第1話

文字数 11,064文字

「で、鹿乃子(かのこ)、正直なところ、どうなの?」
「どうって?」
 杏華(きょうか)の言わんとしていることの見当はついているものの、もう何度目か数えるのも面倒くさい問いかけに、私はお弁当のチキンナゲットを口へ運びつつ適当に返した。昼休みが終わるまであと二十分。五時間目の授業は宿題のない生物だし、このやりとりから逃れる術は、経験上、残されていない。
「小田くんのことに決まってるじゃん」
 にやにやという擬音がぴったりな、杏華の顔。はいはい、待ってました。
 半ばヤケになりつつ、私は口も滑らかにお決まりの台詞を口にした。
「アキは友達」
「……で?」
「うん?」
「そのこころは?」
「ないよ。友達は友達」
 この国には、性別の違う人間が二人セットでいると、そこに恋愛関係を証明しようとする厄介な性質がある。もしかしたらほかの国でもそうなのかもしれないけど、日本生まれ日本育ちの私に検証する方法はないから、とりあえず日本に限っておく。とにかく、高校に入学してからというもの、それは私の周りで顕著になり、私の友人の杏華は、アキこと小田秋と私の関係を勘繰ることに、なぜか執念を燃やしている。
「あ、ほら小田くん。ひとりでお昼なんて、クールだねえ」
 アキは、杏華のはしゃいだ声をびしゃびしゃに浴びせられている私とは対照的に、嘘みたいに涼しげな仕草でお弁当のふたを開けた。

 アキは小学五年のとき、転校生として私のクラスにやってきた。
 同じ年頃の子の中では静かで大人びていたアキは転校生加点満点で、すぐにクラス中の子たちに囲まれた。かくいう私も、久しぶりの転校生を物珍しく見ていたひとりだった。
 けれど、誰に対しても平等に歯に衣着せないタイプだったアキは、敵を作るのも異常に早かった。「ちょっと目立つ転校生」は、電光石火の勢いで、その日のうちに「変なやつ」に称号を変えていた。
 仲よくなったのは、たまたまだった。
 アキが転校してきてから二週間くらい経ったころ、予定外れの大雨が降った日のこと。
 私は、何日か前に置き忘れた傘を学校に置いたままだった。
 生徒玄関には親のお迎えを待つ子や私のようにたまたま傘を持っていた子が行き交っていた。そのなかで、アキは雨を睨むように、ただまっすぐ前を見て立っていた。
 私は、いつも一緒に帰っていた子たちがお迎えでひとりだったのもあって、特に深い意味もなく、アキに声をかけた。
 アキ一家が越してきたのが私の住むマンションと同じことは、お母さんに聞いて知っていた。そこは学区の一番端で学校からはかなり距離があり、とても濡れて帰れる距離ではなかった。
 アキはかなり怪訝そうな顔をしたけれど、雨脚の強さと私の傘を交互に見て、おとなしく傘へ収まった。
「いいかげんであることにも、いい面があるんだな」
 傘を持っているいきさつを話した私に、歩き始めてからずっと黙っていたアキがやっと口を開いたときの言葉が、これだった。
 最初はむっとしたけれど、「ああ、ごめん。変な意味じゃなくて」と続けたアキの感心したような顔と言葉におかしくなって、胸にわいた怒りはすぐに消えてなくなった。
 雨降りというのがよかったんだと思う。その日の雨はよくもわるくもすごく強くて、周りから独立した空間を傘の中に作った。
 それほど大きくはない赤い傘の中は、不思議と静かだった。今話すことはここ限りで、誰にも聞かれないしどこにも漏れない。別にそう誓いあったわけじゃないけど、私もアキも、確かにそんな感覚を共有していた。
 アキは話してみると、理屈っぽいけれど、なんとも潔い人間だった。
 変わりものだし、はっきりしすぎる物言いは、いやな感じに聞こえることもある。だけど、決して相手を下に見ているわけではなくて、本心を隠す術を、黙る以外に知らないみたいな不器用さがあった。
