第1話

文字数 5,157文字

 今年、2021年は信州の戸隠神社で式年大祭が執り行われた年。丑(うし)年と未(ひつじ)年の、現在のカウント法では六年に一度開催される(かつては〝七年に一度〟という言い方をしていました)ビッグイベントです。そのビッグイベント中に、戸隠神社で演武(武道の披露)をする機会を頂きました。
 僕は20年ほど「居合道」という真剣を使う武道を修行していて、現在は小さな道場の代表もしています。そういう僕の活動を御存じの、あるお寺の御住職とのつながりで演武の依頼を受けました。
 神社で刀を振る、というと何やら変な感じを持たれるかもしれませんが、実は僕、神社やお寺で居合の演武をする専門の立場を持っています。日本刀は敵をやっつける武器である他に、目に見えない邪気、つまり悪いゴーストを退治する武器(刀のこういう側面を〝霊器〟と言います)であるともされているため、居合の〝型〟を御披露することが一種の〝厄払い〟とみなされるのです。
 僕はある神社で、そうした日本刀を使った厄払いを専門的に担当する〝衛士(えじ)〟に任命されています。そうしたこともあってお声がけ頂いた、というわけです。
 因みに江戸時代、武装して神社やお寺を警衛する衛士は武士階級でした。そうした意味では、僕はリアルなサムライとしての立場を持っていることになります。
 それはさておき、戸隠神社は「古事記」や「日本書紀」の神話に登場する〝天の岩戸伝説〟に由来を持つ神社ですが、一つのお社ではありません。代表的なお社が五つあり、その中で最も立派な社殿を持つ「中社」の拝殿での演武をお申し付け頂きました。
 この国で最古級の歴史を持つ有名な神社で演武をするのは結構な名誉に違いありませんが、同時にこれまでで最もプレッシャーのかかった演武でもありました。
 何しろ、六年に一度の「式年大祭」中で、しかも五社の一つである〝宝光社〟のご祭神が、父神である中社のご祭神のもとへお渡りになる二週間(つまり、6年間で2週間だけ)というごく短い期間の、その父子二柱のご祭神を前にしての演武なのです。もし刀の扱いを誤って自分の手を切ったりすれば(居合では時々起こる事故です)、超レアなタイミングでそこにいらっしゃる神様方の前を血で汚すことになります。これは絶対にあってはなりません。かと言って失敗を恐れて中途半端な演武をすれば、演武を依頼して下さった方のお立場を損なう事にも繋がります。
 結果的になんとかやりおおせ、その様子を地方紙なんかでも紹介して頂きましたが、演武を終えて自席に戻った瞬間、膝から力が抜けました。まあ、一つ限界は超えたかな、という感触もありましたが。

 御神前での演武の機会を頂くに及んで、特に心がけた準備が戸隠神社の由来の再確認。もちろんある程度は知っていましたが、こういう機会ですので改めて、というわけです。そんな軽い感じでSNSなどで調べているうちに、あにはからんや、この神社のストーリーの違った姿が見えてきました。
 戸隠神社の由来は、先述したように、「古事記」や「日本書紀」に登場する〝天の岩戸伝説〟。大まかに説明するとこんな感じになります。

