第4話 怨み

文字数 608文字



 菩薩の顔から聖なる笑みが消えていった。現れたのは怒りを(あらわ)にする、人間の女性の感情だった。

(ちぎり)を約束した我を捨てたのは誰じゃ! 宿した子を捨てよと命じたのは誰じゃ! 最愛の者に裏切られ、般若になるべくこの池に身を投げた我を閉じ込めたのが、二百年目に咲いたこの蓮の花じゃった」

 雲龍はその言葉を黙って聞いていた。菩薩の語りに、嘘偽りは無いのだろう。僧は悟った。

「だがそれは不幸ではなかった。蓮の(ふところ)で過ごす長い年月が、身に巣食う鬼の心を癒やしてくれた。我は弥勒菩薩となった。そなたが呼ぶ『那智』という娘は、もうこの世にはおらぬ。西の龍よ、ここを去るがよい」

「待て! これだけは信じてくれ。あの時、私は父母の反対を受けて心が錯乱していた。お前を(ののし)った非道な言葉の数々、いまも血を吐くほど後悔している。

 だが私は罰を受けた。行方知れずとなったお前を殺したと決めつけられ、龍の洞窟の生贄にされたのだ。だが運良く(ぬし)に喰われず、奴の血を口にできたのは、本当に偶然だった」

戯言(ざれごと)は十分じゃ! さっさと()ぬか!」

「龍の血を飲んだ私は人の身を越え、雲の上に住む神の眷属(けんぞく)となった。だがとこしえの命を得ても、焦がれるのは、那智……お前だ。我が腕が抱けなかった子の温もりを求めるのだ!」

「勝手を抜かすな!」

 池の水が真っ赤に燃え上がった。菩薩の怒りが現世に炎熱(えんねつ)地獄を作り出したかのようだった。

 だがそれは一瞬で、すぐに池は静けさを取り戻した。
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