 アキの声は降る雨にふさわしくまっすぐで透きとおり、その嘘のなさに、私もいつのまにか普段だれにも言わないような話をしていた。
 アキは私がなにを話しても別段変わった反応を見せるでもなく、私の話をただ聞いていた。本当に、ただただ聞いていた。
 傘をすり抜けて足元を打つ雨にズボンはぐっしょり色を濃くしていたけれど、帰るあいだ、気になることはなかった。
「『小田くん』って、差別的だと思わない?」
 マンションに着いて傘をたたんでいたとき、唐突にアキが言った。
「いつもそうなんだ。鈴木、武田、吉本、佐々木、小林、剛田……小田くん。差別的だろう」
 至極真面目な顔に不意を突かれて、思わず吹き出した。やばい、と思ったけれどアキはそんな私を怒ることはなく、それどころか、むっとしてすらいなかった。ただ凛と、梅雨明けの空みたいに澄んだ目がまっすぐ私を映していて、その日から、転校生の小田くんは、アキになった。
 アキは私にとって、いわゆるそういう相手ではない。アキにはなんでも話すし、家族でも知らないようなことでも、アキだけは知っている。けれど恋人や好きな人なんかじゃもちろんないし、親友なんてベタベタすかすかした関係でもない。幼なじみというのも違う。
 アキはアキで、私は私。アキと私の関係を表す言葉を探すなら、「アキと私」、それ以外しっくりこないし、見当たらなかった。だけどこれを他人に理解してもらうのは、教科書を何冊も丸暗記するより、よっぽど難しいらしかった。

「放っとけばいいんじゃない」
「放っておきたいよ私も……。でもほぼ毎日だよ? もう、なんでそんな他人の関係にこだわるかな。どうでもよくない?」
「俺はどうでもいい」
「だよね」
 アキの家のリビングテーブルにごろりと突っ伏して、今日の水掛け論をぐちぐちとこぼす。アキの家は父子家庭で、仕事の忙しいお父さんは遅くまで帰らない。だから、アキが夕飯を作っているあいだ、私はよくこうしてアキの家に入り浸っていた。子どものころはエントランスや非常階段でできた話も、高校生にもなると目立ってしょうがない。このことはうちの親もアキのお父さんも知っているし、三階の私の家と一階のアキの家を行ったりきたりするだけだから、そこまで遅くならなければ問題はない。まあうちの親に関してはアキを秘密の彼氏だと思っているかもしれないけど、面倒だから、そこにはあえて触れないでいる。
「そんなに厄介な人なら関わらなければいいんじゃないの」
「や、それもちょっと違うっていうか。わるい子ってわけじゃないの、一緒にいて楽しいし。ちょっとおせっかいで噂好きなだけで……女子って恋バナ好きなものだし」
「めんどくさ」
 そう、女子は面倒くさい。だけどそれが女子なのだ。私だって、恋している相手とのことならつつかれても構わないし、杏華にも喜んで話すだろう。今そういう相手がいないだけで、恋バナがきらいってわけじゃない。まあそのときにはもちろん、アキにも話すけど。
 テーブルに突っ伏しているのにも飽きて台所に立つアキのそばへ寄ると、アキはみっつ目のじゃがいもの皮を剥いているところだった。器用にじゃがいもを動かして、まるでひとりでに剥けていくみたいに包丁を添わせていく。アキの手にかかった一糸まとわぬ姿のいもたちも、心なしか誇らしそうに見えた。
 じゃがいもに注がれるアキの目は、まるで読書でもしているみたいに涼やかで、さっぱりとした切れ長のそれを二重まぶたが優しく装飾している。伸びた背のせいかニキビひとつない男子高校生らしからぬきれいな肌のせいか、すべてが整って見えてにくたらしい。
 中学のころまでは、こんなふうじゃなかったのに。もっと野暮ったいっていうか、普通だった。こういうアキの見た目の変化も、最近の私を悩ませる要素のひとつだった。
「そういえば、私また言われたよ。アキ目当ての子に、小田くんと付き合ってるんですかーって」
