傷だらけの猫
文字数 2,814文字
路地裏でその猫と出会ったとき、わたしはどうしようと、とまどってしまった。
猫はわたしを見上げて言った。
「なに見てンの、オイラのことがそんなに気になるの?ごらんのとおり、足は不自由だよ。尻尾もちょん切れているし、耳もかけちゃったし、おまけに片目はつぶれて見えないよ。でもね、オイラはちっとも不幸じゃないからね。反対に幸せすぎて、困っているぐらいだから、心配ご無用さ。じゃあネ」
でも、わたしは見過ごせなかった。
猫はキッと振り向いた。
「大丈夫。心配ご無用って言っただろ。ついてこないで」
「そんなひどい傷、ほっとけないわ。お医者さんにつれていってあげる」
「お医者さん?」
猫は不思議そうに首をかしげ、ひょいと近くのポストにとびのった。
「ねえ、ぼくのからだをよく見て」と、顔をよせてきた。
「さわってもいい?」
「かまわないよ、治っているから」
その猫は、そばで見ると、目やにもなく、毛つやもつやつやとしていたが、不自由なからだは残った。
そう思うと悲しくて、おもわずわたしはつぶやいていた。
「ひどいことを、ゆるせない」
「だれに怒っているの?」
「あなたをこんな風にした、だれかよ」
「気持ちはうれしいけれど、ちがうよ」
「エッ、ちがうって」
「オイラは今でも変な目で眺められたり、石を投げつけられたりもするのさ。でも君はちがうみたいだ。時間はある?」
「だいじょうぶだよ」
「じゃあ、オイラは君のためにも、この傷のことを話さなくちゃいけない」
わたしたちは近くの土管の上に座った。
猫はそこで丸まるとポツリポツリと話しはじめた。
「きょねんの春さきごろかな。その日、オイラは朝からなんにも食べてなくてフラフラさ。ようやくたどり着いたのが、となり街のコンビニ前に、から揚げが一個落っこちていた。オイラは夢中でかけよったね。その時のことさ。とつぜん、ブチ猫があらわれてオイラの耳たぶを思いっきりかんだのさ!
「イタッ、それはオイラの耳だよ、から揚げじゃない!」
「なに言ってるの!ここはわたしのなわばりよ、出ていって!」
なわばりあらしは泥棒とおんなじさ。オイラは尻尾をまるめてすごすごと退散した。
公園のベンチの下にうずくまっても、かまれた耳が燃えるように痛くって、じっとしていられない。這い出ようとした、その時「ゴン!」火花がちって、目の前がまっくらになった。
子どもたちが近寄ってきた。
「野球ボールが当たっちゃった!」
「猫チャン、ごめんな!」
「アッ、この猫、耳からも血が出ているよ、大丈夫かな?」
その手がオイラの耳にふれた。
「ナゥン!」
針で突かれたような、痛みが走って飛びのいたしゅんかんベンチの角に頭をぶつけ、オイラはヨタヨタと公園の外に飛び出した。
耳はちぎれそうで、片目でぼんやりとしか見えないのに、オイラは道路を渡ろうとした。
「キイイ~!」
急ブレーキの音がした!
「ギャウン!」
オイラはつんのめってそのまま道路にころがった。
起き上がろうとしたけれど、尻尾もうしろ足もまったく動かない。
ああ、オイラはこのまま死んでしまうかもしれない。
いいことなんてなにもなかったな…
オイラは気を失ってしまった。
そうだよ。たった一日で傷だらけの猫になっちゃった。
でも、今は幸せだよ。
毎日おなかいっぱいだし、毛づやだって、このとおり、ピカピカだろ。
どうしてかって?ついてくるといいよ。
ついたよ。この新聞屋さんがオイラのすみかさ。
傷だらけで死にそうだったオイラが、幸せになれたのはぜんぶここの家族のおかげさ。
さあ、入って。
ここのご主人さまは、あの日オイラとしょうとつしたオートバイの人さ。
ご主人さまはね、死にかけたオイラを新聞紙でくるんで病院に運び、そのまま家に引き取ってくれたんだよ。
そう、命を救ってくれたオイラのご主人さまさ。
人に抱かれたのもご主人さまが初めてだった。
野良猫だったころはなにも悪いことしてないのに、石ころ投げつけられたりしていたからね。
でもご主人さまの腕の中はね、新聞紙の匂いがして安心なのさ。
だからオイラ、すぐに眠くなってしまうんだ。
ここの息子さんは野球がだいすきでね、あの日も公園で遊んでいて、打ち損じたボールがぐうぜんオイラの目にあたってしまったのさ。
そう、ゴメンネってあやまったやさしい子だよ。
学校からかえると、野球ボールを転がしてオイラと遊んでくれるんだ。
オイラは必死でボールを捕まえようとするんだけど、大きくて、すべってまったく歯が立たないのさ。
でも、息子さんが止めるまでオイラもあきらめない。
だって楽しいもの。
そうそう、その息子さんがね、オイラに名前をつけてくれたんだ。
だから、オイラはもう野良猫じゃない。
名前はね、グダっていうのさ。
さあ、どんな意味なのかはしらないよ。
でもね、息子さんが時々「グダグダするな!」ってご主人から言われている。
だからきっと、だいじな言葉だと思うんだ。グダって。
この前久々に出かけたら、いじわるな野良猫に出会ったんだ。
どうしたと思う?
