第1話

文字数 1,037文字

「トンネルはいかがですかな」
  それは夕暮れ、家路をたどる俺に向け。怪しい男が声の主。
「なんだ、俺はさっさと帰りたいんだ。第一、トンネルとはなんだ」
 思わず怒鳴る俺に、男は何事もないように言葉を続ける。
「いえ、トンネルというのはトンネルでございまして、これをくぐれば誰であろうと、強く望んだ風景へ行けるのでございます」
「なに。それならそうと早く言え。望んだ風景というのは、どんなところでもか」
「ええ、それが例え記憶の彼方であっても」
 それを聞くと、俺は無性にそのトンネルをくぐりたくなった。
「それはいくらだ」
「一往復、一万円でございます」
「それは高い。半額にまけられないか」
 俺の言葉に、男は困ったような顔をする。
「できることはできますが、あなた様がどうなるか、保証はできませんよ」
「ああ、構わない。どうだ、もうくぐってもいいか」
「ええ、それでは良い旅を」

 トンネルをくぐると、途端に周りは真っ暗になる。
「これは困ったぞ、前が見えないな」
 すると、先の方にかすかな光が見えた。
「こちらに行けばいいのか」
 俺は一散にそちらへ向かう。やがて見えてきたのは、今はもうなくなってしまった、懐かしい田舎の故郷だった。
「やや、これは懐かしい。そら、そこには水車があって、そこには牛小屋。あの夕暮れの山のふもとでは、夏の終わりの祭りの準備をしているな」
 今はもう味わうこともない、山の匂いと祭囃子を聴きながら、俺は山の向こうに陽が沈むまで草むらに佇んでいた。

「さて。そろそろ帰るとしようか」
  立ち上がって、ズボンの草を払いながら俺はもと来たトンネルへ向かう。
「そう言えば、あの男は何やら言っていたな。まあ、大丈夫だろう」
 一度振り向いて、俺はトンネルをくぐる。もう二度と見ることのない風景を、目に焼き付けるように。
「あの光の方だな」
 やがてトンネルを抜けると、そこにはさっきと同じ風景が広がる。
「やや、これはどうしたことだ」
 慌てて、俺はもう一度トンネルをくぐる。するとその先も、また同じ風景。いや、違う。山の稜線が、調子の合わないテレビの画面のように少しずつずれている。
 もう一度、俺はトンネルをくぐる。その先もやはり同じように少しだけずれた風景。空の色相は崩れ、建物は捻じれ、祭囃子は高く低く歪み、やがて、ふつりと音は途切れる。
 それでも、元の世界を求めて、俺はトンネルをくぐり続ける。やがていつしか、世界は形をとどめないほど崩れ落ちて。

 歪み壊れたのは、世界か、この俺だったのか。
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