代走

文字数 1,998文字

母に向かって走っているところからわたしの記憶は始まる。波の音が耳に響き潮の香りが鼻を突いた。母は笑顔だった。後ろから聞こえた父の声は薄っすらと覚えている。
小学校にあがる前、父が死んだ。意見の合わない旧友に鉄パイプで頭を殴られた父は病院に運ばれたが意識をもどすことなく死亡した。病院の廊下の端で母は背筋を伸ばし黙って座っていた。
母とわたしは林の中にある小さな家に引っ越した。そのすぐ後わたしの右脚が動かなくなった。ウィルスが脊髄に入り込み脚を麻痺させたのだ。ひどく怯えたことは覚えているが、その直後にあった小学校の入学式にどうやって出席したのかは覚えていない。
母はわたしに杖を持たせなかった。わたしは鉄製のギブスを右脚に巻いて歩いた。体育の授業はいつも見学だった。ある日、教室から持ち出した椅子に座っているわたしに担任の先生が「まったく、男のくせに」と言った。わたしはどうしたら良いのかわからなかった。しばらくしてから、腹を立てなかった自分を腹立たしく思った。黙り込むことを覚えたのはこの頃だったと思う。
母は「人に頼るんじゃありません」と口癖のように言った。わたしに元気がない時は風呂場でわたしの背中を強くこすった。
「胸を張りなさい! 脚だって頑張れば動くようになります」
わたしは前のめりにならないよう必死に踏ん張りながら母の言葉を聞いた。


小学三年生にあがる時、海のそばの町で住み込みの仕事につくことになった母はわたしを伯父に預けた。伯父の家に連れていかれる道中、母が何もしゃべらなかったことを覚えている。
転校したての頃、学校の帰り道で上級生にからまれたことがあった。
「おまえ、へんな歩き方してるな」三、四人の上級生がニヤニヤしながら意地の悪い言葉を浴びせてきた。無視をしてやり過ごそうとしたが相手はしつこく離れなかった。そこへわたしと同じクラスの塚本が通りかかった。塚本は大げさな動作で向きを変えて走り去った。上級生たちは途端に逃げ出していった。わたしは塚本のことを頭のいいやつだと思った。すぐにもどってきた塚本は案の定「誰にも言ってないから」と言った。
塚本はサッカーが好きでわたしは野球が好きだった。
「審判が見てないときに平気で反則をするのはおかしいと思う」
「一球ごとにモタモタ時間をかけるのが苛々する」
そんな言い争いをよくした。野球をテレビでしか見たことのないわたしよりサッカークラブに入っていた塚本の方が言うことに説得力があった。
ある日、塚本がわたしに野球をするよう勧めてきた。わたしの代わりに走塁と守備を引き受けるというのである。走ることはサッカーの練習になるし野球の守備の動きはどのスポーツにも役立つ、と塚本は言った。同級生たちとの交渉も塚本がまとめ、わたしは放課後に野球をするようになった。わたしの振ったバットがボールに当たると塚本が走り出す。塚本は一気に加速して一塁ベースを駆け抜けた。わたしと塚本コンビの出塁率があまりに高いので、走り出す位置が後ろに下げられた。すると塚本はスタートラインを踏み出して構えた。指摘されても「踵がふれてるから」と言い返した。「細かいとこが大事だから」と塚本が言うので、わたしは半笑いをしながら塚本に加勢した。


五年生に上がる時、中学受験の勉強を始めるよう伯父から言われた。学費は母が出すと聞かされた。予算の都合で国立中学に行くことが条件だった。塾に通う費用はないので母には内緒で大学生の従兄弟(いとこ)が勉強をみてくれることになった。塚本に事情を話すと、サッカーが忙しくなってきたから丁度よかった、とあっさり了承された。それから二人は校内で会っても挨拶を交わす程度の仲になった。
六年生の冬、国立中学に合格した。卒業が近づいた頃、学校の廊下で塚本と出くわした。
「中学、受かった」とわたしから話しかけた。
塚本は満面の笑顔を返してくれた。
「中学でもサッカーつづけるんだろ?」
「サッカー部に女子は(はい)れないかもしれない。女子のサッカー部はないし、あっても男子の中でやりたいんだよね」塚本は真顔で答えた。
学校の部活が無理であれば隣町のクラブチームに入って男子と一緒にプレーすると言う塚本を励ます言葉が思いつかなかった。
「反則するなよ」
「それは無理。決定的な場面はリスク覚悟で身を挺する必要があるから」
笑顔に戻った塚本に、わたしは半笑いを返した。
「勉強がんばって」
(うなづ)くわたしを残して塚本は階段を駆け下りていった。


母に合格の報告をするため一人で電車に乗り込んだ。何度も乗り換え、母の暮らす町が近づくにつれ車内には子連れの家族が増えていった。わたしの降りた駅で乗客が一斉に降りた。賑わう構内を右脚をついて進んだ。階段の上り下りに戸惑っているうち、人影はすっかり消えていた。誰もいないロビーの先に改札があった。そのすぐ向こうに笑顔で待つ母が見えた途端、わたしの鼻を潮の香りが突いた。
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