第1話

文字数 940文字

 俺のバカンスは絶体絶命の危機に瀕していた。

 客先から八月十六日納期の仕事が舞い込んだのは八月に入ってから。
 自分たちが休みの間に終わらせておけという暗黙の命令だ。鬼だ。こんなの理不尽だが、下請けの零細は従うしかない。仕事を持ってきた上司も客の言いなりだ。

 でも俺は諦めない。絶対に十三日から彼女と旅行する。

 そうして連日職場で日付をまたぎ、終わりが見え始めた八月十一日二十二時。俺は同僚と晩飯のカップ麺を作っていた。

「これ見ろよ」
 同僚が蓋の縁に重しを置いた。黒い猫のフィギュアだ。

「コップの縁にぶら下げるっていうやつか」
「かわいいだろ。今はぶらさげると重しにならないから乗せてんだけど」
 にゃーんと言いながら同僚はパソコンの時計を見てカップ麺の時間を計っている。

「そういうの、ぶら下げてどうすんだ。中に落としたりして誤飲しないのか」
「ぶら下げたまま使うわけないだろ。だいたいこんなデカいもの飲みこむかよ」
 フィギュアは親指くらいの大きさだ。そうだよな。と笑って俺は、出来上がったカップ麺の蓋をめくった。そうそう、と言いながら同僚も蓋をめくる。
 蓋のフチにいた猫が中に落ちた。言ったそばからバカだなーと思ってたら、同僚は気づかなかったのか、箸を割って「いただきまーす」と言いながら食べ始めた。

「えっ、お前、バカ、さっきそこに猫が」
「あ? 猫? 会社にいるわけないだろ? にゃーん」
 言いながらバクリと猫を食べた。あっダメだこいつ寝不足で頭が死んでる。そのまま、ごくり、と飲み込む。ゥグ、と声にならない音がした。

「お前冗談やめろよ」
 乾いた笑いが出る。同僚はみるみる顔が青くなり赤くなっていく。いやマジか。どうすんだこれ。

 俺は一瞬固まったが、その間に同僚が喉を押さえながら床にひっくり返る。俺は慌てて電話を手に取って119番を押した。大丈夫か、息をしろ、と叫ぶ。
 どうすんだこれ、掃除機で吸い出すのか。無いぞ掃除機。指つっこむのか。後ろからどつけばいいのか。

 電話口でお姉さんの声がする。「火事ですか? 救急ですか?」え? なんだっけ? 同僚が死にかけてます救急です。俺も死にそうです。

 さようなら俺のバカンス。
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