 太陽神であるアマテラス(天照大御神)が、弟のスサノオ(須佐之男命)の余りの乱暴にブチ切れてしまい、岩窟(岩屋)に引き籠って入り口を大岩で塞いでしまったからさあ大変。世界から光が消えて動植物が育たなくなり、高天原の神々も困ってしまいます。
 岩屋から出てくるように神々がお願いしても、完全シカトのアマテラス。さりとて岩屋を塞いでいる岩戸はあまりに重く、力ずくも通用しません。そんな〝アマテラス奪還計画〟というミッション・インポッシブルに最初に立ち向かったのが、僕が演武を奉納した中社の御祭神:天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと:オモイカネ)。
 この、堺雅人とかディーンフジオカをつい思い浮かべてしまうインテリイケメン(?)神が、ミッション完遂のためのプランニングをします。
 ニワトリを鳴かせるとか、興味を引くためのアイテム制作とか色々やるのですが、メインイベントは岩屋の前にしつらえたステージでアメノウズメ(天鈿女命)に担当させた超絶パフォーマンス。
 コミカル&セクシーなダンスだったという事ですので、渡辺直美がビヨンセとかレディ・ガガのモノマネをやって見せた感じでしょうか。そのダンスと並行して、タヂカラオ(手力男命)を岩戸の脇に潜ませます。タヂカラオはスーパーマッチョな神様ですので、室伏広治とか照英あたりをイメージすると良いのでしょう。
 さて、渡辺直美アメノウズメがステージでビヨンセのマネ踊りを始めると、堺雅人オモイカネの思惑通り、神様たちがやんやの大喝采。〝いいぞ~~!〟〝ヒューヒュー〟〝もっと脱げ!〟ってな感じのどんちゃん騒ぎになだれ込み、岩の隙間から騒ぎを漏れ聞くアマテラスもそわそわし始めます。
 「スーパーヒロインの私の不在でみんなテンションダダ下がりのはずなのに、何をあんなに面白おかしく騒いでいるのかしら……」 ← ※元祖〝こまったちゃん〟はこの方です。
 アマテラスはつい気になってほんのすこし岩戸をずらし、隙間からお祭り騒ぎを覗き見ようとしますが、その瞬間を見逃す堺雅人オモイカネではありません。
 「……今だ! タヂカラオ‼」
 「おう、任しとけ!!!」
 そこは音に聞こえたスーパー体育会系の室伏広治タヂカタオ、少し開いた隙間にすかさず手を差し入れて岩戸をむんずと摑むと、アマテラスが二度と引き籠らないように岩戸を〝えいやっ〟とばかりにぶん投げてしまいます。その岩戸が放物線を描いて落ちてきたのが、何を隠そう戸隠山。 ← ※この巨大岩石落下を軸に展開されるのが瀧くんと三葉による「君の名は」のストーリー………ってのはウソ。
 因みに、「古事記」「日本書紀」では、タヂカラオは岩戸の隙間をこじ開けてアマテラスの腕をとらえ、力任せに引きずり出した神様として描かれますが、僕は戸隠山の伝承で伝わる、間髪入れずに岩戸をぶん投げた、ちょっと脳筋な感じのタヂカラオの方が好きです。
 伝説は大抵、アマテラスが再出現したところで〝めでたしめでたし〟となるわけですが、僕がつい想像してしまうのは、岩戸をぶん投げられて隠れようがなくなったアマテラスが姿を現した瞬間の神様たちのご様子。
 一瞬時間が止まったように皆が身動きを止め、目は岩屋の方にそそがれたはずです。渡辺直美アメノウズメはちょっとエッチなあられもないポーズのまま岩屋をふり返り、囃し立てていた神様たちもその手を止めて首をねじ向け、堺雅人オモイカネはやれやれ、といった風情で〝これはこれはアマテラス。随分とお久しぶりでございます〟なんていかにもな声を掛けようと身を乗り出したでしょう。
 ここで動きを止めていないのは、大仕事を終えて小さくガッツポーズをとり、肩で息をつく室伏広治タヂカラオくらいだったはず。
 ※もっとも、ぶん投げたハンマーを見送る感じで〝だあぁ~~~~!〟とか〝どりゃあぁ~~~~〟とか叫んでいたかも知れませんが。
 さて、ここで相当気まずいのがアマテラス。僕はこの時のアマテラスを北川景子のイメージに重ねてしまうのですが、隠れようがなくなってアタフタするのを取り繕い、
 「………そろそろ出て差し上げようと思ってたんですけどっっっ‼?」
と、ツンデレな感じで開き直る場面が想像されます。それを聞いた神様たちが全員ずっこけるというオチなら、いかにもヨシモト的というか、この国らしいハッピーエンドではないでしょうか。

