両手いっぱいの思い出
文字数 2,195文字
春。それは、出会いの季節であると同時に――別れの季節でもある。
* * * * *
先生、と呼ばれるようになって、もう何年経っただろうか。
定年間際のこの身は、いくつもの出会いと別れが積み重なってできている。私は、誰もいない早朝の教室で、ひとり、外を見つめていた。
校庭の桜は、見事に咲き誇っている。舞い散る花弁の美しさと儚さをジッと見つめてから、私は黒板に向き合った。チョークを手に取る。外で舞う桜と同じ色のチョークを。そして私は、綺麗に拭いた黒板に、ぽつり、ぽつり、と花を咲かせ始めた。
一つ一つを丁寧に書きながら思い出すのは、入学してきた時の、雛のような子供たち。それぞれピンと背を伸ばし、きらきらした瞳が可愛らしかった。
ゆうきさん、まいかさん、かすみさん……。
一人一人を思い出しながら、黒板に桜を描いていく。
色々な子がいた。お転婆な子、おませな子、静かな子、とっても元気な子。みんなみんな、可愛い可愛い教え子だ。
咲いた桜の花々を静かに眺め、私は今度は茶色のチョークを手に取った。普段はあまり使うことのない茶色の真新しいチョーク。桜と桜を繋ぐように、静かに静かに走らせる。
そうしながら思い出すのは、換羽を済ませ、羽ばたく準備をし始めた彼女らの姿だ。だんだん難しくなる授業をこなし、元気いっぱい体を動かし、部活動でも中心になる機会が増えたのは、丁度このあたりだろう。
授業中に居眠りが増えたのもこの頃だけれど、と笑いを漏らしながら、私は黒板を彩り続ける。
次に手に取ったのは、緑。天に手を伸ばす、若い緑。
大空へと飛び立つ直前の、一番美しい瞬間。それが、今日この日の彼女ら。
この瞬間の羽ばたきを少しでも助けられるように、と三年間全力で追い風を起こしたつもりだけれど、どれくらい皆さんに伝わったのかしらん。
桜の根元に、緑を添える。
何度も何度も緑を生やして、草原に風を孕ませる。
出来栄えを確認してから、私は今度は、一番持ち慣れたチョークを手に取った。
白。彼女らの進む先に広がる、真っ白なキャンバス。
桜の花と草原の緑。その間に、私は丁寧に丁寧に、言祝ぎを書き綴る。
卒業、おめでとう。
綴った言葉を声に出して、それから私は、教室をあとにした。
* * * *
卒業式が終わったあと。最後のホームルーム。
みんな、泣きながら笑いあっている。
「せんせ。黒板の絵、せんせが描いたの?」
ともみさんの涙声の質問に、私はゆっくり頷いた。
「え、ほんと!? 先生が描いたの? すごーい!」
かなこさんが、目じりに溜まった涙を拭いながら笑っている。ともみさんの質問から伝播した『先生すごいね!』の波に、私はなんだかとてもくすぐったい気持ちになって、すごくはないのよ、と首を振った。
「これだけ描くのにもね、とても時間がかかってしまったわ」
「でも、すごいよ。これ、私たちのために書いてくれたんでしょう?」
みなこさんの言葉に、その隣のみくさんが大きく頷いている。
そうやって、黒板の絵に話が向いて――みんな、ホームルームの終わりを引き延ばしているようだった。
「……皆さん。この三年間、どうでしたか?」
私の問いに教室は静かになって、そしてそれから、すすり泣きの音が教室を満たした「。
「皆さん、勉強も部活も、趣味も……精一杯、頑張っていましたね。先生は、皆さんが頑張っているところを見ると、なんだか若返ったような気分になって、一緒に頑張ることができました」
すすり泣きに、笑いが混じる。
「皆さん、入学の時はひよこのようだったのに、もうすっかり大きくなって……皆さんは、自分で選んだ道を飛んで行く準備が、もうできています。どうか、自信をもって、追い風を捕まえて、高く高く、飛んで行ってくださいね」
さあ、ホームルームを終わりにしましょう。そう言うと、委員長のさよりさんがスッと立ち上がった。
「先生。私たち、先生が大好きです。優しくて、でも悪いことをしたらしっかり叱ってくれて……だから、みんなで、手紙を書きました」
さよりさんが私の方へと歩み寄る。彼女は両手いっぱいに手紙を、大切そうに私に差し出している。私は、思わず口を押えてしまった。
「先生。三年間、ありがとうございました。先生のおかげで、私たち、楽しい学校生活を送ることができました」
両手いっぱいの手紙を渡されて、私は涙がこぼれるのを隠すことができなかった。みんなの筆跡――三年間で何度も何度も見た筆跡が、私に思いを綴ってくれている。
「先生! ありがとうございました!」
ありがとうございました! と。可愛い教え子が、声を揃えて言ってくれている。彼女らの泣き笑いが移ったように、私の顔も歪んでいく。
こんな時くらい、凛と澄ましていようと思ったのに。普段から、泣き虫なところをみられていたから、今日くらいは、と。
でも、それはできなかった。
ボロボロ泣いて、笑って――最後の一人が教室から出るまで、私の涙は止まらなかった。
手紙をここで読むと、枯れるまで泣いてしまう自信がある。だから、私は手紙を大切に大切に抱えて――教室をあとにするのだ。
