隕石と蟻

文字数 3,115文字

「なによ、これぇ!」

 思わずそう呟いた望月 宙(もちづき そら)に、サイフォン式のコーヒーをくるくるとかき混ぜていたマスターが目を向けた。

 カフェのカウンター席。古民家風で渋い内装だ。休日はそこそこ客が来るが、場所がら平日のお客は少ない。今日は宙とマスターの二人だけ。つまりは貸し切りだ。

 宙の手にはスマートフォン。いつも見ているブログサイトのトピックに、芸能人の女性が夫と写っている写真。その手には妊娠検査薬のスティック。
 どうやら妊娠報告らしい見出しがついているが、もちろん宙はその記事をタップして見ようなどとは思わなかった。

 だいたい全ての読者が目にするトップページに、こういう写真が出ていること自体、どうなのよと宙は思う。
 妊娠検査薬なのだ。おしっこがかかってるのだ。やるだけやりまくって妊娠しましたーっていう報告を全世界にしているわけだ。アホか。身内だけに報告してくれと。

「どうかしました?」

 相変わらずのんびりしたマスターの声。五十がらみの渋い容貌である。白髪交じりの髪を短く整え、薄いフレームの眼鏡。鼻筋が通ってて、どちらかというと濃い目の顔をしている。ちょっと草刈正雄っぽい。
 だが声に関して言えば、宙はマスターの方が好みである。とにかく穏やかでいい声なのだ。

「これよぉ。このトピック」

 宙が差し出したスマホのディスプレイを覗き込んだマスターが、フッと小さく笑った。一笑に付された端末がカウンターの上に置かれるなり、隣にコーヒーカップが並ぶ。
 今日のブレンドもかぐわしい香りである。とはいえ、宙はブレンドしか飲まない。それとガトーショコラ。

 ぽってりとした陶器のコーヒーカップには火だすきが入っていた。藁(わら)を巻いて窯(かま)で焼くので、その藁の跡が赤く残るのだ。
 今日は火曜日だったなと宙は思う。マスターは火曜日にこのカップを出す。

「まあ、些末(さまつ)なことですよ。人類はそうやって今まで命を繋いできたんですからね」

 そう来たか。マスターの跳躍した思考に、宙は返す言葉が見つからない。
 自分の価値感にそぐわないからと、いちいち苛々するのが馬鹿らしくなるような視点で突っ込んでくるのだ。とはいえ、その口調はどこまでも穏やかだ。

「宙さんは、いまちょっと嫉妬したんですよ」
「むぅ。それは認めたくないけど、認めざるを得ないかも」
「向こう様の価値観にいちいち腹を立てていたのでは身が持ちませんよ。むしろ自分の価値観の幅を広げたほうが楽です」

「自分の? はぁ。私、ガキだからなぁ」
「そんなことないと思いますよ。なにより宙さんは素直です。聞く耳を持たない人には何を言っても聴いてくれませんから」
「なんか分かんないけど、ありがと」

 取り敢えず礼を言った宙に、マスターが追撃を向けてきた。

「例えばですよ。明日この星に隕石が降って来るとします」

 来た来た。どうしていつも、そういう方向にぶっ飛ぶのよ。困惑顔で宙は迎え撃つこととなる。

「だとしたら、宙さんはそんな記事なんて興味持たないでしょう?」
「そりゃそうよ。もっと他のことに時間を使いたいわ。って言っても、明日じゃもう何も出来ないし、何もする気ないかも」

「ですねえ。こういうのもありますよ。この銀河系のずっと外に地球の何億倍も大きな星があって、人間の何億倍も大きな生き物がいるんです」
「どんなSFなんですかぁ。それ」

「ものの例えですよ。自分がある日突然に蟻(あり)になったようなものです」
「蟻かぁ」
「歩いてて蟻を踏みつけてしまったとしても、宙さんは気付かないでしょう? それと同じですよ。銀河系の外の巨大な生き物が、ある日気まぐれに散歩してて地球を蹴散らしても気づかないと思います」
「シュールすぎるぅ」