「そうなの? 誰だか知らないけど、そもそもその人、なんで鹿乃子のところに行くんだろう。今度聞かれたら、俺に聞けって突き放しなよ」
「うーん、でもそれって、逆になんかありそうに聞こえない? マウントとってると思われても困るし」
「女子の世界は面倒だらけだな」
 一仕事終えたらしい薄茶色の瞳が、じゃがいもから離れて、ふいに私へ向く。今日のあの子みたいなアキファンの女の子なら、すとんと胸に矢が刺さったに違いない。静かな湖みたいなアキの目には、人を惹きつける魅力がある。恋か恋じゃないかの違いはあれど、アキの目と向き合うのは、私も好きだ。
「まあ俺はなんでも構わないから、その都度鹿乃子がいいように言って」
「んー、わかった」
 私は鍋で豚肉を炒め始めたアキにうなずいてみせると、そろそろ戻るねと言ってアキの家を後にした。

 杏華の恋愛脳が、私が思うよりずっと深刻なものだと知ったのは、体育祭の出場競技を決めるロングホームルームの直前だった。
 私の机の前の席に腰かけて、いつものようにありもしないアキと私の秘めたる仲を聞き出そうとしていた杏華が、突然とんでもないことを言い出したのだ。
「鹿乃子、あたし昨日先輩に、うちの高校のジンクス聞いちゃったんだ」
「ジンクス?」
「うちって、体育祭の種目に男女二人三脚があるらしいのね? それで、それに出たふたりはその後……結ばれるんだって!」
 テンション高くきゃーきゃー言っている杏華が、私の肩をばしばしと叩く。いやな予感はしたものの、こうなった杏華は止まらない。これが、杏華が好きな人とカップルになりたいなんて話なら喜んで聞くところだけど、さっきまでの流れから考えて、その可能性はかなり低い。そう思いつつも、私はとぼけた返事をした。
「杏華、二人三脚出るの?」
「違う違う、あたしじゃなくて鹿乃子が出るの。こういうのって、いいきっかけになるんじゃないかと思うんだよね。ほら、漫画とかでよくあるじゃん? 今までなんとも思ってなかった相手なのに……みたいなやつ!」
「いやー、現実はそういうんじゃないからね」
 引きつりつつやんわり否定するのに、杏華の目はおそろしく爛々としていて、私の言葉なんてまるで耳に入っていなかった。どうやら杏華は、私が何度も否定を繰り返してきたのを、意地になっていると思い込んでいるらしい。
 そんなジンクスのある二人三脚なんかに出たら、アキファンの女の子たちまで杏華と同じ思い込みをしてしまいかねない。話してみれば、もしかしたらアキだってその子たちのうちのだれかを好きになったりするかもしれないのに、これ以上変な誤解をされるのは困る。それに変に噂になったりして、アキとの関係が壊れてしまうのはもっと困るのだ。
 もうこの際、はっきり言うしかない。杏華との友情にはひびが入るかもしれないし、下手したら終わってしまうかもしれないけど、ここまできたらそれもしょうがない。
 覚悟を決めて息を吸い込むと、声にして吐き出す寸前、私のものではない静かで流麗な声が、いまだマシンガンのように話し続ける杏華の声を遮った。
「別に構わないけど、そっちのわがままを聞くんだから、こっちも条件はつけさせてもらうよ」
 吸い込んだ息をそのままに顔を上げると、私の机のすぐ横にはアキが立っていた。アキが杏華に話しかけたのなんて、入学してから初めて見たかもしれない。
 アキは子どものころと変わらず堂々と、かけらも物おじせずに、透明な目をまっすぐ杏華に向けていた。
「お、小田くん。やだなぁわがままだなんて。あたしそういうつもりじゃ……」
「じゃあおせっかい? 大きなお世話とか。まあいいよ。条件聞く気、ある?」
「は、ハイ」
 話し方そのものは威圧的なわけでもないのに、アキには妙なオーラがあって、話す相手の勢いを簡単に削いでしまう。それは相手が杏華でも変わらなかった。
