文字数 2,913文字

 彼氏、と呼ぶにはいっしょにいる時間が長すぎるような。
 マンションの一室。部屋は三つ。リビング、寝室、彼の部屋。籍は入れていない、はず。少なくとも私は役所に行ってない。同棲が始まったときは、それはもうワクワクで、段ボールに洋服を入れているあいだは、ずっと鼻歌をふんふんと鳴らしてね。母は気味悪がり、妹はニヤニヤ。そうして引っ越して、彼といっしょに生活することになってから、あぁ、どうなっちゃうの私、なんて、頭の中であれこれと想像を膨らませてさ。名前がダメだね。同棲って。おうちデートなんて言葉がボロボロになるくらい二人で過ごしたし、彼とソファで手をつなぐことに心は何も感じてなかったはずなのに。同棲って言葉のせいで、すっかり意識しちゃってさ、トイレにいてもダメなのよ。ずっとドキドキ、ドキドキ。心臓が破裂しそうって意味が分かったわ。死んだ方がマシだぁって本気で思ったもの。心地いいの。酔いに近いわ。でも違う。おもちゃ屋さんでさ、欲しくて欲しくてたまらなかったものを手に取って、レジに向かっている間の、あの高揚感よ。そんな気持ちを抱えてたのに、彼は気づきもしない。あー、うー、乳児みたいに唸ってさ、イスに腰かけて面白くなさそうに本を読んで、それ面白いって聞いても、またあー、うー。それから立ち上がったと思ったら、おやすみ。それだけよ。信じられる?これが初日。どこを探せばこんな一日目を迎えるカップルがいるのよ。
 それでも私はロマンチストね。うっとり、ドキドキ。ソファに横たわって、体の火照りを感じながら、頬に手を沿えるとあつくて火傷しそうなくらいだったわ。なにがおやすみ、よ。寝れるものですか。あくびも出ない。ずーっとクッションを顔に当てて、口角が上がるのを抑えてたんだから。
 これが一か月前。習慣になるのは一か月からってね。すっかり慣れてしまったわ。いえ、どちらかと言ったら、冷めてしまった、のほうが適切かもしれない。それも隣人のせいよ。
 隣に引っ越してきました、って挨拶するためにインターホン押して、はーいって聞こえてきたのは温厚な声だったわ。じっさい、ドアを開けて顔を出したのは柔和なおばあちゃんだったわ。悪意も知らないような。自分で淹れたお茶をすすりながら縁側でひなたぼっこするのが似合うだろうね。さすがに彼も最低限のマナーは身につけているのか、これ粗品ですって菓子折りを渡して。そしたらおばあちゃんは嬉しそうにはにかんで、ちょっと待ってねぇ、と奥へ消えたかと思うと、いっぱいの果物を手に持って、
「いくらでも持っていきなさいな、これからも、どうぞよろしくねぇ」
 嬉しさよりも、安心感がさきにきたよ。あー良かった。挨拶のしかたは間違ってなかったんだって。初めてだったんだもん。今までは実家暮らしだし。受け取るべきなのか、迷っていたら、ありがとうございますって彼がわたしの前にでておばあちゃんから果物を全て取って、
「二人で美味しくいただきます」
 軽く会釈してから微笑していたの。もう呆気にとられちゃって。あれ、こんな人だっけって。それから二人で軽く談笑してたけど、私は加わることができなくて、ただジッと二人の会話を聞いてだけだった。少しして、それでは私たちはこれで、って彼がわたしの肩に左手を乗せながら、笑いで震えた声でそう言ってから、また小さくお辞儀。
「いい夫婦ね」
 おばあちゃんはわが子のように嬉しそうにそう言ったの。わたしは口を開けて、まだ結婚はしていません。そう言おうと思ったら、肩に違和感を抱いてね。彼が左手に力を加えていたの。痛くならないくらい、でもはっきりと。わたしは言葉が出なくてさ、それで彼の方を見ると、彼は微笑んだまま何も言わなかったわ。
 部屋に戻って、あぁ、言ってやらなきゃ、そう思ってると、
「ちょっと眠いから」
 玄関のドアが閉まると同時に、彼は低い声で、それから、桃や梨を冷蔵庫に入れて、リンゴやバナナをテーブルに置いたら、スタスタと自分の部屋に戻っていって、それっきり静寂。
 訂正しなきゃ。誤解してるままだし。そんな機会、訪れることはなかったわ。会わなかったわけじゃない。毎日、顔を合わせてるもの。
「あら奥さん、おはようございますぅ」
「ねぇ奥さん、聞いてくださいよ。いやね、この前——」
「あらまあ奥さん、おかえりなさい」
 なんて、あいさつよりも先に言うものだから、初めの熱意はどこへやら、だんだんと言い直させるのも億劫に感じてきて、一週間もすれば、はいぃ、わたしが奥さんですぅ、って言いたくなるくらい。それくらいおばあちゃんから聞かされたんだもの。
 隣人のせいって、間違ってるかも。だって、どこからどう見てもおばあちゃん、完璧じゃない。将来の自分の理想像、なんて課題があったら、隣に住んでるおばあちゃんって答えるね。それくらい完璧。でも、そうじゃないの。自分の考え方が冷え切っちゃったの。
 奥さん、奥さん。最初は心地よかったわ。違う自分がそこにいる気分だったの。中学生になって、初めて制服に袖を通した時のような、一つ成長したんだって、自分を誇りに思える。そんな優越感。けれど、自分は奥さんなんだって、彼の妻なんだって、そう思ったら、同棲って言葉が何にも響いてこなくなったの。小学生までしか、制服に憧れが持てない。中学生がランドセルって言葉に対して、なんにも響いてこない。それと同じことよ。やだな、成長って。寂しいわ。卑屈かしら。けれど、そんな考えが頭によぎってから、初日のような気分にはならなくなったわ。頬もさくら色に火照らない。心臓なんて平穏そのもの。
 それで、思いだしたの。わたし言ったじゃない。欲しくてたまらなかったものを手に持ちながらレジへ向かう時の気分って。欲しかったのってたまごっちだった。帰り道、車内で引っ越しの準備の時のように鼻歌を口ずさんで、死んでも手放すものですかって、そんな心意義を胸に秘めながら、翌朝、早く帰ってたまごっちやりたい、そんな気持ちのまま登校して、教室で友達にたまごっち買ってもらったって自慢したのよ。すると、みんなクスクス笑ってさ、どうしたのって聞いたら、みんな持ってたのよ。そりゃそうでしょって。当時すっごく流行ってたもの。帰ったら、公園で見せ合いっこしよ。あたしのくちぱっちすっごくかわいいんだから。なによ、あたしだって。和気あいあい。キャッキャウフフ。わたし、憶えてる。あれから、すぐにたまごっちは辞めた。一週間かそこらで。育ててたまめっち死んじゃったって。そんなことを言い訳にして。
 みんなが持ってたから、わたしは辞めたのかもしれない。それとも、本当にまめっちが亡くなったのが悲しかったのかも。思いだせない。もっとどうでもいい理由だったかも。それでも、どうして同棲って言葉でワクワクできたのかは理解できた。冷めてしまった理由も。自分の心に秘めてたからだ。わたしだけが味わえていたから。あぁ、しまった。手遅れ。奥さん、拾っちゃった。おばあちゃんが渡してきた「奥さん」っていう言葉、受け取っちゃった。秘密を投げ捨てて。ポケットにちゃんと入れとけばよかった。
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