第1話

文字数 2,767文字

食べ物の好き嫌いは誰にでもある。
小さい頃には苦手だった食べ物が大人になると食べられるようになる、なんて話もあるけれど、それでも、どうしても食べられないこともある.
しかし、時として、嫌いな食べ物を「嫌い」と言ってられないシチュエーションに出くわす。会社の大事な取引先との接待の時。恋人と初めて食事にレストランへ行った時。「私、これ食べられないんです。」とはとてもじゃないけど、言いにくい。

夕食時、テレビを見ながら、母特製のハンバーグを食べる、だけど嫌いな付け合わせのトマトをそっと端によけた。
「またトマト残して。もう子供じゃないんだから好き嫌いしないで食べなさい。」
母が僕に言う。そんなこと言っても嫌いなものは嫌いだ。昔から野菜嫌いな子どもだった。これでも、いろいろ食べられるほうになったんだ。でもやっぱり、大学生になった今でも、トマトは嫌いだ。
最初からお皿の上になければ文句も言われないのに。
僕はぼんやりとテレビに目線を向けた。スプーンのCMが流れている。
『消しゴムスプーン』
なんだこれは。僕は母に「ご馳走様。」と言って、急いで2階の自分の部屋に向かった。
 スマホの検索窓に「消しゴムスプーン」と入れると、さっきのCMの会社のホームページが出てきた。そのホームページによると、どうやらこういうことのようだ。
このスプーンは消しゴムのように食べ物を消すことができるらしい。普通のスプーンのように食べ物をすくうだけで、消すことができるのだ。しかも、消しゴムで文字を消すと消しカスが残るように、この消しゴムスプーンでもすくったものの汁やカスは皿の上に残るから、嫌いな食材をそのスプーンに載せて口に運ぶフリをすれば、周りの人からは食べたようにしか見えない、というものだった。
僕はすぐに通販サイトから消しゴムスプーンを購入した。
 数日後、大学から帰宅すると、消しゴムスプーンが届いていた。見た目はいたって普通の銀スプーンだ。本当にこれがCMでみた、あの「消しゴムスプーン」なのだろうか。さそく、僕はそれを試してみることにした。
 階段を下りて台所へ行くと、冷凍庫にバニラアイスがあった。僕はそれを一つ取って自分の部屋へ駆け足で戻ると、アイスのビニール製のふたを開けた。そして内心ドキドキしながらバニラアイスをすくってみた。すると、どうだろう。スプーンの上のアイスが10秒ほどの時間をかけて、ゆっくりと、しかし、確実に、雨が地面にしみこむように沈んでいったのである。最後は、あの、アイスが溶けた後のクリーム色がわずかに残っているだけだった。
 それからというもの、僕は食事の時は「消しゴムスプーン」を食卓に並べるのを忘れなかった。何年かかっても食べられなかったトマトもパクパクと食べている僕の姿を見て、母は驚きながらも喜んでいるようだった。

―――今度の週末、ここ行きたいな。
 バイト終わり、電車の中でスマホを開くと、メッセージが来ていた。送り主は同じ大学に通う彼女だった。同じ授業をたまたま隣の席で受けていた彼女に僕が猛プッシュして付き合い始めたのが、1か月前。「記念日になる今度の土日に美味しいものでも食べに行こうか。」と話していた。一緒に送られてきたURLを押してみると、グルメの口コミサイトで、大学の近くのイタリアンだった。店名とともに、トマトソースのパスタの写真が掲載されている。俺は、イタリアンが苦手だった。パスタに限らず、トマトが使われてることが多く、選択肢が限られている為だ。だから、彼女とのご飯もさりげなくイタリアン以外を提案してきた。しかし、今の僕には、「消しゴムスプーン」がある。
―――いいよ。
と一言返信して、僕はワイヤレスイヤホンを耳に着けた。
 次の日曜日、僕は彼女からの電話で起きた。
「やっと出た。今どこにいるの?」
家だけど、と寝ぼけながらスマホを見ると、彼女からのメッセージと着信の通知で溢れ、約束の時間を1時間以上も過ぎていた。
「ほんとごめん。すぐ出る。」
そう言って電話を切ると、ベッドから跳ね起きた。頭が痛い。昨日、サークルの先輩に飲みに連れまわされた。何杯飲んだのかも、何時に帰ったのかも記憶にない。とりあえず顔を洗った。クローゼットから適当に服を取って着替えると、普段の外出用のショルダーバッグに貴重品と「記念日に。」と買っておいたネックレスを入れて、家を飛び出した。
 待ち合わせ場所の駅に行くと、彼女はコーヒーを飲みながらベンチに座っていた。
「ごめん。」
僕はただひたすらに彼女に自分の過失を謝罪した。彼女は、
「もういいよ、早くいこう。」
と言うだけだった。
 重い気持ちのまま、イタリアンの店につくと、とりあえずということで、赤ワインとつまめるものを2,3頼んだ。料理とお酒を待っている間、彼女はいろいろな話をしてくれたが、僕は、2人にとって大事な日に遅刻をした罪悪感で、「うん、うん。」とぎこちない返事をするのが精一杯だった。
 そうこうしているうちに、店員が注文したものを届けてくれた。「美味しいそうだね。」と言いながら、彼女はサラダを小皿によそってくれる。あまりイタリアンの店に来る機会がなかったから知らなかったが、カプレーゼという料理は、トマトとチーズの料理なのか。
僕は、「消しゴムスプーン」を取り出そうと、ショルダーバッグの中を探す。しかし、入っているのは、スマホと財布と家の鍵、プレゼントのネックレスだけだった。
「食べないの?」と訊く彼女に、「あ、うん。」と答えて僕は手を伸ばした。できるだけ気づかれないように、カプレーゼ以外に。
 お酒もすすみ、いよいよパスタを頼もうとなった。メニューを見ると、1ページ目の写真に載っているのはトマトソースパスタだった。口コミサイトの写真もそうだったし、ここの看板メニューなのだろう。僕は店員を呼んで、恐る恐る、ひとつずつ聞いた。「カルボナーラ」というのが牛乳とチーズのパスタだと分かり、それを頼んだ。
 パスタを待つ間、プレゼント交換をしようということになった。僕は、ショルダーバッグからネックレスを彼女に渡した。彼女もゴールドの袋に赤のリボンが装飾されたものを手渡してきた。「開けて」と彼女に促され、赤のリボンを解いて中から出てきたのは、「消しゴムスプーン」だった。
「これ。」というと、
「この前、川瀬君たちとお昼にハンバーグ食べに行ったとき、付け合わせのトマト手つけてなかったでしょ?それで川瀬君にいじられてたじゃん。今日もカプレーゼ食べたのほとんど私だし。あ、トマト苦手なんだなって思って。そしたら、この前たまたまテレビでやってて。これがあれば皆の前で恥かくこともないでしょ。」
僕は、彼女の消しゴムスプーンで残りのカプレーゼを平らげた。
「子供みたい。」と彼女は笑っていた。
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