第1話
文字数 1,760文字
この瞳がなにも映さなくなっても、この声が貴方を呼ぶことはなくなっても。
この心だけは――。
ひやりとした心地良さに目が覚めた。
重くて開けるのも辛い瞼を押し上げると、いつもと変わらない笑顔があった。
「熱が出たって?」
声を出すのも億劫で、小さく頷く。
スーツ姿の兄は、きっとまた病院からの連絡を受けて駆けつけたのだろう。仕事を優先して欲しいと、何度も言っているのにちっとも聞いてくれないのだ。無菌室用の使い捨て白衣に身を包んだ兄は、僕の視線を柔らかく受け止めて、安心させるようにゆっくりと微笑む。
八年前――。
両親と死に別れてから、兄は過保護になった。それまでも僕は入退院を繰り返していたけれど、母が世話をしてくれていた分、今はそれを自分の役目だと思っているようだ。
重荷にはなりたくないのに。
「なに暗い顔してんだよ! ちょっと熱が出たくらいで死にそうな顔をするんじゃない」
副作用で髪の毛がほとんど抜けた。頭の形が悪いからと嘯いて、バンダナで誤魔化した頭を無茶苦茶に撫で回された。僕はもう十八なのに、この扱いは十歳のときと変わらない。
「またちょっといろいろ制約が出たけど、それが無くなったら思いきり我がまま聞いてやるから。……それまで辛抱して治療に励もうな」
視線を兄から窓へと移す。
抜けるような青い空があった。流れる雲もなくて、まるで絵の具を塗り込んだ水彩画の一枚みたいだ。
この部屋から街に降り積もった雪を眺めて、顔を寄せた僕の息遣いで白く曇るガラスに書き込んだ大好きな兄の名前。
春には窓の開放を許されて、どこからか舞い込んできた桜の花びらをみつけた時には、
「花見がしたい」と兄を困らせたのも楽しい思い出で。
夏。
気温が急上昇するこの季節は大抵体調が崩れるから、こうやってベッドに縫いとめられてしまう。
兄と一緒に遊んだ丸いビニールプールでの記憶が、唯一の夏らしい思い出だ。
「どうした? 気分が悪くなったか」
兄の声が緊張していく。
違うよ、と言いたいのに僕は言えない。
本当に僕が口にしたいのはそんなことじゃないから。
兄の大きな掌がふわりと頬を包み、顔の向きを変えた。ぱちりと目が合って、僕は視線を部屋中にうろつかせる羽目になる。
朝にはきちんとセットしていただろう前髪は乱れて、僕と似ていない涼やかな琥珀色の瞳がこちらをみつめている。
「我がまま……聞いてやる」
どうしてそんな言葉を繰り返すのか。
僕の我がままは、けして口にしてはいけないものなのに。
「兄さん」
僕はね――
続く二の句は深く胸の中へ押し込んだ。
「にい……さ、ん」
身体中が悲鳴をあげて、軋み始める。痛くて堪らない。鼻腔が沁みるように傷み、涙が込み上げてくる。
「我がまま……兄さんのこと、呼び捨て、た、かったな……」
病室の白い壁と視界との境界が無くなっていく。僕の瞳には兄しか映っていない。
すごく嬉しいけれど、それが最後の風景だと頭の片隅が冷静に理解していた。
終わりだ。
兄が叫んでいた。
その唇に指を押し当てる。振動が伝わってきて、それが僕の胸を振るわせた。
「呼べばいい! いくらでも、好きなだけ呼べばいいっ」
僕がいなくなったら兄は独りきりになってしまう。
そう思うと、ふと告げてみてもいいかなと思ってしまった。この小さな思いを置きざりにしても、重荷にはならないかもしれないと。
慌しくナースコールを押した兄の手を引き戻す。その手をもう一度頬へ宛がって、精一杯笑って見せた。
「兄さん……ごめん。僕は――貴方が……好きだった」
ごめん、兄さん。
こんな最期になって欲が出た。
僕のこの思いが貴方の重荷になってしまえばいいと思ってしまったのだ。一緒に過ごしていくはずだったすべての季節を、別の誰かとはして欲しくない。
視界がゆるゆると狭まっていく。熱いのか寒いのかさえ感じない。目の前の兄から視線を離したくなくて、じっと……ただじっとみつめていた。
この瞳がなにも映さなくなっても、この声が貴方を呼ぶことはなくなっても。
この心は兄さんだけのもの――。
