しきトンネル
文字数 1,945文字
「小僧。そのトンネルにいたら、崩れて下敷きになってしまうよ」
「やだ。ここは僕の居場所なんだ。ここだけなんだ」
「今にヒビが広がって、重たい壁があんたに降りかかっちまうよ。そうなったって助けてはやらないよ」
藤は、春の温かな空の下で腕を組んでいた。藤の花があしらわれた紫色の分厚い着物を着て、汗もかかずに立っている。紫色の瞳は、鋭く下を向いていた。
桜の花びらが、寂しさに染まった涙のように散っている。
詩樹(しき)はトンネルの入り口に座り込んだまま、自分を睨みつける藤を見上げた。三十歳ほどの女性の滑らかな肌が、春の太陽に照らされている。
春の風が、つゆの涙に濡れた頬を撫でていった。涙の塩の匂いが、ふわりと漂う。
藤は手のひらを、分厚い着物の上から柔らかな太ももに当てた。シワを伸ばすように撫でながら、膝を折ってしゃがみ込む。
「きょうはどうして泣いているんだい。またいじめられたっていうのかい」
「みんな、詩樹が死期トンネルに引きこもってるってバカにするんだ。着物の妖怪に殺されるぞって。みんななんでしきトンネルって名前か知らないバカなんだ」
「それで逃げてきたっていうんだろ」
藤は目を満月みたいに丸めると、口を開けて笑い出した。椿の花みたいに赤い口紅を塗った唇が震えている。藤の花が描かれた紫の袖が、笑い声と一緒に揺れていた。
春風が吹いて、森の葉っぱを寂しく鳴らした。山に造られたトンネルは、一人ぼっちで葉の揺れる音に耳を傾けている。
詩樹は怒りで頬を膨らませながら立ち上がった。
「藤まで僕をバカにしてる!」
「一発殴ってやればいいのさ。子どもってのはそうやって仲良くなるもんだよ」
「もし負けたら? 卒業するまでもっとバカにされるんだ」
藤は着物の袖で、目尻に溜まった涙を柔らかく拭いた。立ち上がって、裾をふわりと揺らしながらトンネルの奥へと歩いていく。草履がコンクリートを擦る音が、ひんやりと冷たいトンネルに響いていた。
草履の音は、老いて朽ちていくトンネルの壁へと溶けていく。藤の足音が当たった壁から、ふわりとツルの葉っぱが生え始めた。灰色の壁が、みるみるうちに緑のトンネルへと色づいていく。夏の葉っぱの蒸れた匂いが漂っている。
藤は肩だけで振り返ると、詩樹に柔らかな笑みを向けた。
「好きな奴も嫌いな奴も、いつかは別れがくるんだ。たかが数年、我慢してやればいい」
「僕は藤とは別れたくないな」
「本当に殺して妖怪にしちまうよ」
藤は歩幅をほんの少し広げて歩いた。草履の寂しげな音に、喜びが一つまみ分混じっている。
トンネルは、母親の微笑みみたいに、葉っぱが穏やかに揺れていた。開いたヒビの隙間から、夏の日差しが漏れている。
藤がさらに足を進めると、今度は紅葉が静かに生えだした。空気は、夏から秋の乾いた空気に変わっていく。赤い紅葉が柔らかく舞っている。
「四季を見たら帰るんだよ。本当にいつ崩れるかわからないんだから」
「トンネルを直せばいいのに」
「みんなあたしのことなんて忘れちまってるよ。壊れたってほったらかしにされるだけさ」
詩樹は、無邪気な子犬みたいに藤に近づいた。それから、藤の柔らかな手をぎゅっと握りしめて歩いた。氷みたいな肌の冷たさが、じんわりと伝わってくる。
藤が、顔をこわばらせて目を丸めた。
「あたしはあんたの母親じゃないよ」
「寂しいときは手を繋ぐといいんだよ。先生が言ってたもん」
「嘘ばっかり教える先生がいたもんだね」
藤は頬を赤らめると、ふいと視線を詩樹からそむけた。手は離さずに、居心地が悪そうに握られている。
秋のトンネルが終わって、冷たい雪が降りだした。
藤は観念したように、生ぬるいため息を吐いた。詩樹の小さな手を握って、雪の舞うトンネルの中を歩いていく。
「あたしとばっかり話してたら、誰とも仲良くなんかなれないからね。いつかはちゃんと周りと向き合いなよ」
「僕、怖いよ」
「知らないよ」
詩樹はこくりと頷いて、不安の混じった手を固く握りしめた。ねばついた汗がじんわりとにじみ出ている。
冬が通り過ぎていく。トンネルが終わって、春の空が広がった。
藤は不安に震える詩樹の手を、一度だけ固く握りしめた。それから、糸を切るようにパッと手放した。
「さっさと帰りな。トンネルが崩れるからね」
「また来ていい?」
「だめ。あんたが下敷きになったって、あたしは助けやしないよ」
藤が詩樹の背中を押して、無理やり歩かせる。よろめいた靴音を鳴らしながら、トンネルの外を歩いていった。
「ねえ、藤。もし崩れても、僕がちゃんと覚えて直すよ」
詩樹が振り返ると、トンネルはただの灰色に戻っていた。
