全一話

文字数 3,644文字

 全てが朦朧(もうろう)としている。満ちているのは濃霧か? 視界が効かない。天も地も西も東も分からない。ムッとする熱気と生臭さ。ムッとするのは夏だからなのか? そう自問する。いや、次の瞬間には凍てつく寒気が全身を襲って来た。本当は明るいのだろう。暗いなら霧さえも見えるはずは無いのだから。そんな風に、己の五感すら、頼りなく嘘臭いものになってしまっている。

「悔いは有るのか?」
 突然声がした。地の底から湧き上がるような声、周り中から押し包んで来るような響き。人の声とさえ言えないような何かがそう言った。
「何者!」
と強く誰何(すいか)するが、言葉とは無関係に『今は、水無月(みなつき)になったばかりだ』と、先ほどの自問の答が浮かんで来る。(かん)(さわ)った。
「この信長にそのような物言いをするとは、不敵な奴。何者か答えよ! 関白・近衛前久(このえさきひさ)ですら、(わし)にそのような物言いはせぬ」
と強く言った。霧の中の声は、
「ふふふ」
と低く笑う。そして、
「その増上慢(ぞうちょうまん)(なれ)の身を滅ぼしたのだ」
と吠えた。
『身を滅ぼした? そうか、やはり(わし)は死んだのか。⋯⋯』と、己が今置かれている状況を、信長は理解した。
『⋯⋯と言う事は、ここは地獄とやらか?』
 そう信長は自問する。声には出さず、思っただけなのに、
「ふーん。そうか。己を神とまで言い放った(なれ)が、自らを地獄に堕ちた者と思うのか? いや、信長ともあろうものが、地獄など信じるのか? ⋯⋯それは愉快じゃ」
 信長の心の声が聞こえているように、地の底からの声は、また可笑し気に笑う。信長は霧の中をじっと見詰めるが、相手の姿は見えない。
「まさかそのほうは、閻魔大王だとでも言うのでは有るまいな、姿を表せ!」 
と信長は、甲高(かんだか)く大きな声を上げた。
「ふふ。もし麿が閻魔大王だとしたら、その閻魔大王を “そのほう” 呼ばわりするとは、流石、信長。天をも神をも恐れぬ第六天魔王と自ら名乗っていただけの事は有るな」
と声は言った。信長は苛立(いらだ)った。
(わし)は気が短いのだ。くだらんことを言っとらんで、さっさと姿を現せ!」と怒鳴る。

 目の前の霧がどんどん収縮して行く。その限りなく細かい粒子の一粒一粒が色を帯び、とんでもない速さで収縮を繰り返し、朧気(おぼろげ)(かたまり)になって行く。そして、やがて人の形となった。
 前時代的な大鎧(おおよろい)(かぶと)(かぶ)らず、大童(おおわらわ)に垂れ下がった髪。左の米神(こめかみ)には穴が空き、血が流れた跡が黒く固まっている。最初は朧気だった人影は、次第に鮮明さを増して、今や人となって霧の中に浮かび上がっている。

(わし)は、そんなものは全く信じておらなんだが、やはり、冥界(めいかい)と言うのは有るのだな」
と信長が(つぶや)いた。
「有ると思えば有る。しかし、無いと思えば無い」
 落ち武者のような姿の男は、そう言った。
「坊主の禅問答のような話は好かん」
 信長は、そう言い返えした。
「ならば、有るとせよ」
 もはや、はっきりとその姿を見せた武者を、信長は食い入るように見詰めていた。気のせいだろうか、男の背後に何故か繋ぎ馬の(のぼり)がはためいているのが見えるような気がした。見えてはいないのに見えるような気がするだけだ。
「そう言う(おのれ)は、いや、貴公は、最強怨霊と言われる平将門公か?」
 己の想いを確かめるかのように、信長は、そう聞いた。
「如何にも平小次郎将門ではあるが、最強怨霊などでは無いぞ。(おびえ)た公家共が、勝手に麿を最強怨霊と言う事にしてしもうただけじゃ。都で起こる凶事は全て麿の仕業(しわざ)と言う事にされてしもうて、いい迷惑だ」
と将門は意外な答をする。
「それは気の毒に、だが、将門・最強怨霊説は、今や童でも知っておるわ」
 今度は「クックック」と、将門が笑った。
「信長という男、愚か者達がそう言っているからと言って、何でも鵜呑(うの)みにするような男ではあるまい。そう思って、会いに来た」
 将門は屈託無い表情を浮かべている。
「会いに来た? それで、(わし)に最初に言った言葉が、“増上慢(ぞうちょうまん)による自業自得“か? 無礼な」
「怒ったか? 例え怒ったとしても、お互い死んでおるのでは、如何に気の短い(なれ)といえど、今更、改めて麿を殺す分けにも行かんのう」
 一瞬無表情となった信長だが、やがてニヤリと笑った。
「フッフッフ。平将門が、我が家来(けらい)共や公家共のように、(わし)の怒りの言葉に震え上がる訳も無いか。それに、お互い(うつつ)の身では無かったな」と、可笑(おか)しさを(こら)えているような表情となる。そのまま、(しば)し見詰め合っていたが、やがて二人共大笑いとなった。

