人間伝

文字数 4,023文字

 これはそう昔の話ではない。その人は、裕福といえないまでも、貧苦を感じることなく育った。高校までを公立校で過ごしたが、大学では私立へ進んだ。これは第一志望の国立大学を、高望みしすぎたためでもある。そこで学問に励み、修士課程へ進学し、博士課程に至ったが、急に学問に打ち込むのが馬鹿馬鹿しく感じられ始めた。持論では、学問とは徳の修養である。しかし、先輩の研究者を見るに、皆、不徳とまでは言わないものの、あまり上品でないように思われた。
 中途退学した後は、一人暮らしをし、人との交わりをできる限り絶って、ひたすら小説を書いた。生活費を稼ぐ程度にしかアルバイトをしなかったのは、世間から聞こえてくる労働問題、そして上司、同僚たちの俗悪さに長く付き合うよりは、自らの思う有徳な道を歩みながら、その思想を織り交ぜた作品によって、作家としての名を死後百年に遺すべきだと考えたからである。しかし文名は容易に揚らず、生活は日をおうて苦しくなる。世間はもちろん、親類からの目も厳しくなってきた。
 そのうちとうとうやりきれなくなって、労働時間を増やしたが、社会にうまく馴染めず、自分よりよほど頭が悪く、利己的で、俗物的な連中に、たとえ仕事上のこととはいえ間違いを指摘され、不愉快そうな目を向けられたのが、どれほどその人の自尊心を傷つけたか想像に難くない。もはや何ごともつまらなく感じられ始め、体にも疲労が溜まり、筆も進まなくなってきた。
 そして一年の後、遂に発狂した。或る夜半、急に顔色を変えて寝床から起き上がると、何か訳のわからぬことをぶつぶつと呟きながらそのまま家を出て、夜闇の中に駆けだした。そうして、二度と戻って来なかった。行方がわからなくなったことに気づいた両親がすぐに捜索願を出したが、なんの手掛かりもない。その後、その人がどうなったかを知る者は、誰もなかった。
 また、こちらに似たような境遇を持つ者がいる。ただ、その者は社会に膝を屈することを選んだ。だがこちらの道も容易とは言えなかった。学校で学んできたことは、社会ではなんの薬にもならない。知り合う人はみな、彼が知っていて当然と考える、あるいは当然とも頭にのぼることがないような基本的な教養すらなかった。彼は自らをエリート主義と思ったことはなかったが、大学での研究を思い出すにつけ、なぜ彼らは無教養で平気なのだろうとよく考えた。ところがこの頃は、なぜ自分は知識など身に着けてしまったのだろうと考えている。無知は幸いなり、と。
 彼は或る地に宿り、まだ暗い中に出発しようとしたところ、こんな噂を聞いた。これから先の道に、飢えて痩せこけ、傷だらけの哀れな猫がいるらしい。食べ物を持っていけば喜ぶだろう、と。
 彼は、しかし、食べ物を持たないままに早速出発した。街灯を頼りに歩いて行った時、果たして目の前を一匹の猫が横切った。猫はあわや、自動車に轢かれるところであったが、忽ち速度を上げて、がさがさと激しい音をたてて草むらの中に飛び込んだ。中から鳴き声が聞こえた後、人間の声で「危なかった。なぜああ飛ばすのだろう。制限速度を知らないのか」と疎ましそうに繰り返し呟くのが聞こえた。その声に、彼は聞き憶えがあった。彼は咄嗟に思いあたって、言った。
「その声は、我が友、李徴氏ではないか?」
 二人は大学の同輩であり、最も親しい友であった。互いに研究を行い、互いに自らの作品を批評し合うことがあった。
 草むらの中から、ためらうような声が聞こえた。「そうだ、そうだが……」
 彼は草むらに近づき、懐かしげに久闊を叙した。しかし草むらから返事はない。彼は不審に思って、何故そこから出て来てくれないんだと問うた。草中の声が答えて言う。恥ずかしいのだ。夢をなくし、学もなくし、職もなくし、家もなくした私は、今立派に社会で活躍しているであろうお前をまともに見ることもできない。だが、懐かしい友に会えたことは本当に嬉しい。できれば、どうかこのまま、かつて君の隣を歩いていた頃の自分として、話を交わしてくれないだろうか。後で考えれば不思議だったが、その時、彼は、この超自然的な怪異を、実に素直に受容れて、少しも怪しもうとしなかった。彼は見えざる声と対談した。いくつか世間話をした後、彼は、旧友がなぜ今の身となるに至ったかを訊ねた。旧友は答えて言う。
 今から一年程前、自分は将来のことを考えていた。哲学的思索を表現し、善行のための金を稼ぐのに、作家はうってつけのはずだった。だが戸外の暗闇を眺めていて、ふと思ったのだ。人はみな死ぬ運命にある、と。我々はなぜ生まれてきたのか、自分はいったい何者であるのか。そうした疑問に答えは出ないのに、これからどうなるか、つまり死ぬことだけははっきりと確かである。我々には何もわからない。全く何ごともわからない。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。自分は直ぐに死を想うた。どうせ死ぬなら、何故今死んでいけないことがあろう。自分は知らぬうちに、家の外に出て、暗闇の中に入っていた。しかし、その時、目の前を一匹の猫が駈け過ぎるのを見た途端に、自分は忽ち、すべてを悟った。――人もまた、動物なのだ。自分はまるで、自らが全能であるが如くに考えていた。いや、そうでなければならぬと考えていた。正しいことを考え、正しいことを為す義務があり、そこに向かわなければならないと考えていた。だが、自分は無意識の中でそのことに反発を感じていたのだと思い当たった。その後、自分は理想を捨て、やりたいことをやるようになったし、又、何もやらないことを覚えた。もう作品は書いていない。書く気がしないのだ。書かなくても、それで十分満たされているのだから。作家になんてなれなくても、かまわないのだ……。ところで、そうだ。ちょっと頼みたいことがある。
 彼は息をのんで、草中の声に聞き入っていた。声は続けて言う。
 他でもない。自分は元来作家として名を成す積りでいた。家に原稿がある。それはまだ、一度も人に見せたことがない。これを自分の為に読んで、面白ければ他の人に回し、読み継いでほしいのだ。何もこれによって一人前の作家面をしたいのではない。自分にはもはやそんな欲望はない。理想は捨てたのだ。そうしてほしいのは、ただ、ただ……。
 だが、それ以上先は続かなかった。
 代わりに、別れを告げなければならない、と言った。
 しかしお別れをする前にもう一つ頼みがある。それが我が両親のことだ。彼らは未だ自分の行方を探し続けているだろう。固より、ここでこうしていることなど知る筈もない。彼らには、自分が既に死んだと告げてもらえないだろうか。決してここにいることだけは明かさないでほしい。
 彼は旧友が猫となっていることを忘れて、なぜだ、会ってやればいいじゃないか、と言った。しかし返答は短い。無理だ。自分はもう誰とも会いたくないのだ。特に、自分を本当に心配してくれるような、そんな人たちとは。
 彼が意に沿いたい旨を答えると、草中の声はしかし忽ち、自嘲的な様子になった。
 本当は先ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ。自分を探す両親のことよりも、己の拙い作品の方を気にかけているような「人間」だから、こんな境遇に身を堕とすのだ。高尚そうな理屈を並べ立てて理想を捨てたふりをして、なお捨てきれない。そんな「人間」だから……。
 その人は自らが猫と化していることに気づいていない。自らに起こった怪異について、知らずにいるのだ。彼はそこで初めてそれを知った。
 そうして、附加えて言うことに、もう二度とこの道を通らないで欲しい、自分はもう誰にも会いたくないから。又、今別れてから、前方百歩の所まで来たら、此方を振りかえって見て貰いたい。自分は今の情けない姿をもう一度お目に掛けよう、ぼろぼろのこの姿を。我が醜悪な姿を示して、以って、再び此処を過ぎて自分に会おうとの気持ちを君に起こさせない為に、と。
 彼は草むらに向って、懇に別れの言葉を述べた。中からは、又、堪え得ざるが如き悲泣の声が洩れた。彼は言われた通りに、前方百歩のところで先ほどの草むらを眺めた。忽ち、一匹の猫が道に出て来た。片方の目は潰れ、毛は至るところが血で固まっている。猫は彼に向かって鳴いたかと思うと、又、元の草むらに踊り入って、再び、その姿を見なかった。

