罪をなくした人

文字数 1,079文字

誰でもいい、この苦しみに根拠をあたえたまえ。

ロウソクひとつない石造りの壁にかこわれる空間で、一心に聖像へ相対する男がいた。出入りにつかわれる樫の扉は闇溜まりのなかかたく閉じられ、唯一採光をゆるされた対面上にあるガラス窓からは秋空を暮れる太陽がのぞいている。
男は神に祈ることをしらなかった。それは自己の生命活動に許しをもらう必要がないとのおもいからきていた。闘争心をみたすためにいたずらに魚をひっかける行為も、不快な羽虫を電燈でやくことも、疲れた心に草花をつむことも日々を上手く生きるこつでしかないと。たしかに資本主義という人間社会が大地をおおいに蝕んでいることは目に見えているし分かってもいる、けれど歯車は見ないふりで粛々と生活することがこつなのだ――なにせ己は人間なのだから。
暮れなずむ夕光がひときわ強く聖像の輪郭をとかしにかかる。聖像の影に覆われた男の瞳は瞼を透かしてさえ眩むおもいがした。
男には誇ることでもない癖もしくは趣味があった。それは言葉の独自解釈だ。たとえば、神は創造物主であり信仰の対象ではないとか語弊も誤解もまねくことへの理解から他者にそれを論ぜずにいるようなことが五万とあった。そうした中で罪と罰をこう解釈していた。
――自ら罪と感じたおこないに自らを罰すること。と
子をもうけ命をはぐくむことの尊さをしればたった一匹の虫にすら罪ふかい後悔にさいなまれることだろう。男は幸いにも一生をともにする伴侶にめぐまれることはなかったし、これからもそれは感ぜずにすむだろう。こんな男だから神へ祈ることはなかったのだ。
なのにどうして、こうして許しをこうよう首をたれ――誰でもいい、この苦しみに根拠をあたえたまえ――知らぬ聖句の一節をとなえる熱心さでもって、祈りをささげているのだろうか。少し前の自分ならこんな人間には皮肉に口をまげたろうに、そら罪にだかれる罰の味はいかがなものか、とでもいって。
男はこの苦しみに見当ひとつつかなかった。どうしても罪が見当たらなかった。この数日、日課のコーヒーをいれた不意にさえ、まとった罪にこの身をきざまれてもその罰には根拠があった。子をみせてやれぬ親不孝。社会活動をとどこおらせる犯罪。性差の理解におよばない否定行為。いたずらな愉悦に他者を傷つける弱者とくゆうの幼稚行動。どれも生涯忘れぬ苦みを舌さきにもたらしている。
なのに、いくら思い返しても思い返しても勘定が合わない。どうしても罪がひとつ見当たらない。たった一つのなくした罪が男に地獄のせめぐを与えつづけている。

――どうか誰でもいい、この苦しみに根拠をあたえたまえ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み