「裏切った者が目を掛けている者と知った時、何を思った?」
 不意に真顔になって、将門が信長に聞いた。
「”やはり無理であったか“ そう思った」
 信長は全てを諦めたような表情でそう答えた。
「裏切られる事を予想していたと申すか?」
 不思議そうな顔をして、将門が聞き返す。
「そう言うことでは無い。残された命のうちにやらなければならぬ事が余りに多過ぎた。五十を目の前にして、残された時が無い事を思い、(あせ)っていたのだ。しかし、やりたい事は道半(みちなか)ば。寺社との戦いに思わぬ時を費やしてしまったからな。その苛立(いらだ)ちの一つが、佐久間親子の追放であった。石山本願寺を(くだ)しほっとしておったろう。しかし,その途端に、長年仕えて来た(わし)に追い出されたのだ。あ奴らなら、どれほど(わし)を恨んでも不思議は無い。しかし、無能の者は足手まといでしかない。だから追放した。そんな者達はいくらも居た」

 信長の顔に浮かんでいるのは、悔しさや怒りでは無い。
「だから、裏切られたことに驚きは無かったと申すか?」
「光秀は無能の者では無かった。困難な事も、ちゃんとやり遂げて来ていた。その光秀までもが儂を恨んでおったのかと思った時、(あせ)ってやり遂げようとしたことに、やはり無理が有ったのだと悟り、観念した。時との戦いに勝てなかったのだ」
 信長はそう言った。
「それが、謀反を起こしたのが光秀と知った時の “是非に及ばず” と言う言葉になったと言うことか。本当に、恨みや裏切られた悔しさは無かったのか?」
「無い。やるだけやったが及ばなかった。(わし)は己自身と戦っていたのだ。残された命の中で、果たして、やれるのか、やれぬのか。結局、やり遂げるまでの命を、天が与えてくれなかったと言うだけのことだ」
 そう言うと、信長は大きく息を吐いた。
「それで、(なれ)は怨霊とされずに済んだと言う訳か。逃れた者の中に”是非に及ばず“と言う(なれ)の呟きを聞いておった者が居たのが幸いだったな」
「“おのれ光秀! この恨み晴らさずに置くべきか!”とでも言っておけば、最強怨霊は、貴公ではなく(わし)になったかも知れぬのう。第六天魔王と自ら名乗っていたくらいだから、それも面白いと思うがな」
「いや、そうはならん。貴族共は、もはや落ちぶれ果てており、貴公を怨霊とする権力も財も無いからな。貴公の怨念を(しず)める為に(まつ)る神社一つ作る力はあるまい。(おそ)れて(まつ)る者が居なければ、怨霊など生まれぬのよ。麿の時代は、財も権力も全て藤原の者達が握っておった。だが、公卿達は穢れを嫌い恨みを持って死んだ者を(おそ)れておった。すべての凶事を怨念と結び付け、それから逃れようと菅公(菅原道真)や麿を神として祀り、災厄から逃れようとしたのだ」

「貴公の事が余程恐ろしかったのだな」
と信長が笑いながら言う。
 将門は苦笑いをした。
「今や貴族共にはその力は無い。ところで、貴公は、麿がどう死んだか、存じておるか」
 将門が信長にそう尋ねた。
「ふふ。”うつけ“ の信長に聞いておるのか? そのくらいの書物は読んでおる。十六、七の頃から身を守るため、わざと“うつけ”を演じておったが、それまではちゃんと学んでおったからな。貴公が死んだのは北山の戦い。眉間(みけん)。いや、米神(こめかみ)に矢を受けたのでは無かったか?」
「その通り。つまり、恨みを残す暇など無く、麿は、勝つことを信じて戦っていたのだ。己が死んだことさえ気付かなかった。それがどうして怨霊となるのだ? 一方、貴公は配下に裏切られて死んだ。普通なら、怨霊になるのは、麿ではなく貴公であろう。そもそも怨霊とは恨みを持って死んだ者の魂が土地や社会に憑くと言われるもの。裏切られて志半ばで死んだ貴公ではなく、別に誰に裏切られた訳でもなく、恨みを残す暇もなく(いくさ)の中で死んだ麿が、何故、最強の怨霊なのだ?」

 将門は、己が三大怨霊の筆頭とされてしまっていることに、余程不満と見える。
「はっはっはっは。それは、貴公の頃の公家共は、己が取り憑かれない為に貴公を祀り上げる力を持っておったが、もはや、今のあの者達にはそんな力も財も無いと言うだけの事だ。嘗ては望月に例えて、我が世の春を謳歌していたあの者達も、身分だけは高くともなんの力も無い存在と成り果てておる。怨霊退散の祈祷をする財力さえなくなっている。(わし)に逆らえる公家などおらなんだ」

 互いに志半ばではあったが、将門が口火を切り、やがて頼朝以来、武士とその呼び名の変わった(つわもの)達が力を得て貴族は力を失い、(かつ)て貴族達の下僕でしかなかった者達同士が、今や天下を争っている時代となっていた。



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