「俺と鹿乃子がそれに出て、ジンクスとかいうのに関係なく体育祭が終わったら、もう鹿乃子にその話するの、終わりにして」
「へ……?」
 思わず声が漏れたのは、杏華じゃなくて私だった。アキがこんな面倒でしかないことにわざわざ首を突っ込むなんて、あまりにも意外だった。普段なら間違いなく我関せずだし、こんな取引みたいなことを言うアキは見たことがない。けれど、こうと決めたアキの目には、誰も逆らえない不思議な強さがある。杏華も、もちろん私も。
 チャイムが鳴ってロングホームルームが始まると、黒板の男女二人三脚の欄には、アキと私の名前が、アキの手で淀みなく書き込まれていった。

 全然知らなかったけど、学校行事の練習だっていうのに、いくつかの種目の練習は放課後の自主練が基本なのだという。リレーや団体種目なんかに比べてバラエティ色の強いものは、どうやら各々でということらしい。男女二人三脚もそのひとつで、放課後の前庭や校舎裏、グラウンドでは、各学年の賑やかし種目出場者が楽しそうな声をたてていた。その中から一年の青いラインが入ったジャージをピックアップして探していると、前庭の木陰の下に、制服のままのアキを見つけた。
「着替えないの?」
「むしろ鹿乃子、着替えたの?」
 ジャージ溢れる放課後の前庭に佇むアキの白いワイシャツは間違いなく浮いていたけど、本人が当然の顔をしていると、意外となんでもないように見えるから不思議だ。きゃっきゃと楽しげにはしゃぐ声が飛び交うなか、淡々と準備運動を始めたアキに倣って、私もできるだけ当たり前みたいな顔を作って隣へ並んだ。
「それにしても、アキがあんなこと言うなんて、私ちょっとびっくりした」
「なんのこと」
「これのことだよ、これ。二人三脚」
「ああ」
 丁寧な所作でアキレス腱を伸ばしながら、アキが小さくうなずく。アキが言ったことには杏華もずいぶん驚いていたけど、ロングホームルームでアキが黒板に私たちの名前を書いたときは、クラスが一瞬静まり返った。アキは基本的に静かで、おおよそ体育祭とも、こういう浮わついた種目とも結びつかない。しかも私の名前も一気に書いたものだから、注目は私にまで及んだ。まあそのあとすぐアキが、「悪魔の証明の証人、よろしく」なんて杏華に言ったから、すぐそっちの方に注目は向いたんだけど。
「鹿乃子、噴火しそうだったからね」
「え?」
「あのままにしてたら、鹿乃子、言わなくていいことまでいろいろぶちまけてただろう。俺はそれでもいいけど、あのおせっかいも鹿乃子には必要な友達らしいし……よし、始めよう」
 入念な準備運動を終えたというのに汗ひとつかいていないアキは、配られていたハチマキで自分の右足と私の左足を結ぶと、話の途中だというのに勢いよく立ち上がった。気を抜いていた私は、その反動で簡単にひっくり返った。
「あ、ごめん」
「いや、私がぼーっとしてただけ」
 アキに手を借りて起き上がると、ぴたりと左半身にアキの身体がくっついた。やっぱり、ずいぶん背が伸びたな。普段も思うけど、ここまで近くに寄ることもめったにないから、改めて実感する。記憶より遠くにあるアキの髪が、木陰から差す日に透けて眩しい。
「巻き込んじゃってごめんね」
「それは俺の台詞じゃない?」
「でも私の事情だし、この場合はアキが巻き込まれたほう」
「鹿乃子はそういうところの正しさにわりとこだわるよね」
 くすくすとアキが笑う。その顔が昔と変わらなくて、少し安心する。
「子どものころ、『困ったときはお互いさま、なにがあっても対等』って言ったのは鹿乃子だよ。鹿乃子を守るのは俺、俺を守るのは鹿乃子。だからその言い分は、正しいようで間違ってもいるわけ」
「そっか?」
「そうそう」
「でもアキが困るようなことがあったら、ちゃんと言ってね。それこそ私、守るし」
「俺は別に。小松にちょっと睨まれてるくらいで」
「え? なんで小松?」