 相当に僕の妄想が入った戸隠神社の伝承ですが、隠れてしまった太陽を再出現させるという「天の岩戸伝説」に類似した神話は、日本以外にもいくつか見られるそうです。「ノアの箱舟」と同様の洪水伝説が世界各地でみられるように、人類共通の記憶がベースになっているのかもしれません。
 そうした各地の伝承の類似性もなかなかに興味深いところですが、僕はこの「天の岩戸伝説」、それも戸隠の伝承を、「突然訪れた大きな危機を共同体が乗り越えたストーリー」という角度から見てみる方が面白いと思っています。
 戸隠の伝承でまず興味を惹かれるのは、クライシスを克服するキャラクターが突出した一人ではないところ。
 西洋を中心とした海外の「危機克服のストーリー」は、傑出した一人の〝英雄〟によって担われることが多いように思います。それに対して戸隠の伝承では、プランナーのオモイカネ、レクリエーション担当のアメノウズメ、パワー担当のタヂカラオと、少なくとも三者によって分担されています。
 また、こうした危機克服のストーリーは、西洋ではむごたらしく血なまぐさい光景になるのが普通でしょう。力ある英雄が敵を皆殺しにしたり、倒した敵をバラバラに引き裂いてしまう、といった具合に。
 神話というのは基本的に残酷な描写がつきものですので、もちろん日本の神話にもスプラッタな描写はあります。しかし、恐らくは日本神話世界で最大の危機であった「天の岩戸伝説」にそうした血なまぐささが見られず、なにやら高校の文化祭のようなテンションで乗り切ってしまうあたりは、平和でもユーモラスでもあり、翻って言えばちょっと誇らしく思ったりもします。
 この伝承の面目が最も躍如しているのは、〝力〟担当のタヂカラオが必ずしもぶっちぎりのヒーローではなく、オモイカネの〝頭脳〟によってきちっと制御されているところ。タヂカラオの〝力〟が岩戸をぶっ壊すとか、敵を皆殺しにするといった〝破壊〟の方向で用いられるのではなく、アマテラスが岩戸を少し開けるその力を利用・拡大する方向で用いられているのは、感動的ですらあります。ここには敵の力を利用・拡大することで敵の暴力を封じる武道:合気道、居合道、柔道と同じコンセプトを見いだすことも出来ます。
 さらに言うなら、その力を行使するに先立って、相手の側に同じ方向のモチベーションを与えている点も見逃せません。岩戸を無理やりこじ開けるのではなく、初動は相手から引き出しているのです。しかも、アマテラスを騙したり恐怖を与えたりして岩戸を開かせようとするのではなく、「見たい・聞きたい・知りたい」という積極的な動機を与えることで意図を実現しようとします。
 相手のポジティブな動機を初動で引き出すというのは、教育の分野にも何やら示唆を与えているようにも感じますが、この「岩戸伝説」がそんな〝優等生〟的な話で終わらないのはむしろ痛快です。なにしろ、そのモチベーションはアメノウズメの〝コミカル&セクシーダンス(渡辺直美のビヨンセコピー的な)〟によって引き出されているのですから。お下劣全開パフォーマンスで太陽神を呼び戻したのは、世界広しといえども、我々の神様たちにしか出来ない離れ業だったに違いありません。このユーモアと深さは、相当かっ飛ばしていると言えないでしょうか。
 危機を克服するにあたって、「智」と「力」が求められるのは誰でも分かります。が、ここでアメノウズメにセクシーダンスを踊らせる「楽」の要素を重要な軸、突破口として据えているのが、この伝承の、ひいては日本神話の豊かさでもあるのでしょう。
 皆が眉根を寄せて深刻に考え込むのではなく、〝高尚〟とは程遠いどんちゃん騒ぎを本気でやって見せる、しかも太陽が隠れた暗闇の中、皆でそれをやるというところに、〝ユーモア〟を越えたぶっちぎりの〝深さ〟や〝タフネス〟が炸裂しています。

 翻って、現在のコロナ禍。

 〝コロナ〟は言うまでもなく太陽になぞらえたネーミングです。ベクトルは逆ですが、現在の我々は、岩戸の前で困り果てていた神様たちと同じ状況にあるのかもしれません。そう考えれば、今の我々に足りないものが何なのか、ちょっと見えてくるような気もします。
 オモイカネは今でもいるのでしょう。タヂカラオもいるのでしょう。
 では、アメノウズメはどうでしょうか。彼女を躍らせ、皆でそれを囃し立てる豊かさとタフネスが、今の我々にあるでしょうか。
 力ずくでねじ伏せてしまうのではなく、状況を逆手にとって事態を好転させる智慧。ピンチの中でも、むしろピンチだからこそ炸裂させるユーモアとテンション。今の我々に必要なのは、案外こうしたものかも知れません。
 「天の岩戸伝説」を継承する民族としては、こうした視点は見直してみていいと思います。今の我々が生きているのは、
「ミッションIWATO:~危機はみんなで乗り越えろ!~」
のリアルな物語だったりするのですから。
 「第一章:アメノウズメ、カムバック!」
そろそろキャスティングに入っても良いのでは?

        終


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