* * * * *
先生、と呼ばれるようになって、もう何年経っただろうか。
定年間際のこの身は、いくつもの出会いと別れが積み重なってできている。私は、誰もいない早朝の教室で、ひとり、外を見つめていた。
校庭の桜は、見事に咲き誇っている。舞い散る花弁の美しさと儚さをジッと見つめてから、私は黒板に向き合った。チョークを手に取る。外で舞う桜と同じ色のチョークを。そして私は、綺麗に拭いた黒板に、ぽつり、ぽつり、と花を咲かせ始めた。
一つ一つを丁寧に書きながら思い出すのは、入学してきた時の、雛のような子供たち。それぞれピンと背を伸ばし、きらきらした瞳が可愛らしかった。
ゆうきさん、まいかさん、かすみさん……。
一人一人を思い出しながら、黒板に桜を描いていく。
色々な子がいた。お転婆な子、おませな子、静かな子、とっても元気な子。みんなみんな、可愛い可愛い教え子だ。
咲いた桜の花々を静かに眺め、私は今度は茶色のチョークを手に取った。普段はあまり使うことのない茶色の真新しいチョーク。桜と桜を繋ぐように、静かに静かに走らせる。
そうしながら思い出すのは、換羽を済ませ、羽ばたく準備をし始めた彼女らの姿だ。だんだん難しくなる授業をこなし、元気いっぱい体を動かし、部活動でも中心になる機会が増えたのは、丁度このあたりだろう。
授業中に居眠りが増えたのもこの頃だけれど、と笑いを漏らしながら、私は黒板を彩り続ける。
次に手に取ったのは、緑。天に手を伸ばす、若い緑。
大空へと飛び立つ直前の、一番美しい瞬間。それが、今日この日の彼女ら。
この瞬間の羽ばたきを少しでも助けられるように、と三年間全力で追い風を起こしたつもりだけれど、どれくらい皆さんに伝わったのかしらん。
桜の根元に、緑を添える。
何度も何度も緑を生やして、草原に風を孕ませる。
出来栄えを確認してから、私は今度は、一番持ち慣れたチョークを手に取った。
白。彼女らの進む先に広がる、真っ白なキャンバス。
桜の花と草原の緑。その間に、私は丁寧に丁寧に、言祝ぎを書き綴る。
卒業、おめでとう。
綴った言葉を声に出して、それから私は、教室をあとにした。
* * * *
卒業式が終わったあと。最後のホームルーム。
みんな、泣きながら笑いあっている。
「せんせ。黒板の絵、せんせが描いたの?」
ともみさんの涙声の質問に、私はゆっくり頷いた。
「え、ほんと!? 先生が描いたの? すごーい!」
かなこさんが、目じりに溜まった涙を拭いながら笑っている。ともみさんの質問から伝播した『先生すごいね!』の波に、私はなんだかとてもくすぐったい気持ちになって、すごくはないのよ、と首を振った。
「これだけ描くのにもね、とても時間がかかってしまったわ」
「でも、すごいよ。これ、私たちのために書いてくれたんでしょう?」
みなこさんの言葉に、その隣のみくさんが大きく頷いている。
そうやって、黒板の絵に話が向いて――みんな、ホームルームの終わりを引き延ばしているようだった。
「……皆さん。この三年間、どうでしたか?」
私の問いに教室は静かになって、そしてそれから、すすり泣きの音が教室を満たした「。
「皆さん、勉強も部活も、趣味も……精一杯、頑張っていましたね。先生は、皆さんが頑張っているところを見ると、なんだか若返ったような気分になって、一緒に頑張ることができました」
すすり泣きに、笑いが混じる。
「皆さん、入学の時はひよこのようだったのに、もうすっかり大きくなって……皆さんは、自分で選んだ道を飛んで行く準備が、もうできています。どうか、自信をもって、追い風を捕まえて、高く高く、飛んで行ってくださいね」
さあ、ホームルームを終わりにしましょう。そう言うと、委員長のさよりさんがスッと立ち上がった。
「先生。私たち、先生が大好きです。優しくて、でも悪いことをしたらしっかり叱ってくれて……だから、みんなで、手紙を書きました」
さよりさんが私の方へと歩み寄る。彼女は両手いっぱいに手紙を、大切そうに私に差し出している。私は、思わず口を押えてしまった。
「先生。三年間、ありがとうございました。先生のおかげで、私たち、楽しい学校生活を送ることができました」
両手いっぱいの手紙を渡されて、私は涙がこぼれるのを隠すことができなかった。みんなの筆跡――三年間で何度も何度も見た筆跡が、私に思いを綴ってくれている。
「先生! ありがとうございました!」
ありがとうございました! と。可愛い教え子が、声を揃えて言ってくれている。彼女らの泣き笑いが移ったように、私の顔も歪んでいく。
こんな時くらい、凛と澄ましていようと思ったのに。普段から、泣き虫なところをみられていたから、今日くらいは、と。
でも、それはできなかった。
ボロボロ泣いて、笑って――最後の一人が教室から出るまで、私の涙は止まらなかった。
手紙をここで読むと、枯れるまで泣いてしまう自信がある。だから、私は手紙を大切に大切に抱えて――教室をあとにするのだ。