「そりゃあいろいろと。ま、縁があればあいつにもチャンスがあるだろ。とりあえずジンクスなんて非合理的なもの、さっさと捻り潰そう」
「急に過激だなあ」
 さらりと涼しげな顔のまま物騒なことを言うアキに、今度は私が噴き出す。
 二人三脚の練習は思っていたより簡単で、いちいち声をかけたり息を合わせたりしなくても平気だった。とりとめのないことをお互いに話しながらだって、ずっと先まで、どこまでも進んでいけるようだった。

「昨日はお楽しみでしたね」
 生徒玄関をくぐるなり、私の靴箱の近くに座り込んでいた杏華が、待ってましたとばかりに駆け寄ってきた。口元には、隠せないにやつきが浮かんでいる。
「おはよう。朝っぱらからどうしたの」
「もう! とぼけなくたっていいのに!」
 あ、おはよう! とつけ加えて、杏華がきらきらと顔をほころばせる。私は頭を抱えたい気持ちを抑えて、靴箱の扉を開けた。
「昨日の自主練、教室の窓から見てたよー。いい雰囲気だったね」
「別にふつうだよ」
「あたし前に鹿乃子たちと同じ中学だった子に聞いたけど、小田くんって高校入ってすごく背伸びたし、なんかあか抜けた感じになったんでしょ? 接近戦、どきどきしなかった?」
「確かに背は伸びたけど。杏華、アキの言ったこと、ちゃんと覚えてる?」
「覚えてるよぉ。あたし悪魔の商人だし」
「証人ね、悪魔の証明の。つまり、アキも私も、目に見えない杏華の深ーい誤解を解くために、柄でもない種目に出るんだからね」
「まあ、現状はそうだね」
「いや、だから……」
「あ、やば。あたし一時間目の数学当たるんだった! 鹿乃子、早く教室行こ! 続きはまた休み時間!」
 続きどころか、話すことなんてもうずいぶん前から同じなんだけど。思いつつ、アキほど裏も表もなく端的に言葉を発せない私は、竜巻みたいな杏華に巻き上げられるようにして教室へ急ぐほかなかった。
 杏華の襲来から始まったこの日は、とにかく災難続きだった。
 アキとの契約を覚えているのかいないのか、相変わらず私とアキをくっつけることに躍起になっている様子の杏華は聞く耳を持たないし、アキファンの女の子には本当のことを教えてと涙目で迫られ、事情を話せば、それはそれでその子の友達に睨まれた。昨日アキが話題にしていた同じクラスの小松も、休み時間のたびにちらちらと私のことを見ていると思ったら、帰りしな、アキと付き合ってるのかと尋ねてきた。
 全部、一から十まで全部ノーだ。
 もともと事情を知っているはずの杏華は別にして、体育祭のジンクスとかいうのに、それほどみんなが左右されるとは思っていなかった。アキファンの子がおもしろくないかなとは思わなくもなかったけど、誤解を解くためでもあったし、事情がわかれば別段大したことのない話だとも思っていた。実際私たちは付き合っているわけではないのだから、私のことなんて無視してしまえばいい。
 アキと過ごすのは、練習するのも家で話すのも、全部楽しい。アキは本音しか言わないし、アキにはなにも取り繕う必要がない。アキといる時間が、私にとって一番自然体でいられる時間だ。それは初めて話した雨の日から、ずっと変わっていない。アキに恋人ができて、アキが困るって言ったらもちろんやめるけど、まだそういう段階でもない。私もアキもあの頃のまま変わっていないのに、ただ十六歳になったというだけで、なにがそれほどみんなの引っかかりになるんだろう。
 私はもやもやした気持ちを身体中に溜め込んだまま、放課後、スカートの下にジャージをはいて、制服のままで前庭へ向かった。
「また俺のこと言われたの?」
 やっぱり制服のままで木陰に佇んでいたアキは、私の顔を見ただけでそう言った。
「うん。なんか、いろいろうまくいかないや。思ってたより、みんなオカルト好きみたい」
 冗談めかして言うけど、こういうときアキは笑わない。二人三脚の練習をする気にはなれなくて手持ち無沙汰に木陰の芝生へ座ると、アキも私の斜め前へ腰を下ろした。
