然林を駆逐して、人工林が増加した。
 人工林の植林は、一方では、人に健康被害をもたらした。春に飛び散る花粉が、呼吸器を刺激して、花粉症が猛威をふるうようになった。
 石田は、比較的早い時期に、この病気にかかった。その頃は、まだ流行の初めだったらしく、患者の数は少なかった。
 スギの多い人工林を歩いていると、花粉症が悪化する。春の季節は辛い。放っておくと、鼻水がだらだら出たり、逆に詰まって息ができなくなる。
 鼻をかむのに鼻紙が必要だ。飲み薬や、噴霧薬が必要だ。
 自分が辛いだけでなく、職場の中でも外でも、人に会うのが億劫になる、気まずくなる。よりによって、花粉症の自分が、花粉に関わる機会の多い仕事に就かされたのは不運だと感じた。

事務所の小倉課長が、石田と一緒に山の現場を歩いていた。林業関係の技術職員で、退職間際だった。小倉は、森田の顔を見て、微笑みながら言った。
「苗木を山に植えて、それが木材で使えるまでになるには、30年も50年もかかるんですよ。山の人たちは、それをずっと、長い年月の間見つめているんです。自分の人生では、短すぎて、木の成長を見届けるのは無理でしょう。だから、前の時代の人が植えた木を自分で切って、今度は次の時代の人が切る木を自分が植えるんですよ。そうやって、生きてるんですね。世の中、目の前のことに捕らわれて、今日明日のことばかり一生懸命追いかけている人が多いじゃないですか……。そういうのとは、ちょっと違いますよね?」
事務職で林業の分野にあまり通じていない石田に、知恵を授けるような口振りだった。
 石田は遠くの山の風景を眺めて言った。
「今でも、炭焼きなんかする人が残っているそうですね?」
 小倉は、にこりと笑った。
「そうそう。何人かいますよ。町の人から見ると、仙人のように見えますよね」
 石田はそれに切り返して言った。
「山の人から見ると、町の人は外国人に見えるんじゃないですか?」
 石田は、そういう人生観、世界観もあるかと思った。
 小倉は続けた。
「でも、現実的な問題もありますよ。林業は斜陽産業のひとつです。林業人口は、農業人口もそうですけど、年々減少しています。山の村では若者が減って、年寄りが残って、過疎地は病人も増えて、社会問題になっていますよね。昔からスギ、ヒノキばかり植えて、盛んに林業の振興をしましたけど、あまりに自然に手を加えると、どこかにひずみが来ますよ。この頃は、外国の輸入材に押されて、国産材の売れ行きは鈍ってますね。元々、日本みたいな山国で、木を切り続けたら、川の流れは急なんですから、土砂崩れで災害は多くなりますよ。治山事業も付け焼き刃になります」
 小倉は、現場でたたき上げの植林、造林の職員だった。昔から地元の林業関係者と、時には膝を交えて関係を持ってきた人物だった。
 一方で、技術職の中には小倉などとは違い、若くて、先進的な知識に染まっている者もいた。斜陽産業の割には、意外に高学歴の人が多かった。治山や林道開設に関わっていた。職場ではパソコンに向き合っていた。
 当時、パソコンは、職員30人の事務所に1台しかなかった。世間では、官庁でも民間でも、パソコンは、やっと職場に普及し始めた時期だった。それをいち早く、大学院を出た若手の職員が自在に操作していた。その後ろ姿を見て、石田などは感心したものだった。 

 石田は、そろそろ29歳になる。普段は忘れているが、いよいよ30代が近づいてきた。年をとり、周囲の動きを眺めていると、そろそろ身を固めるべきかと考え始める。
 最近もまたひとり、同年代の友人が見合いで結婚を決めた。自分は絶対に自由恋愛だと言っていた男だった。
 もたもたしていると、学生時代の同窓生に次々と先を越される。体も衰え、若い娘からも徐々に相手にされなくなる。そのことは少し気がかりだ。
 いい年をして彼女も見つからない。惨めに取り残されている。情けない奴だと世間から見られるのが、しゃくに障る。
 しかし、思いつくような結婚の相手がいない。
 短気の父親が、結婚の話題が出た時に、けしかけるように言う。
「まだ、なんか。何をやってんだ」
 母親のやり方は違う。夜中に石田の部屋に入ってくる。見合いの話を出す。耳元で静かな口調で、目をしばたたかせながら、説教する。母親のやり方の方が身に応える。
 内心のところ、結婚しないのは、自分に会所がないせいだ、などとは考えていない。落ち着いていて、焦って結婚しようとしないだけだ。
 これまで人並みに、気に入った女性に思いを寄せてきた。女性の方から思いを寄せられたこともある。それなりのことをして、それなりの経過を踏んできた。
 その多少の努力の結果として、今独身でいる。現状を受け入れて、悠々自適としている。

 ある晩、仕事から帰宅した石田は、昭子という女性のことを回想した。大学で見初めて、片思いで終わった相手だった。手の届かなかった女性だった。願いがかなわなかった。昭子の白い肌を夢想した。
 夢想の中で、山中で聞いたシカの鳴き声が幻聴のように聞こえた。想像の中で、石田は昭子と交わりながら、その声を耳に聞いて陶酔した。
 しかし、その後、昭子は知らない男と交わった。その声を聞いて、今度は不快な気分に陥った。

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