第1話にして全1話

文字数 1,969文字

「ここ、座って良い?」
 私は自分のグラスを持ったまま無人の椅子の前に立って尋ねる。
「どうぞどうぞ」
「ありがと」
 と言ってその椅子に腰掛ける。

「災難だね、小阪(こさか)さん」
「ホントだよー」
「ああなったら浅井(あざい)先生長くなるから」
 そこで私と声の主が視線を向けた先では私達のゼミの担当教授である浅井先生が大森(おおもり)君としきりに何かを話している。

「小阪さん多分もう元の席に戻れないよ」
 そう、大森君が座っている席こそが私の本来の席で今私が座っている席は大森君の席なのだ。私がお手洗いに行って戻ってきたら自分の席が無くなっていた。
「先生はアイツと『芥川と谷崎どっちが優れた作家なのか』っていう不毛な議論するのが大好きだから」
「いつもこんな感じになるの?」
「先生が酔ってくると大体アイツが呼ばれてああなる。俺は巻き込まれなくて良かった」
「そうなんだ」
 そう感想を言って私は隣に座る彼にチラッと視線を走らせる。上は生成り色のアディダスのトラックジャケットに下はカーキ色のカーゴパンツを合わせていた。
「でも小阪さんがゼミの飲み会に参加するの珍しいね、初めてじゃない?」
「うーん、たまには気分転換、みたいな?」
 確かに私がゼミの飲み会に参加するのは初めてだ。毎週木曜日のゼミの後にたまに飲み会が開催されているということは知っていた。というかよく声は掛けられていた。しかし今までは少しもその飲み会に興味が湧かなかったので参加したことは無かった。
 なんだってわざわざお金を払って時間を無駄にしてこんな文学部の冴えない男と暗い女と気難しい先生と一緒にお酒を飲まなきゃいけないんだ、私は小説を読むことは好きだったけどこのゼミを取り巻く雰囲気や空気感は大嫌いだったので真剣にそう思っていた。

足達(あだち)君はいつもゼミの飲み会参加してるの?」
「俺はお酒を飲むのが好きだからね」
-私は足達君が好きだから今日来たんだよ-

 反射的にそう言ってしまいそうになるのを何とか押さえる。私がこんなろくでもない飲み会に3980円も払って参加したのは今隣でハイボールを飲んでいる足達君、足達正洋(まさひろ)君に接近するためだ。私は彼に絶賛片思い中なのだ、かれこれ2ヶ月くらい。

 ある時私がゼミの課題-「三島由紀夫の『仮面の告白』についてあなたの好きな点、嫌いな点をそれぞれ挙げなさい」という課題-をすっかり忘れていて白紙のレジュメを机に広げていたそんなある時。そんな時に限って浅井先生は「では小阪さん、小阪絵美(えみ)さんの意見を聞きましょうか」と私を指名してきて困って固まっていたら横からスッと自分のレジュメを私の前に置いてくれたのが足達君だった。
 それ以来なんとなく足達君のことを意識して観察していると彼はゼミの男子の中ではちゃんと人の目を見て会話をするし、いつも季節感のある服装をしていたし、発表の時はそれなりにユーモアを交えた発言をしていてそんな姿が段々魅力的に見えてきていつしか私は彼のことが好きになっていた。
 そこから何とか彼に近付こうといつも彼の隣に座ったりやたらと話かけたりと努力したが彼は私のことを単なるゼミ仲間の一人としか思っていないようなので私は現状を打破するためにこの場にいるのだった。

 チラッと私は自分の腕時計で時間を確認する。19時40分。18時開始の2時間制の会なので残された時間は短いが偶然とは言え彼の隣に座るチャンスが訪れて良かった。入店してから今までずっと座る席を盛大に間違えたと後悔していたのだ。
 足達君がハイボールを飲み干してジョッキをテーブルに置いたのと同時に店員さんが「熱燗お持ちしました」とお猪口と一緒にやって来る。足達君は手を挙げ空になったジョッキと交換で熱燗を受け取る。お猪口は二つあった。
「大森と飲もうと思ったけどアイツ戻ってこないよな」
 空のお猪口を見つめながら寂しそうに足達君は言った。
「じゃあ、私と飲もうよ」
 私は空のお猪口を手に取った。
「小阪さん日本酒飲める人?」
「熱燗は飲んだことないけど冷酒なら何回か飲んだことあるよ」
「やったぜ!」
 全くの嘘だ。私は生まれてこのかた漢字のお酒なんか飲んだこと無い。出たとこ勝負だ。

「あ、そうだ」
 私はおもむろにスマホを取り出して
「人生初熱燗だから記念に一緒に写真撮ろーよ」
 と言ってカメラを起動し椅子をグッと彼に近づけて二人の間に熱燗の徳利を置き「ほらほら口元にお猪口持って行って」と指示を出し私も同じようにお猪口を口元に持って行き必要以上に身体を近付けた。ここまでしても鈍感な彼は顔色一つ変えない。そのまま「ハイチーズ」と言ってシャッターを切った。
 一連の流れの間されるがままだった彼のお猪口にお酒を注ぐと、今度は彼が私のお猪口にお酒を注いでくれた。
「乾杯!」
 二人の声と杯が重なった。この瞬間は紛れもない二人のユートピアだ。

 
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