「鹿乃子、好きなやついる?」
「へ?」
 突然なんでそんなこと、と思ったけれど、アキがやけに真剣な顔をしていたから、私は素直に(かぶり)を振った。今までアキに好きな人の話をしたことはあったけど、アキの方から尋ねられたことは一度もなかった。
「そう。じゃあそのパターンはだめだな」
 顎のあたりを触りながら、ぶつぶつとアキが呟く。私はアキの考えていることがわからなくて、ただじっと、その瞳がこちらを向くのを待った。少しして、アキが顔を上げた。
「俺たちでちょっと付き合って見せたら、満足するんじゃない?」
「え……」
「そういうんじゃないって理解してもらうのが難しくても、付き合って別れましたっていうなら、さすがに納得するだろう。俺たちはそのままでいいんだし、ほらやっぱりそうだったって思わせてやれば、もうおとなしくなるんじゃないの」
 まっすぐに私の目を見るアキの目は、いつもと変わらず澄みきっていた。それなら確かに杏華は納得するかもしれない。むしろ大喜びするだろうし、すぐに別れたとしても、私を(おもんぱか)って、その後も今までみたいに言ってくることはないと思う。アキのファンやほかの人はどうかわからないけど、すぐに別れるんだから、きっとそこまでの影響はない。
 アキの言うことは、言い得ている。率直で、とても合理的。そう、そのはずだ。
「なんでそんなこと言うの」
 だけど私は、無性に腹が立って仕方なかった。裏切られたような気がした。悲しくて、やるせなくて、そんな言葉をアキの口から聞くなんて、とても耐えられなかった。
「鹿乃子」
 背中にアキの声がする。けれど、私は一度も振り返らなかった。

 寝不足で迎える朝は、頭をすっぽり太鼓の中に突っ込んだまま乱打されるみたいな感覚になるらしい。そんな小さな発見をしつつベッドで布団にうずもれていると、遠くで渇いた鉄砲みたいな音がした。
 高校の体育祭だっていうのに、わざわざ朝に開催の花火を上げるなんてなんだかおかしい気がする。小学校ならわかるけど、高校生相手にそんなふうに周知をする必要性が全く見当たらない。そんなどうでもいいことを考えながら、割れるように痛む頭を休ませようと、私はズル休み返上でおとなしく目を閉じ、再び布団を被った。
 目を開けたとき、部屋の中は真っ暗だった。昨日ほとんど眠っていなかったせいもあって、半日寝てしまっていたらしい。わずかに痛みの残る頭を持ち上げてベッドの上に座りなおすと、ローテーブルの上で黄緑の光がちかちかと点滅していた。
 ほぼ一日放置したスマートフォンには、何人かのクラスメイトからメッセージが入っていた。クラスのグループのところには小松のものもある。杏華からは個別のトークがきていて、的外れな励ましに応援系のスタンプが連打されていた。
 全部のメッセージに既読がついてしまったけれど、どうにも煩わしくて、私はどのメッセージにも返信しないまま、電源を切ってスウェットのポケットへ押し込んだ。
 着ていたTシャツを着替えると、部屋を抜け出して外へ出る。玄関にお父さんの靴がなかったから、まだ二十時にもなっていないだろう。見つかる前に、またこっそり戻ればいい。
 別にどこに行きたいわけでもなかったけれど、なんとなく、どこかへ行ってしまいたい気分だった。
 こういうとき、いつもならアキのところに行くのに。そんなことを考えていたせいか、足は自然と非常階段へ向いていた。
 最近はアキの家へ行くことが多かったから、非常階段のドアを開けるのは久しぶりだった。ギギギという鈍い音が三階の廊下に響く感じがして、どきりとする。ドアの隙間から吹き込む風は、夏のわりにさらりとしていて気持ちよかった。
 何年か前まで遊び場にしていた階段を、一段一段下りていく。こうしていると、まるで昔に戻れるような感じがした。戻れればいいのに、と思った。なにも気にしなくていい、そんな私に。そんな私たちに。
