雑居ビルの隙間

文字数 1,592文字

 月末ということもあり、業務が忙しい日だった。
 仕事がひと段落し、会社が入居している雑居ビルを出る。最近はどこもかしこも禁煙なので、一服は雑居ビルの裏でこっそりしていた。
 僕の吸う銘柄は、学生時代の想い人と同じものだ。煙草をなかなか止められないのは、恋の未練がましさもあるかもしれない。

 予想外なものを目撃した。
 僕が出た雑居ビルと隣のビルの隙間に、若い女性が挟まっていたからだ。
「あ~。うーん」
 女性は唸りながら、尻を振っていた。顔は向こうで、こちら側からは臀部が見えていた。
「どうしたのですか?」
 僕は声をかけた。このままでは喫煙所にしているビルの裏側に行けないからだ。遠回りをすれば行けないことはないが、疲れているので最短ルートを歩きたい。
「す、すみません。ビルの隙間に挟まってしまって」
 女性は振り返ろうとしたが、物をもっているようで顔が半分だけこちらに向く。
「そこにいると通れないのですが……」
 僕が非難すると、女性はもぞもぞ動いたが、後退も前進もしていない。
 二十歳くらいの女性かと思ったが、よくよく見ると中高生くらいの女子だった。僕が若くして結婚していれば、これくらいの子供がいてもおかしくはない。生憎、僕は独身の38歳だ。
「その、私も通りたいのですけど、ビルの間に引っかかってしまって」
 女の子はぺこぺことお辞儀をしたが、顔はあちらに向いているので意味がない。
「どこが挟まっているのですか?」
「手と鉢がビルに挟まっています」
「鉢?」
 僕は訝しげに聞いた。
「観葉植物が入っている鉢です」
「なるほど」
「手はなんとか抜けることはできるのですが、そうすれば鉢は不安定になるし……」
 背中越しの会話だと、状況がよく飲み込めない。
「そのままの体勢で待っていてください。裏からそちらに行きます」
 僕は提案した。やれやれ、一服どころではなさそうだ。
「お願いします」

 ぐるりと裏側から回り、彼女の挟まっている場所に着いた。
 目鼻立ちのはっきりした少女だ。化粧っけはない。僕を見ると不思議そうな顔をしたが、
「ああ。声をかけてくださっていた人ですね」
 瞬時に声の主と理解したようだ。
 手元をみると、両手で大きい楕円形の鉢を抱えている。ちょうど左右のビルの凹凸に挟まっており、テトリスのようだ。どのような状況でこのような事態になったかは謎だ。
「どうしましょうか。疲れるだろうから、一旦、僕が持ちますか?」
 提案すると、彼女は「はい」と頷いた。
 慎重に鉢を触り、少女と交代して持つ。
「ありがとうございます。肩が楽になりました」
 鉢越しに少女は礼を述べた。彼女の顔は見覚えがある。どこか懐かしく、胸をチクチク刺激していた。
「とりあえず、これをどうするかだな」
 鉢の中には木のような観葉植物が入っていた。植物のサイズは鉢に合っておらず、もっと小さい鉢植えでも事足りそうだ。
「この植物小さいのに、鉢は大きいんだね」
「すみません。この植物はパキラといって、どんどん大きく育ちます。だから、先に大きい鉢にしてしまって……」
 少女は申し訳なさそうに言った。
「うーん」
 僕は鉢をくるくると動かしてみる。
「あれ」
 すると、すっぽりと鉢はビルの隙間から抜け出すことができた。
「やった!」
 少女が快哉を叫んだ。
「なんだか、知恵の輪みたいだな」
 僕は苦笑した。
「ありがとうございます」
 少女の満面の笑みに、僕は遠い記憶を呼び覚ます感覚があった。
(ああ。これはもしかして……)
 昔のメモリを起動させると共に、休憩していないことを思い出した。
「一服していい?」
 煙草を取り出し、少女に尋ねる。
「どうぞ」
「じゃ、遠慮なく」
 紫煙をくゆらせ、僕は呆然とそれを見ていた。少女はまだ傍にいる。
「あ、この匂い」
 彼女が反応した。
「お父さんと一緒の匂いだ」
 少女は微笑んだ。

 その笑顔は、


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