「そんなシュールな宇宙の中に私たちは暮らしているんです。その営みからしてみれば、瞬きほどの短い時間の中にね。比喩ですけど、絶対にないとは言えないですよ」
「あー、色んなことが一気にアホらしく思えてきたぁ」

 小さく固定されていた宙の視点が、マスターの言葉で一気に広げられてしまう。いつもこんな感じなのだ。マスターは変わり者だが、こうして話をするのが楽しいので宙は来る。それと他では話せないこともここでなら話せる。

「まぁ、その人類の存続に貢献は出来ませんけどね。それはそれ。出来る人にお任せして、別なことで貢献することにしましょう」
「税金払うくらいだけどぉ」
「立派です。我が身を捧げつつ高額納税者となりますか」

 宙もマスターも独身だ。バイセクシャルでスモーカー。何をきっかけにカムアに繋がったのかは、さておき。宙はもう全てのことが些末に思えていた。明日、隕石が落ちてこないことを祈るばかりである。

「ねぇ、マスター」
「何ですか、宙さん」
「マスターは一人が寂しいって思ったことある?」

 問いに引かれるようにマスターがスッと視線を斜め上に向けた。その先にあるものを宙は知っている。写真だ。とある写真家が撮った美しい人物写真。

「もちろんありますよ。でもこうして人と接する仕事をしていると、それを忘れていられます。寂しさは飼い慣らすことが出来るものですよ」
「飼い慣らすかぁ」

「今夜は満月です。少し雲がある。東からの風も強いし、面白いものが見られるかもしれません」
「面白い?」
「南の空に月が出るでしょう? 時間とともに西に動いていく。左から右にですね」
「うん」
「雲が風に押されて素早く右に流れると、月がどう見えると思いますか?」

 雲が右に流れる。月も右に動く。でも速度差がある? 宙が首を傾げる。

「分かんない」
「月が西から東に逆走して雲の間を縫っていくように見えるんです。錯覚なのですけどね。雲が通り過ぎれば月は静止したように見えます」
「へぇ、そうなんだ」
「自分の価値感を翻(ひるがえ)される。そんなことはどこにでも転がっていますよ。錯覚も自分の捉え方です。嫉妬も寂しさも捉え方です」

 そうは言っても、イラッとくることも寂しい日もあるのだけどと、宙は思うのだが。

「宙さんの名前は素敵ですね。貴女と話した日は、夜空を見上げたくなります」

 意図せずに殺し文句を向けられた宙が目を丸くした。その才能を分けてほしいと彼女は思う。若い頃のマスターはずいぶんとモテていたに違いない。いや、今でもきっとモテているはずだ。むかつく。むかつくが、ちょっと嬉しい。

 照れを隠すために、宙はガトーショコラを口に運ぶことに専念する。甘い。ひたすら甘い。最近、糖分が足りてないのかなと彼女は思う。いや、カルシウムだなとも。

 宙の嫉妬心はとっくの昔に宇宙の果てに追いやられてしまっていた。
 こうやって彼女はいつも、ぐうの音も出なくなってしまう。でもそれが嫌ではない。マスターの声はこのブレンドよりもまろやかなのだ。

 大きな梁のある二階のカフェ。開け放した窓から気持ちのいい風が吹き通った。
 カラカラカラン。竹で作られた風鈴が軽やかな音を奏でる。明後日あたり台風が来るかもしれない。

 宙は火だすきの入ったカップを再び口に運んだ。焼き締めのざらりとした口当たりが面白い。今度は火だすきで作ってみようかなと思い立つ。さや鉢はあるし藁もある。灰が他の釉薬ものにかからないようにしないと。

「いい風が吹いてますね。今夜は月見をしましょう」

 写真に向けていた視線をマスターが宙に戻した。漆黒の宇宙を旅して戻ってきたかのように。

「私もそうする。火だすきも作ってみるわ」

 今日は火曜日。フッと目を細めたマスターと宙だけの、平凡で奇跡的な時間。
 取り敢えず次にここに来るまでは、隕石には落ちないでいてほしい。
 そう彼女は思ったものだった。

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