 ここまでくれば、どれくらい戻れただろう。そんなことを考えながら、二階に繋がる非常ドア前の踊り場を折れたとき、壁にもたれる人影が見えて、私は小さく悲鳴をあげた。けれど向かいの電灯に照らされたのは、私のよく知っている、凪いだ湖の瞳だった。
「なんとなく、鹿乃子がくる気がして」
 壁から身体を起こして私へ向き直り、アキは、わずかに微笑んだ。
「ごめん、今日。……その、大丈夫だった?」
「さあ? 俺は出なかったから。でも補欠の人たちが喜んでた」
「ジンクス人気、計り知れないね」
 くすりと小さく笑ったアキは、やっぱり私になにも言わなかった。
 勝手に苛立って、理不尽に怒りをぶつけて帰った私になにを言ったっていいのに、アキはただ受け止めて、私の言葉を待つ。私が言っても、言わなくても。
「……アキ」
 だから私は、アキになんでも聞いてほしくなる。
「私……昨日ね。なんか、悲しくなっちゃったんだ。私が大事にしてること、ずっと……大事にしてきたこと、アキにとってはなんでもないことだったのかもって。悲しくて、なんか、腹までたっちゃって。私のためにしてくれた提案なのにね。勝手だし、無神経だし……ごめん」
 目を伏せたまま声にのせた素直な気持ちは、思うよりずっと弱々しい声になった。
 アキはいつまでもアキのまま、私は、私のまま。「アキと私」は揺らぎはしないのだと、いつだって、アキだけにはわかっていてほしかった。
「無神経? 鹿乃子が?」
「え、……うん」
「ぬるいでしょ。無神経さなら、俺の方がずっと手練れだし」
 真顔で言うアキに、一瞬あっけにとられる。けれどしれっとしたままの顔を見ていると無性にお腹の底がむずむずしてきて、堪えきれず、ブッと盛大に噴き出した。
 しばらくケラケラと笑い合い、それが収まると、私たちはもうなにも話さなかった。
 いつもはくだらないことだってなんだって言葉にし合うのに、その夜はただ並んで壁にもたれて、雲がかかって星すら見えない空を一緒に見て過ごした。飽きることなく、ずっとずっとそうしていた。初めて一緒に帰った小学生のあの日の傘の中みたいに、なにもかもが通じ合ってるって、なんの根拠もなく、そう思えた。
「私、話してみようかな、ちゃんと、杏華に。ごまかしたりしないで、本当のアキと私はこうなんだって」
「鹿乃子が思うなら、それが正解だよ」
「そうかな? でもアキが言うと、そんな気がしてくる」
 家を出るとき切ったスマホの電源を、再び入れる。メッセージがいくつか増えていたけど、開かずに、私は杏華のページを開いて電話のマークをタップした。アキは私が杏華と通話しているあいだ、何も言わず、私の様子を窺うこともなく、ずっと私の左手を握っていてくれた。
 アキには不思議なパワーがある。大丈夫、鹿乃子ならできる。そう言われているみたいに、手だけじゃなくて、身体中を支えてもらっているみたいに、安心感にすっぽりと包まれる。
「完全にわかってくれたかはわかんないけど、真剣さは伝わったと思う」
「いいんじゃない。ものごとは誠意が大事だから」
「よくいう」
 私が笑うと、アキの表情が、少しだけ和らいだように見えた。
「いつもより遅いし、家まで送る」
「ありがと。まあ十メートルもないけどね」
 揃って腰を上げると、ちょうど少し雲が切れて、あたりはぼんやりと明るくなった。
「ね、アキ」
「ん?」
「やっぱり私、アキとは二人三脚じゃしっくりこないや。それぞれ、足は二本ずつがいい」
 少し欠けた月の明かりが、非常階段へまっすぐに差し込む。
 階段の上で振り返るとアキの静かな双眸がやわらかく細められ、そのガラス玉の瞳に、月明かりが優しく揺れた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み