第1話

文字数 4,085文字

 旅行中という非日常にいると、いつか、日常が恋しくなってくる。それは、心情の上でもそうだが、吝嗇な自分には、なによりも物理的な面、もう少し俗にいえば金銭の面で恋しくなってくる。
 観光地値段というのは、うまく設定してあって、高価いは高価いが、財布のひもが目いっぱいキツくなるほどではない。それでいて、旅行気分にのぼせて欲しいものを片っ端からカゴに入れると、会計で肝が冷えることになる。
 その為だけではないが、壮年も早や折り返そうという自分には、ようやく分別というものができ掛かって、生来の吝嗇も高じた結果、そこらの自販機で飲み物を買うにすら躊躇するようになった。
 泊った旅館は、それと名乗るからには、鉄筋コンクリート造の四角な建屋でも、内装はいくらか和風にしてある。けれども、ホテル的なロビーもあり、ロビーの壁の一面は天竜川を望む大きな窓がとってあり、三階まで吹き抜けの天井にはシャンデリアまがいの照明までもが下がっている。和モダンとでもいうのだろうか、よくある型だが、結局このような内装が一番落ち着くのは、小市民的な感性に呆れるべきか。
 そのような館内だから、エレベーターホールの脇には自販機が設置してある。道端にあるものより細長い。見本窓は埃で曇って、その中の見本は色がぼやけて、全体として古臭い。商品は缶のビールばかりが並んでいて、ペットボトルのお茶すらない。正札だから、そこらのスーパーで買うよりも、相対的にいくらか高価い。家人が夕食でビールを追加するのにも、いちいち不快になっていた自分からは、到底出るようなものではない。
 で、コンビニへ出張することになった。くだくだしく理由を述べたが、これ以上旅館に儲けさせるのが不快になってきて、地味な憂さ晴らしをしようという気になったに過ぎない。観光地であろうとコンビニの値札は動かないし、普段目にするから、つい行きやすい。旅行に来てまでコンビニというと色気がないように思われないでもないが、ここにはもうひとつ理由があって、二十二時を過ぎている。夕食のアルコールが喉を渇かすのが、そのあたりの時刻であったのは、不幸という他ない。
 旅館であるから、両親との相部屋の押し入れには、のりの効きすぎた固い浴衣が三組揃えてある。湯上がりには、雰囲気が出るかと着てみたが、普段洋服の自分には難しく、歩くたびに下着がちらちらするのが危なっかしい。これでは、おちおち出歩けもしない。仕方がないから、着替えて行く。気安いジーパンに、パーカーを羽織る。新緑も嬉しい五月とはいえ、山間いの夜はまだまだ寒い。両手をポケットに突っ込んだまま、先に眠った両親を残し、そっと部屋を出る。
 深夜というほどでもないのに、廊下には従業員はおろか他の客の姿もない。空調の音ばかりで、無闇にしんとしている。年中点けっぱなしなのであろう電灯も淡く、自分の足音も敷き詰めの絨毯にくぐもってしまう。とにかく人の気配がない。ロビーにも、フロントにすら誰もいない。まさか、門限を過ぎたら閉め切られはしないかと、少々不安になってきた。
 広い玄関はタイル仕上げの三和土に、御影石調の上り框にはスロープもある。壁の一面は造花木やカラフルな和紙で明るく飾り付けてある。出入の大きな自動ドア越しに外を覗くと、やたらに暗い。
 さて、履き物がない。館内に収納するのか靴箱すら見当たらない。従業員に聞こうにも、先の通り姿はないし、探すにも面倒くさい。それに若干後ろめたくもある。まさか、館内にも自販機はありますが、などとは言われないであろうが、内心そう思っているのかと想像するだけで、腰が引けてしまう。吝嗇の上に小心者なのである。
 どうしようかと辺りを見回す。すると、目立たぬ片隅に、木のサンダルの小棚がある。六足ほどが、無雑作に入れてある。旅館で軽い外履きに用意されているものであろうと直感したが、判断がつかない。棚はごくごく簡素なもので、黒くすれたようなキズさえついている。従業員用とも考えられる。しかし、履き物は他にない。
 そこそこ数もあるし、すぐに戻ってくるのだから、少し借りよう、意を決して後ろを気にしつつサンダルを取る。吝嗇で小心で面倒くさがり屋なのである。
 からんからんと小気味よい音を鳴らしつつ、外へ出る。曇っているのか、月は隠れて、駐車場から割り合い暗い。こんな時に光る画面は便利で、地図を確認しつつ川の方へと道を取る。コンビニへは橋を渡って堤防沿いを川下へ行くらしい。
 車は少ない。すぐ橋へ出た。橋の上は随分明るい。街灯には、よほど強いものが使われているらしい。見下ろせば、天竜川の流れの瀬にぶつかって立つ白い飛沫までが、よく見える。このところの晴天つづきで、河原の広いわりに水は少ない。河原の乾いた丸石の、それぞれの微妙な色合いまで、見分けられる。流石に、その先にある木立までは、灯りは届かない。周りが明るいので、余計にそう見えるのか、木立は葉の一枚までが、背にした街の夜景から、空間ごと切り取られたように、黒々とくっきりしている。