 彼は友の依頼を果たすため、友の家に向かった。しかし容易に見つからない。実家を訪ねたが、旧友の両親は彼と話をしようともしない。彼はその非礼に気がくさくさとして、近くの酒場へ行って酒を飲んだ。酒は久しぶりだった。そのせいか、あまり口に合わなかった。だが勢い、そのまま飲んでしまった。しばらく動静を伺っていたら愉快になってきた。陶然とはこんな事をいうのだろうかと思いながら、あてもなく、そこかしこと散歩するような、しないような心持でしまりのない足をいい加減に運ばせてゆく。そのうち眠くなった。寝ているのだか、歩いているのだか判然しない。前足をぐにゃりと前へ出したと思う途端ぼちゃんと音がした。
 我に帰ったときは水の上に浮いている。彼は大きな甕の中に落ちている。足が届かないが、なぜ届かないのか彼には思いもよらない。その時苦しいながら、彼はこう考えた。
 友よ、思えば私もそうだった。私にも本当は理想があったのだ。だがその理想を私は学問で育てて来たもっともらしい理屈で捨ててしまった。そうして捨てたこと自体を忘れてしまっていた。理想ばかりでは食えないが、理想がなければ生きて行かれぬ、人ではいられぬ、と。
 次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。彼は死ぬ。死んで太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。

(了)
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