第1話

文字数 1,892文字

香苗(かなえ)との出会いは十六歳じゃった」と言う祖父。湯呑は冷め切っておりここに至るまでの道のりをも思わせる。女性三人の家筋であり、男の子の居なかった祖父は僕を甘やかしていた。母子家庭のことでもある生い立ちを、忌まわしきものとしていた彼。
「まだ貧しかった時代でな。ほかには食い扶持のない身寄りに儂は」と言った。いずれもが彼の供述であり真偽のほどは不明だ。だが訥々と語られる身の上に、僕はある種のシンパシーを感じてしまっていた。我が家も女性多数の家柄であり特に母は娘達――僕の姉を持て余した。二人の姉はパシリかなにかのように僕を扱い、彼女はそれを咎めもしない。こんな祖父の元だったから、特に敏感になっていたのかもしれない。縁側に佇み祖父はお茶を啜った。母が風邪を引きますよと注意し、反対に祖父が「黙っとれ」と返す。親子仲は悪くない筈なのだが子供の頃を回顧する彼はもう少し気を付けて向き合うべきだったのかもしれない。この時間は祖父にとっての唯一の楽しみであり同時に小遣いをくれるボーナスタイムでもあった。今か今かと懐を窺い、やっとこさ渡されたそれをそそくさと仕舞う。名前を刻んでおく。これは僕のだと姉に言い聞かせるためである。ポチ袋はその次女の名を崩しておいた。アイツは即使い果たすタイプであり、こうしておけば間違えてでもない限りは大丈夫な筈であった――中身もである。僕は祖父に声を掛け「友人と遊んできても?」と言う。
「行ってきなさい」と返し、彼は少し寂しそうにする。一部を仕舞い直し、半分を財布に。僕はひっそりとファミレスを目指した。

 冬はドリンクバーを頼まずに団欒(だんらん)をする。友人らの話はもっぱら学業のことでありお陰で憂鬱な時間は過ぎる。身の上話といえば――と頬杖をする僕。一方でパスタを平らげ、友人が応じる。
「家の姉貴、最近遅くてさ。帰りにバイトをしているみたいなのだよな」と零す。
「嘘だろ? 美亜先輩、女子会じゃないの? 俺ショックなのだけど」と気持ち悪い友人ビー。お前とは友達になりたくねえよとプリンのスプーンで示した。帰りに、行き掛けの続きをと誘われた僕。
「悪い、祖父ちゃんと約束をしているのよ」と断りを入れる。彼とはチャットでやり取りをしている。深夜にでもまた会えそうである。
「じゃあな」と残して自転車をこぎ、冬だけあっていやにしんどい日だった。
「寒いな」

「お祖父ちゃん疲れちゃったみたい」と母が言う。その寝室は明かりが消えておりすやすやと寝息が響く。
(悪かったな……きっと待っていたのだろうな)と考え、起こさないようにと自室へと向かう。チャットを開き、友人を認めてひそひそ話をした。お題は週末の試験のことであった。
(つまらないな。こんなことなら早めに帰るべきだった)と欠伸。一階の寝室に居る祖父を思い、小さい頃から聞かされた思い出を手繰るとだが「じゃあ明日もまた」と友人も落ちた。
「お前は我が家の誇りだ」と言われた幼少期だった。父を褒めそやし祖父は僕を儂の子じゃと言った。
「いや待ってくださいよ。お祖父ちゃん」と呼称しながら、父は誇らしげであった。時を置いて一階に住むようになり祖父は幾分落ち着きを持った。常に孫に囲まれる生活というのはどんな風だったのかと気を揉む。色々あったが猫可愛がりの祖父は、姉弟揃って甘やかしたのも事実。
「ほら邪魔ですよ」と母は厳しめであったしボケた祖母に一抹の不安を感じてもいたのだろう。翌朝祖父は起きてこなかった。急いで医者を呼ぶと「大往生です」と誇らしげであった。僕は泣いた。いい加減、大人になれなかった僕。いい思い出しか残さなかった祖父は帰らぬ人となった。星に変わり、僕らの願いでもあった余生が見られた。時を置いてポチ袋を探すと中身は代わっておりあとから姉が「ほら。アンタの」と言った。
「勝手に使うなよ」と苦言を呈し、それに「見てみただけ」と返された。
(こんな時にでも刺々しいんだよなあ)と思うと少し気分が晴れた。母は言った。
「お祖父ちゃんはね、本当にアンタが可愛くてね。それはそれは喜んだのよ。アンタが生まれる時にはもう凄く凄く」と教えてくれた。翌日に手紙を渡される。もう大きな姉が「要らない」と言い僕に回ってきた形見。どこかぎくしゃくとした僕と姉は歪な関係にある。母は少し寂しそうに笑い、その横で思った。彼女は――母と姉は幸せだった。あれだけくどくどと語っていた香苗。それは今もボケた祖母ちゃんの名だった。僕にだけ話してくれた十六歳の頃の祖父。それは香苗さんという運命の女性(ひと)によって独り占めだった。つまりは照れ臭ったのだろ? 女性が? 祖父ちゃん。
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