1話 夕昏れと歩道橋

文字数 1,634文字

 歩道橋の水溜まりに、ちらりと光が反射した。顔を上げると、大通りの奥から、半熟卵の黄身みたいな夕陽が覗いていた。暖かくて優しげだけど、触ると火傷しそうな色。その周りのほどけそうな薄紫の雲は端が金色に縁取られて、火を点けた直後の紙に似ている。その煮え立っているような空は、何だか同じ世界のものとは思えなくて、立ち止まった私は歩道橋の手すりを掴んだ。
 うつくしさって、少し怖い。見てしまったら後戻りができなくなりそうで、それでもやっぱり見てしまう。鮮烈な魅力。こんな夕焼けを見られるなんて、今日は良い日だ。

 だけど。

 眼下に広がる通りを見渡す。空を見ているのは私だけだった。学生も、サラリーマンも、皆歩きながら、手元の液晶や腕時計、数メートル先の地面に無機的な視線を注いでいる。
 
 小さい頃は、空や景色を「きれいだね」と言ったら、誰か周りの人が「本当だ」と返してくれることが多かった。それが、経年劣化したペンキが剥げ落ちるように無くなってきて、終いには相槌も打って貰えなくなった。
 きっとみんな、私より現実に真摯だから、毎日のように見られる夕焼けの優先順位を低く設定しているのだろう。私もきっと、空を見てるような場合じゃない。人生、勉強、将来、家庭内、友人関係etc. 考えないといけないことは私の体に有り余るくらい存在する。それは大事なことなのだ。自分が頑張っているとき、呑気に空の話なんかされたら苛つきもするだろう。だけど、なんていうか。
 もう一度、空を仰ぐ。

 こんなに激しく燃えている、これから先には絶対に存在し得ない夕暮れを、誰もが忘れるなんて悲しいじゃないか。

 初冬のつんとした風が私の耳元を掠めた。それは耳たぶの凹凸に引っ掛かって、ぼう、とくぐもった音で鳴った。


 そのとき。

 下から殴るような風が巻き起こり、私は空に吹き上げられた。
 ……え?
 髪、制服のスカート、空。これらが同じ視界に収まっている。寒い。下に広がるのは国道。さっ、と全身の血が冷える音が聞こえて、爪先が痺れた。
 落ちる……!
 目を細めたその瞬間、
「驚かせてごめん」
 耳元でそう声がして、私の体は空中で静止した。恐る恐る周りを見渡すと、誰もいない。ただ、私の体が、送電塔と並ぶくらいの高さに、風船のようにふよふよと浮いている。
「なんで……?」

「唐突で済まないけど、君を少し浮かせた。君と話がしたかったんだ」
 また、声だけが聞こえてた。幼い少年のようで、白髪の老人のようでもある、掴み所のない優しい声が、通り過ぎる風の音に混じって聞こえてくる。
「だ、誰なんですか」
 発した声は情けなく裏返った。落ちはしないものの、この高さにまだ足が震える。
「僕を説明するのは難しいな。雲、風、山……まあ、そういうものをひっくるめた、所謂「自然」に意識が付いたようなものだよ」
 自然?夢だとか本の読みすぎだとか、この状況を論理的に説明しようとする言葉は幾つも思いついた。でも、顔に当たる髪は痛いし、やっぱり足は宙の上。
「……なんで、私は浮いてるんですか?」
「僕が、ちょっとばかり風を動かして運んだから。
 安心してほしいんだが、君を連れてきたのは拉致じゃないよ。ただ、最近では珍しく僕を見てくれる君に、少しばかりお礼をしたかったんだ。
 よければ、僕と少しばかり空を散歩してくれないかな。君が嫌なら、すぐに歩道橋の上へ帰そう。どうする?」
 
 前を見ると、夕焼けは煮詰めたような赤紫に変色していた。普段より高いところから見ているせいか、太陽の濃密な艶かしさが感じられる。夢でもいい。きっとこんな素敵な空を見られる機会、これから一生かかってもやって来ない。
「わかりました。
でも、こんな空の上に居て、他の人に気づかれたら大変じゃありませんか?」
 すると、風(便宜上、こう呼ぶことにした)は、おちゃらけたような、寂しがるような声でこう言った。

「誰も空なんか見ちゃいないさ。
 知ってるだろう?」

             
【続く】
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