春の温かな風が吹いて、桜を揺らした。ピンクの桜は、嬉しさでくすぐったそうに擦れた音を鳴らしていた。
「やだ。ここは僕の居場所なんだ。ここだけなんだ」
「今にヒビが広がって、重たい壁があんたに降りかかっちまうよ。そうなったって助けてはやらないよ」
藤は、春の温かな空の下で腕を組んでいた。藤の花があしらわれた紫色の分厚い着物を着て、汗もかかずに立っている。紫色の瞳は、鋭く下を向いていた。
桜の花びらが、寂しさに染まった涙のように散っている。
詩樹(しき)はトンネルの入り口に座り込んだまま、自分を睨みつける藤を見上げた。三十歳ほどの女性の滑らかな肌が、春の太陽に照らされている。
春の風が、つゆの涙に濡れた頬を撫でていった。涙の塩の匂いが、ふわりと漂う。
藤は手のひらを、分厚い着物の上から柔らかな太ももに当てた。シワを伸ばすように撫でながら、膝を折ってしゃがみ込む。
「きょうはどうして泣いているんだい。またいじめられたっていうのかい」
「みんな、詩樹が死期トンネルに引きこもってるってバカにするんだ。着物の妖怪に殺されるぞって。みんななんでしきトンネルって名前か知らないバカなんだ」
「それで逃げてきたっていうんだろ」
藤は目を満月みたいに丸めると、口を開けて笑い出した。椿の花みたいに赤い口紅を塗った唇が震えている。藤の花が描かれた紫の袖が、笑い声と一緒に揺れていた。
春風が吹いて、森の葉っぱを寂しく鳴らした。山に造られたトンネルは、一人ぼっちで葉の揺れる音に耳を傾けている。
詩樹は怒りで頬を膨らませながら立ち上がった。
「藤まで僕をバカにしてる!」
「一発殴ってやればいいのさ。子どもってのはそうやって仲良くなるもんだよ」
「もし負けたら? 卒業するまでもっとバカにされるんだ」
藤は着物の袖で、目尻に溜まった涙を柔らかく拭いた。立ち上がって、裾をふわりと揺らしながらトンネルの奥へと歩いていく。草履がコンクリートを擦る音が、ひんやりと冷たいトンネルに響いていた。
草履の音は、老いて朽ちていくトンネルの壁へと溶けていく。藤の足音が当たった壁から、ふわりとツルの葉っぱが生え始めた。灰色の壁が、みるみるうちに緑のトンネルへと色づいていく。夏の葉っぱの蒸れた匂いが漂っている。
藤は肩だけで振り返ると、詩樹に柔らかな笑みを向けた。
「好きな奴も嫌いな奴も、いつかは別れがくるんだ。たかが数年、我慢してやればいい」
「僕は藤とは別れたくないな」
「本当に殺して妖怪にしちまうよ」
藤は歩幅をほんの少し広げて歩いた。草履の寂しげな音に、喜びが一つまみ分混じっている。
トンネルは、母親の微笑みみたいに、葉っぱが穏やかに揺れていた。開いたヒビの隙間から、夏の日差しが漏れている。
藤がさらに足を進めると、今度は紅葉が静かに生えだした。空気は、夏から秋の乾いた空気に変わっていく。赤い紅葉が柔らかく舞っている。
「四季を見たら帰るんだよ。本当にいつ崩れるかわからないんだから」
「トンネルを直せばいいのに」
「みんなあたしのことなんて忘れちまってるよ。壊れたってほったらかしにされるだけさ」
詩樹は、無邪気な子犬みたいに藤に近づいた。それから、藤の柔らかな手をぎゅっと握りしめて歩いた。氷みたいな肌の冷たさが、じんわりと伝わってくる。
藤が、顔をこわばらせて目を丸めた。
「あたしはあんたの母親じゃないよ」
「寂しいときは手を繋ぐといいんだよ。先生が言ってたもん」
「嘘ばっかり教える先生がいたもんだね」
藤は頬を赤らめると、ふいと視線を詩樹からそむけた。手は離さずに、居心地が悪そうに握られている。
秋のトンネルが終わって、冷たい雪が降りだした。
藤は観念したように、生ぬるいため息を吐いた。詩樹の小さな手を握って、雪の舞うトンネルの中を歩いていく。
「あたしとばっかり話してたら、誰とも仲良くなんかなれないからね。いつかはちゃんと周りと向き合いなよ」
「僕、怖いよ」
「知らないよ」
詩樹はこくりと頷いて、不安の混じった手を固く握りしめた。ねばついた汗がじんわりとにじみ出ている。
冬が通り過ぎていく。トンネルが終わって、春の空が広がった。
藤は不安に震える詩樹の手を、一度だけ固く握りしめた。それから、糸を切るようにパッと手放した。
「さっさと帰りな。トンネルが崩れるからね」
「また来ていい?」
「だめ。あんたが下敷きになったって、あたしは助けやしないよ」
藤が詩樹の背中を押して、無理やり歩かせる。よろめいた靴音を鳴らしながら、トンネルの外を歩いていった。
「ねえ、藤。もし崩れても、僕がちゃんと覚えて直すよ」
詩樹が振り返ると、トンネルはただの灰色に戻っていた。
春の温かな風が吹いて、桜を揺らした。ピンクの桜は、嬉しさでくすぐったそうに擦れた音を鳴らしていた。