オイラはドンとふんばって叫んだ。
「傷だらけになっても、あきらめない不死身のグダとはオイラのことだ!」
そう叫んで、片目でにらみつけてやったのさ。
そしたらスゴスゴと道をあけてくれたよ。
名前があると勇気がでるんだね。
オイラ知らなかった。
エッ、もう帰るの?
まだ、話はおわってないよ。
ついてきて、ついてきて。二階だよ。
見て、見て!かわいいだろう。
先週生まれて、やっと目が開いたばかりだよ。
オイラの血を引いているのは、耳が長いほうで、短いのは、彼女さ。
そうオイラ、結婚したんだ。
アッ、帰ってきた。
オイラのお嫁さんで、名前はチョコだよ。
そう、あの日、コンビニ前でオイラの耳をかんだブチ猫はここの猫だったのさ。
傷だらけのオイラがここで彼女とはちあわせた時、生きた心地がしなかった。
だって、なわばりどころかここは、彼女のすみかだもの。
ところが、彼女は何も言わなかった。
そればかりか、オイラの傷をなんどもなんどもやさしく、なめてくれたんだ。
オイラ、生まれてはじめて泣いちゃった。
片目なのにさ、涙がいっぱい出ちゃったよ…
そんなオイラの命を救ってくれたご主人さまのために、店先のオートバイや新聞紙の見張り番をしようとしてもね、オイラすぐにねむってしまうのさ。だからだめなんだ。
帰るの?今日君にうちあけてオイラ、すっきりしたよ。
この傷だらけの身体はね、野良猫のくせに我慢も耐えることもできずウロチョロしてしまったなさけないオイラのしるしさ…じゃあ、また遊びに来て。きっとだよ!」
わたしはグダを見つめた。
「グダ。あなたは、傷だらけの猫じゃないわね……」
グダはニカッと笑って丸くなった。
おわり
猫はわたしを見上げて言った。
「なに見てンの、オイラのことがそんなに気になるの?ごらんのとおり、足は不自由だよ。尻尾もちょん切れているし、耳もかけちゃったし、おまけに片目はつぶれて見えないよ。でもね、オイラはちっとも不幸じゃないからね。反対に幸せすぎて、困っているぐらいだから、心配ご無用さ。じゃあネ」
でも、わたしは見過ごせなかった。
猫はキッと振り向いた。
「大丈夫。心配ご無用って言っただろ。ついてこないで」
「そんなひどい傷、ほっとけないわ。お医者さんにつれていってあげる」
「お医者さん?」
猫は不思議そうに首をかしげ、ひょいと近くのポストにとびのった。
「ねえ、ぼくのからだをよく見て」と、顔をよせてきた。
「さわってもいい?」
「かまわないよ、治っているから」
その猫は、そばで見ると、目やにもなく、毛つやもつやつやとしていたが、不自由なからだは残った。
そう思うと悲しくて、おもわずわたしはつぶやいていた。
「ひどいことを、ゆるせない」
「だれに怒っているの?」
「あなたをこんな風にした、だれかよ」
「気持ちはうれしいけれど、ちがうよ」
「エッ、ちがうって」
「オイラは今でも変な目で眺められたり、石を投げつけられたりもするのさ。でも君はちがうみたいだ。時間はある?」
「だいじょうぶだよ」
「じゃあ、オイラは君のためにも、この傷のことを話さなくちゃいけない」
わたしたちは近くの土管の上に座った。
猫はそこで丸まるとポツリポツリと話しはじめた。
「きょねんの春さきごろかな。その日、オイラは朝からなんにも食べてなくてフラフラさ。ようやくたどり着いたのが、となり街のコンビニ前に、から揚げが一個落っこちていた。オイラは夢中でかけよったね。その時のことさ。とつぜん、ブチ猫があらわれてオイラの耳たぶを思いっきりかんだのさ!