 不思議なのは、歩道の隅を走っている太い金属管で、工事現場でよく見る紐状の赤色LEDが上に乗せてある。にも関わらず、金属管は所々ぼこぼこ凹んでいる。金属管のあるせいで歩道は細くなっている。自転車ですれ違いがあれば、止めて片足立ちになる時に、足をかけるのに丁度いい高さになるようだ。
 橋を過ぎたすぐの交差点を右に曲がって、川下へ向かう。道が嫌に暗い。先程まで眩しいくらいだった街灯が疎らになっている。灯りといえば、終日無人営業のコインランドリーから漏れる光と、数少ない車のヘッドライトしかない。足元が非常に見づらい。縁石で区切られた歩道もないから、路肩を歩くしかないが、その道が平らでない。補修に補修が重ねられて、段になったぼこぼこが、そこかしこに伏せている。側溝の蓋も年季が入って、表面はカラフルな礫のざらつき、乗れば大分がたつく。それを真っ暗な中、履きなれない木のサンダルでは、段に台先が不意に引っかかり、転びそうになるのも、たびたびである。怖い。しかし、ここまで来たからには戻るのも損だと考えて、すり足気味に歩を進める。
 そのうちに足が痛くなってきた。立ち止まって、一足ずつ点検してみる。旅館に備え付けの軽い外履きは、そこらをぶらつく程度ならともかく、しっかり歩くようにはできていない。ビニールのバンドで押さえられた甲がきつくって、骨とこすれて肌が赤くなっている。木の台には衝撃吸収など望むべくもないから、一歩ごとに舗装路に足裏を殴られて、ふくらはぎがだるい。踵と足指に骨を感じる。帰りたくなってきた。だが、ここで引き返しては徒労になる。吝嗇が高じると、前へ進む力にもなる。ただ、後悔と浅慮の上に成るので、埋没費用を考えるとむしろ損になるかも知れない。
 まだかまだかと、痛む足に立ち止まっては地図に目をやる。先の通り、道の片側は閉まった店の常夜灯ばかりで明るくない。もう片側は堤防沿いで、あまり暗くて判別できないが、工場か倉庫が立ち並んでいて、川向こうの街の灯を遮っている。それがいやに高く黒く覆い被さってくるかのようで。相変わらず足元にも注意せねばならんから、ざりりざりりとすり足の猫背がさらに押し詰まる。
 その時、夜闇に大きな水音を聞いた。静かで、やけに近く、迫ってくる。いい加減歩くのもいやになったから、立ち止まって源を探れば、大きめの側溝の網蓋越しに水が速く走っている。用水路が川に合流するところらしい。ただでさえ、水音は人を惹きつける。断崖に打ちつける荒波を覗き込みたくなる。川舟の舷に寄りすぎて傾けさせる。山を登って沢の音がすれば、ついついそちらへ足を向ける。
 まずは不安があった。いけない。ということばを頭の中で呟いてみる。太宰治を読みつけているから、雰囲気に浸れるかと試したが、しばらく水音に耳を傾けても、一向そんな気はしてこない。女の連れもなし。躁鬱症にもかかっていないし、小説にできるほどの悩みもない。それに、先刻渡った天竜川の橋の上から飛ぶのなら、様にもなろうが、工業地帯の用水路では、劇にも詩にもなりはしない。間抜けな事故と間違えられるがオチだろう。歩き疲れにため息つきつつ、コンビニ目指して再び足を動かしていく。
 看板が見えた。コンビニの看板の一本は大抵高い位置で光っている。白地に青と緑でデザインされたロゴマークはすぐ目につく。助かった思いでにやつきながら、痛みに無理せず急いでいった。
 店内は尋常そのもの。コンビニたる独特の構造に胸を撫で下ろす。入ってすぐ右に曲がって、雑誌コーナーを流し見しつつ、トイレ前を通り過ぎ、壁面に埋め込まれた冷蔵庫の飲料を物色する。まだ品物は取らない。目星だけつけておいて、店内をぐるり一周する。紙パック飲料の棚がある。電子レンジでチンするだけの便利食品の棚がある。冷凍庫の舟に平積みされたアイスクリームの包装は、つい目移りするほど魅力的だが、腹痛の憂いなく舐めるには五月の深夜はちと早い。冷蔵デザート、和菓子、パン、おにぎり、ホットスナックには目もくれない。温蔵庫の飲料をまたいくつか検討する。菓子とカップラーメンに挟まれた通路の誘惑を振り切って、飲料の冷蔵庫、これで一周。コンビニ漫歩はお仕舞いにして、これからは買う品をピックアップし始める。
 スーパーより余程小さいカゴを取って、水とお茶のペットボトルを放り込んでいく。レジに向かうついでに、温かいお茶もカゴに入れ、5本になった。ビニール袋は満杯で、持ち手が重さに伸びきって、指に食い込むこと甚だしい。時々左右を持ち替えて、破れはしないかと危ぶみながら、元来た道を帰っていく。
 帰路はすでに見慣れている。早く旅館へ着きたいばかりで、何の感慨もなく、暗い堤防下を通り越して、交差点から橋へかかる。堤防で遮られていた川風が新緑の香を乗せ吹き抜ける。立ち止まり、もう一度、天竜川を眺めてみる。浅い水は音もかすかに流れていく。
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