第13話

文字数 2,138文字

 あれから一年後、明日香さんは真打に昇進した。同期の仲間五人と一緒だったが、既にマスコミでは話題になり始めていた。
 あの日、日村さんが言っていたように、華があって、かって劇団に所属していた程の美観なので周りが放って置かなかったのだ。昇進すると直ぐに人気が爆発した。連日芸能マスコミが姉さんの後を追っかけた。この点では日村さんの言っていた事は間違ってはいなかった。でも、誰にも言えないが、一つだけ俺は知っている。師匠の蔵之介師もウチの師匠も知らない、俺にだけ明日香姉さんが教えてくれた事がある。
 それは、あの日、駅に送って行った時。最後に列車に乗る時に日村さんが
「本当に辛くなって噺家を辞めたいと思った時だけ、ここに連絡しろ。愚痴ぐらいは聴いてやるから」
 そう言って一つのメアドを教えてくれたそうだ。
 結局、そのメアドに明日香姉さんが連絡をしたのかは知らないし、俺も姉さんに訊く権利なぞない。でもあれから明日香姉さんは、年に一~二回纏まって数日の休みを取る事が多くなった。何処に行くのか誰にも教えずに旅に発つと言う。無論、その間はマネージャー以外は連絡は取れないと言う。休み明けの姉さんは実に生き生きとしている。それは高座の出来が物語っている。それが何故なのかは誰にも判らないし、誰も訊かない。勿論俺も……。
 

 その日は日本晴れと言いたい程の良い天気だった。カミさんの梨奈が出がけに「カチッカチッ」と切り火をしてくれる。
「今日から真打昇進披露だからね。がんばってね」
 周りに人が大勢いるのに、そんな人の目も気にせず俺の頬にキスをする。
 今日から俺の四十日間。国立を含めると五十日間の真打昇進披露が始まるのだ。
「今日からは二代目小金亭遊蔵師匠だからね」
 そうなのだ。師匠の名を継いでの昇進となった。ちなみに師匠は数年前に五代目小金亭仙蔵を継いでいる。落語の歴史に名を残す名人ばかりの仙蔵だが、師匠もその一人にやがてなる訳だ。
 昇進披露の間、師匠はずっと一緒に付き添ってくれる。弟子としては本当にありがたい。これは心の底から感謝している。だって、この五十日間、師匠は大きな地方での公演を断り、口上や高座に出てくれるのだ。よく、
「弟子が真打になるまでが師匠の責任」
 という言葉を聴くが、これは本当だと思う。あれだけ小言を貰っていた俺だが、最近は少し減った。まあ気のせいかも知れないが。
 そして、俺には師匠が大きくした「遊蔵」と言う名を更に大きくしなくてはならない使命がある。師匠の名を継ぐという事はそう言う事なのだ。協会やお席亭、それに師匠自身が俺にそれだけの器量があると認めてくれたのだ。でも喜んでばかりもいられない。第一責任も伴う。俺が駄目になれば師匠はもとより、一門の噺家皆が恥を掻く事になってしまうからだ。そんな俺の思惑を十分に梨奈も理解している。
 あの日から俺は死に物狂いで稽古をした。師匠の許可が出ても梨奈がダメ出しをする事が幾度もあった。今から思えばアイツも必死だったのだと気がついた。結局、俺は良いかみさんに恵まれたのだと思った。
「でも梨奈ちゃんもすっかり噺家の女将さんが板に付いたわね」
 わざわざ、お祝いに駆けつけてくれた明日香姉さんがニコニコしながら言うと
「そうでも無いですよ。もしかしたら、これから弟子が入って来ると思うとねぇ」
 笑いながらも満更でも無いらしい。
 俺と梨奈は彼女が大学を卒業すると結婚した。やっと売れて来た二つ目だった俺は自分の背丈に合った式をした。師匠もそれでよいと言ってくれたし、無理に背伸びしなくても良いと思った。中には「噺家は見栄の商売だから」と言う人もいたが俺は
「それは真打昇進に取っておきますよ」
 そう答えていた。
 一年半後に長男が生まれ、二年後に長女が生まれた。梨奈も今や二児の母だ。でも相変わらず綺麗なのは言う間でもない。
「じゃ行って来る」
「あいよ! 行っておいで!」
 カミさんの声に送られて上野の鈴本演芸場に向かう。ここを最初に都内四件と国立演芸場まで五十日間の真打披露興行が始まるのだ。今回は俺一人の「一人昇進」で協会としては三十年ぶりなんだそうだ。その三十年前とはウチの師匠だという。つまり師弟揃って一人昇進なんだそうだ。
 一人で披露興行を行うにはそれだけの力量が求められるし、掛かる費用も期待も半端ではない。俺はそれだけの力量があると世間から認められたと言う事なのだ。正直こそばゆいが……。
 今までは多少の苦労はした。だけどそれは舗装の悪い道を歩いている様なものだったかも知れない。そんなのは苦労に入らない。本当の苦労はこれからだろうと考えている。これから先の事は誰も判らない。でも、俺には確かな確証がある。それは……。
 あの日、今は妻となった梨奈を最初に抱いた時に彼女が言った言葉を思い出す。
『あなたは絶対大物になる! わたしがそう感じた唯一の人だから』
 その言葉を信じ胸に秘めて俺は高座に上がる。

        師匠と弟子と  了
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