そして僕の告白に、ずっと縛られてくれたらいいのに。
この心だけは――。
ひやりとした心地良さに目が覚めた。
重くて開けるのも辛い瞼を押し上げると、いつもと変わらない笑顔があった。
「熱が出たって?」
声を出すのも億劫で、小さく頷く。
スーツ姿の兄は、きっとまた病院からの連絡を受けて駆けつけたのだろう。仕事を優先して欲しいと、何度も言っているのにちっとも聞いてくれないのだ。無菌室用の使い捨て白衣に身を包んだ兄は、僕の視線を柔らかく受け止めて、安心させるようにゆっくりと微笑む。
八年前――。
両親と死に別れてから、兄は過保護になった。それまでも僕は入退院を繰り返していたけれど、母が世話をしてくれていた分、今はそれを自分の役目だと思っているようだ。
重荷にはなりたくないのに。
「なに暗い顔してんだよ! ちょっと熱が出たくらいで死にそうな顔をするんじゃない」
副作用で髪の毛がほとんど抜けた。頭の形が悪いからと嘯いて、バンダナで誤魔化した頭を無茶苦茶に撫で回された。僕はもう十八なのに、この扱いは十歳のときと変わらない。
「またちょっといろいろ制約が出たけど、それが無くなったら思いきり我がまま聞いてやるから。……それまで辛抱して治療に励もうな」
視線を兄から窓へと移す。
抜けるような青い空があった。流れる雲もなくて、まるで絵の具を塗り込んだ水彩画の一枚みたいだ。
この部屋から街に降り積もった雪を眺めて、顔を寄せた僕の息遣いで白く曇るガラスに書き込んだ大好きな兄の名前。
春には窓の開放を許されて、どこからか舞い込んできた桜の花びらをみつけた時には、
「花見がしたい」と兄を困らせたのも楽しい思い出で。
夏。
気温が急上昇するこの季節は大抵体調が崩れるから、こうやってベッドに縫いとめられてしまう。
兄と一緒に遊んだ丸いビニールプールでの記憶が、唯一の夏らしい思い出だ。
「どうした? 気分が悪くなったか」
兄の声が緊張していく。
違うよ、と言いたいのに僕は言えない。
本当に僕が口にしたいのはそんなことじゃないから。
兄の大きな掌がふわりと頬を包み、顔の向きを変えた。ぱちりと目が合って、僕は視線を部屋中にうろつかせる羽目になる。
朝にはきちんとセットしていただろう前髪は乱れて、僕と似ていない涼やかな琥珀色の瞳がこちらをみつめている。
「我がまま……聞いてやる」
どうしてそんな言葉を繰り返すのか。
僕の我がままは、けして口にしてはいけないものなのに。
「兄さん」
僕はね――
続く二の句は深く胸の中へ押し込んだ。
「にい……さ、ん」
身体中が悲鳴をあげて、軋み始める。痛くて堪らない。鼻腔が沁みるように傷み、涙が込み上げてくる。
「我がまま……兄さんのこと、呼び捨て、た、かったな……」
病室の白い壁と視界との境界が無くなっていく。僕の瞳には兄しか映っていない。
すごく嬉しいけれど、それが最後の風景だと頭の片隅が冷静に理解していた。
終わりだ。
兄が叫んでいた。
その唇に指を押し当てる。振動が伝わってきて、それが僕の胸を振るわせた。
「呼べばいい! いくらでも、好きなだけ呼べばいいっ」
僕がいなくなったら兄は独りきりになってしまう。
そう思うと、ふと告げてみてもいいかなと思ってしまった。この小さな思いを置きざりにしても、重荷にはならないかもしれないと。
慌しくナースコールを押した兄の手を引き戻す。その手をもう一度頬へ宛がって、精一杯笑って見せた。
「兄さん……ごめん。僕は――貴方が……好きだった」
ごめん、兄さん。
こんな最期になって欲が出た。
僕のこの思いが貴方の重荷になってしまえばいいと思ってしまったのだ。一緒に過ごしていくはずだったすべての季節を、別の誰かとはして欲しくない。
視界がゆるゆると狭まっていく。熱いのか寒いのかさえ感じない。目の前の兄から視線を離したくなくて、じっと……ただじっとみつめていた。
この瞳がなにも映さなくなっても、この声が貴方を呼ぶことはなくなっても。
この心は兄さんだけのもの――。
そして僕の告白に、ずっと縛られてくれたらいいのに。