第1話

文字数 1,937文字

 めずらしく定時に仕事が終わり、駅まで歩いていると、突然腕を捉まれた。
え?なに?
振り向くと、男が目を見開いて立っている。
「君原だろ?」
名前を呼ばれて、目をしばたたく。
「覚えてない?金沢。」
言われて記憶がパチッと合った。
「ああ!」
金沢はニッと笑って八重歯を見せた。高校以来だから、もう十年ぶりか。
大人になった金沢は、よくよく見ればあの金沢のままだった。
「やっぱり。久しぶりじゃん。元気?」
「うん、久しぶり。」
なんだ、結構普通に話せるもんだ。大人になって身に着けた営業スマイルも自然に出ている。あゆみは自分の振る舞いが意外だった。
「今ちょっと時間ある?」
金沢の質問に戸惑った。咄嗟のことで、嘘がつけない。
「少しなら。」
「わかった。」
 金沢は小さな喫茶店に入っていった。チェーン店とは対照的な、薄暗い店内。カウンターの向こうでは、いかにもな髭のマスターがサイフォンのコーヒーを淹れていた。
「コーヒーでいい?」
「うん。」
目の前に金沢がいる。久しぶりに、しかも金沢とこんなシーンになるとは思ってもみなかった。あの時こんな風に自然にできていたら、きっと楽しかっただろうな。
金沢はあゆみにとって苦い思い出の人だった。はじめの頃は気軽に話せる友人だったのだが、ある日を境におかしくなった。意識しすぎて避けてしまい、明らかに挙動不審になる。露骨な態度は友人に心配されるほどだった。
友達以上になれない関係は、金沢に彼女ができたことで決定的となった。
一度だけ、あゆみは金沢が女の子と歩いているのを見かけた。小柄で髪のきれいな子だった。
落胆と諦めに混じって、それでも一度気付いた想いはなかなか忘れられず、いつまでも根付いたままだった。
それを「スキサケ」と言うらしいと知ったのは、わりと最近だった。当時のトラウマは、忘れたくても忘れられない、扱いに困る思い出だ。
「悪いな、急に。」
「ううん、大丈夫だよ。」
「ちゃんと謝っておきたくってさ。」
「謝る?」
「2年の時、おまえ俺の事嫌ってたろ。避けられてたから。」
「え?そうだっけ?」
あゆみはとぼける。そりゃそうだ。スキサケだったなんて言えない。
「わりと仲良かったと思ってたから。あの事怒ってるんだろうなと思って。」
「あの事?」
おかしな態度をとっていたのは自分だったから、あゆみはてっきり金沢が怒っていると思っていた。けれど、私が怒ってる?
金沢はコーヒーを一口飲んで続けた。
「ほら。お前学校サボったことあっただろ。俺あの時同じ電車だったんだ。」
「え?同じ電車?」
「そう。駅に着いても降りないから、どうしたんだろうと思って。」
あれか。あれは、結構な覚悟でサボったんだった。
「見られてたのか。」
「うん。で、おかしいと思ってついてった。」
「え?」
ついてった?
「終点まで。俺は折り返しで学校行ったけど、君原結局来なかったな。後で聞いたんだ。親が、その、離婚したって。」
「あー、うん。」
あゆみはふっと笑うと、
「苗字が変わったから、行きたくなかったんだよね。」
今どきはそんなに珍しいことじゃないけれど、あゆみにとっては大事件で、普段通りに家を出たのだが、どうしても学校に行く気になれなかった。
サボっちゃえ。
電車を降りずに、駅を見送った。
それでも、いざサボるとなると勇気がいる。わりと真面目だったあゆみにとっては、結局サボったところで現実が変わるわけでもないし、後味が悪かっただけだった。
金沢は小さく息をつくと、
「それから、なんか避けられた。ついてったの気づかれて、嫌がられたと思った。考えてみれば、ストーカーだもんな。」
あゆみは何も言わなかった。そういえば金沢って、困っている友達にはさりげなくフォローするやつだった。
「すぐに謝ろうと思ってたんだけど、タイミングが合わなくて。卒業して、それっきりだったってわけ。」
タイミングを合わさなかったのは私なんだけど。
「そうだったんだ。」
「ずっと引っかかっててさ。それで、さっき似てる人がいるなあと思って。」
「びっくりしたよ。」
「ごめんな。」
あゆみは首をふった。
「ううん、知らなかったよ。金沢がついて来てたって。」
「え?それじゃないの?じゃ俺何やったの?」
「何もしてないよ。親の離婚で、ちょっと参ってたからかなあ。」
勝手に口から出てきた言い訳だけど、とりあえずそういうことにしておこう。
「そうだったのか。」
金沢は特に疑いもせず、ほっとしたようだった。
 店を出ると、金沢が時計を見て言った。
「時間、大丈夫?」
「うん。大丈夫。気にしてくれてありがとう。」
「突然ごめんな。」
「ううん、声かけてくれてよかった。ありがとう。」
じゃ、と言って二人は別れた。
金沢、変わってないなあ。
当時の思い出を上書きできたようで、あゆみはちょっとうれしかった。
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