「イタッ、それはオイラの耳だよ、から揚げじゃない!」
「なに言ってるの!ここはわたしのなわばりよ、出ていって!」
なわばりあらしは泥棒とおんなじさ。オイラは尻尾をまるめてすごすごと退散した。
公園のベンチの下にうずくまっても、かまれた耳が燃えるように痛くって、じっとしていられない。這い出ようとした、その時「ゴン!」火花がちって、目の前がまっくらになった。
子どもたちが近寄ってきた。
「野球ボールが当たっちゃった!」
「猫チャン、ごめんな!」
「アッ、この猫、耳からも血が出ているよ、大丈夫かな?」
その手がオイラの耳にふれた。
「ナゥン!」
針で突かれたような、痛みが走って飛びのいたしゅんかんベンチの角に頭をぶつけ、オイラはヨタヨタと公園の外に飛び出した。
耳はちぎれそうで、片目でぼんやりとしか見えないのに、オイラは道路を渡ろうとした。
「キイイ~!」
急ブレーキの音がした!
「ギャウン!」
オイラはつんのめってそのまま道路にころがった。
起き上がろうとしたけれど、尻尾もうしろ足もまったく動かない。
ああ、オイラはこのまま死んでしまうかもしれない。
いいことなんてなにもなかったな…
オイラは気を失ってしまった。
そうだよ。たった一日で傷だらけの猫になっちゃった。
でも、今は幸せだよ。
毎日おなかいっぱいだし、毛づやだって、このとおり、ピカピカだろ。
どうしてかって?ついてくるといいよ。
ついたよ。この新聞屋さんがオイラのすみかさ。
傷だらけで死にそうだったオイラが、幸せになれたのはぜんぶここの家族のおかげさ。
さあ、入って。
ここのご主人さまは、あの日オイラとしょうとつしたオートバイの人さ。
ご主人さまはね、死にかけたオイラを新聞紙でくるんで病院に運び、そのまま家に引き取ってくれたんだよ。
そう、命を救ってくれたオイラのご主人さまさ。
人に抱かれたのもご主人さまが初めてだった。
野良猫だったころはなにも悪いことしてないのに、石ころ投げつけられたりしていたからね。
でもご主人さまの腕の中はね、新聞紙の匂いがして安心なのさ。
だからオイラ、すぐに眠くなってしまうんだ。
ここの息子さんは野球がだいすきでね、あの日も公園で遊んでいて、打ち損じたボールがぐうぜんオイラの目にあたってしまったのさ。
そう、ゴメンネってあやまったやさしい子だよ。
学校からかえると、野球ボールを転がしてオイラと遊んでくれるんだ。
オイラは必死でボールを捕まえようとするんだけど、大きくて、すべってまったく歯が立たないのさ。
でも、息子さんが止めるまでオイラもあきらめない。
だって楽しいもの。
そうそう、その息子さんがね、オイラに名前をつけてくれたんだ。
だから、オイラはもう野良猫じゃない。
名前はね、グダっていうのさ。
さあ、どんな意味なのかはしらないよ。
でもね、息子さんが時々「グダグダするな!」ってご主人から言われている。
だからきっと、だいじな言葉だと思うんだ。グダって。
この前久々に出かけたら、いじわるな野良猫に出会ったんだ。
どうしたと思う?
オイラはドンとふんばって叫んだ。
「傷だらけになっても、あきらめない不死身のグダとはオイラのことだ!」
そう叫んで、片目でにらみつけてやったのさ。
そしたらスゴスゴと道をあけてくれたよ。
名前があると勇気がでるんだね。
オイラ知らなかった。
エッ、もう帰るの?
まだ、話はおわってないよ。
ついてきて、ついてきて。二階だよ。
見て、見て!かわいいだろう。
先週生まれて、やっと目が開いたばかりだよ。
オイラの血を引いているのは、耳が長いほうで、短いのは、彼女さ。
そうオイラ、結婚したんだ。
アッ、帰ってきた。
オイラのお嫁さんで、名前はチョコだよ。
そう、あの日、コンビニ前でオイラの耳をかんだブチ猫はここの猫だったのさ。
傷だらけのオイラがここで彼女とはちあわせた時、生きた心地がしなかった。
だって、なわばりどころかここは、彼女のすみかだもの。
ところが、彼女は何も言わなかった。
そればかりか、オイラの傷をなんどもなんどもやさしく、なめてくれたんだ。
オイラ、生まれてはじめて泣いちゃった。
片目なのにさ、涙がいっぱい出ちゃったよ…
そんなオイラの命を救ってくれたご主人さまのために、店先のオートバイや新聞紙の見張り番をしようとしてもね、オイラすぐにねむってしまうのさ。だからだめなんだ。
帰るの?今日君にうちあけてオイラ、すっきりしたよ。
この傷だらけの身体はね、野良猫のくせに我慢も耐えることもできずウロチョロしてしまったなさけないオイラのしるしさ…じゃあ、また遊びに来て。きっとだよ!」
わたしはグダを見つめた。
「グダ。あなたは、傷だらけの猫じゃないわね……」
グダはニカッと笑って丸くなった。
おわり